お友だち(偽) | ナノ

42 書類の人(結婚話)


 

真遠(まとい)



***



 明日の夕飯は何にしようか、というかのような声で鬼島は言った。

「ナツくん、結婚しようか」

 対するナツは鬼島のお向かいでおせんべいをくわえてばりんと割ったところで、ばりばり音を鳴らしながらあまりに唐突な言葉にただ「はあ」と答えた。
 緩く波打つ黒髪天然パーマの前髪の向こうからは今日も冷ややかな眼差しがレンズと髪を越えてナツの方へ注がれている。

「言っている意味、わかった?」
「ええと、いきなりだったので。結婚しようって……ええ!?」

 驚きながらもしっかりとおせんべいを飲み込んでいる辺りはさすがナツであると言える。

 すっかり鬼島がいることにも馴染んだいつものアパートの一室で、夕飯後のおやつにと鬼島が持参してきてくれたおせんべいをまさに手に取ったところでの結婚してくださいに驚きが隠せない。

 一口大きく齧った塩せんべいを片手に目をまん丸くしているナツが可愛らしく、やはり言うなら今のタイミングが一番だったな、と鬼島は口元を緩めた。それはもうだらしなく、いかにも可愛いと言っているように。

「なん、なん……な、」
「なんで急に、今?」

 驚いて形にならない言葉を引き取ってくれた鬼島に、こくこくと頷く。
 鬼島は軽く首を傾げて、今が一番でしょ、と当然のように口にした。

「ひとつ、ナツくんの受験が控えている。三年生になったでしょ。今のうちに結婚しておけば大学で不便しないと思って。鬼島になるでもいいし、鬼島さんが納谷になるでもいいけど」
「おれは結婚するなら鬼島がいいなって思ってましたよ」
「じゃあその辺の変更も含めて今がいいと思うんだよね。大学入ってからあれこれとか、大学出てからあれこれとか、大変だからね」
「それは確かに……」

 名字を変更する作業は地味ながら大変だと聞く。ばりばりとおせんべいを咀嚼しつつ、なるほどなと説得された。

「ひとつ、鬼島さんはすぐにナツくんと結婚したい。それで夫婦だっていうことを世間に知らしめたい。日々可愛らしさを更新するナツくんを自慢したい」
「それは照れます……」
「もう今年の年賀状にナツくんの写真載せて『結婚します!』って言っちゃったし」
「言ったんですか!?」
「言ったよー」

 知らなかった事実をさらりと知らされ、ナツの目が白黒する。鬼島はたびたびとんでもないことをするが、まさか自分との人生における大きな出来事を勝手に人に告知していたとは考えもしなかった。

「言っちゃった手前、結婚しちゃわないとね」
「そんな理由で」
「最上の理由は可愛いナツくんを」
「わかりました」

 顔を真っ赤にしておせんべいの最後を口に入れ、ぼりばりするナツが可愛い。

「結婚してくれる?」
「はい」

 なんとも日常的で緩やかだが、鬼島らしい結婚の申し込みだと思った。

「結婚するとなると、証人が必要なんですよね」
「ナツくんは未成年だから保護者の署名もね」
「ふむ……保護者というと、一応確かマスターになっていたような」
「鬼島さんの証人は誰にお願いしようかなー」
「鬼島さん、頼める人がいるんですか」
「失礼な。いるわよ」

 書類は家にあるからねと言われ、既に準備を始めていたことに驚く。用意周到とはこのことかさすが、と思っていると、鬼島の声で「十年以上前から準備してたよ」と聞こえたような気がした。気のせいに違いない。


 週末、受験勉強をお休みにしてナツは夜の弁天町に出ていた。
 マスターのところには夕方、店が始まる少し前に鬼島と共にお邪魔して署名捺印を貰っている。初めて婚姻届を目にしたときはなんだかどきどきして、マスターに差し出すのも気恥ずかしい思いだった。

「結婚すんのか? これと!?」

 これ扱いされた鬼島はどこ吹く風、口元に薄ら笑いを浮かべてやりすごした。考え直さないか、と言うマスターにナツは照れ照れと「鬼島さん以上に大事にしてくれる人はいないので」と口にした。その時の鬼島の勝ち誇ったような顔を見たのはマスターだけである。
 赤い細軸のボールペンで記入しながら「保護者は俺になってるけど、夏輔、ちゃんと確認した方がいいぞ。戸籍」とマスターが言った。

「戸籍?」
「確か、ちゃんとした名字は納谷じゃねぇはずだ」
「え?」
「蓮さん、動かしてねぇって言ってたと思うんだよな」

 思いがけないことだった。その足で弁天町の町役場に行き、確認したところ確かに夏輔の名字は『日置』であり、父のところは『秋輔』となっている。生年月日を計算してみると、今のナツより若い頃にナツが生まれた計算だ。

 知らない名字、知らない父親。

 急に目の前に出てきた事実に、ナツは動揺が隠せない。蓮が実の父親ではないことは知っていたが、まさか戸籍がそのままになっていたとは知らなかった。今まで見たことがなかったし、どこでも『納谷』で通っていた。
 そこにも鬼島の見えざる手が動いていたことまでは思い至らなかったが、ちょっとお外に出てきます、と鬼島をアパートにおいてふらふらと夜の街を歩きながら大きく息を吐く。
 知らず、足は駅前の梅が枝青果店に向いていた。

「夏輔、どうした?」

 店先の定位置に座ってお茶をすすっていたうめちゃんが話しかけてきた。今日は体調がよさそうで、顔色もいい。穏やかな青年の顔を見た途端、ぶわりと涙が溢れてきた。何の涙かはよくわからないけれど、とにかく泣いてしまったのだった。

 腕を引かれ、店の中の上がり縁へ座らされる。
 べしょべしょと泣くナツに差し出されたのは『梅が枝青果店』と書かれた新しい手ぬぐいだった。上から差し出されたのでそちらを見ると、聖の端正な顔が見える。

「ひじりちゃん」

 ぐしゅぐしゅ泣く夏輔の頭を撫でてくれ、しかし涙が止まらないので「これは俺じゃだめだねえ」と言う聖の声がした。

「夏輔が泣くんだったらいけめん用意しなきゃね」

 とうめちゃんの声がする。


 しばらく新しいタオルに顔を埋めてぐすぐすしていると、良く知った手の感触が頭を撫でた。顔を上げると、色素の薄い中性的な顔をした青年がナツの前に立っている。紫のようなグレーのような髪、走ってきたのか僅かに息が上がっていた。

「まーくんー……」

 見慣れた、安心するその姿。
 わあああ、と泣きながら腰のあたりに抱き着くと、おお、と驚いたような声。しかしすぐに後頭部の辺りをよしよし撫でられた。

「どうした夏輔、いじめられたんか」

 幼い頃と変わらない、ぱきっとした低い声が尋ねてくる。いじめられてはいない、首を横に振る。

「とりあえず泣け泣け。悲しいときは泣くのが一番だ」
「真遠、あとは頼んだよ」
「おう。うめちゃんは店番に戻りな」

 真遠は幼い頃からナツの一番の友人だった。
 まだ年若くして何があったか弁天町に流れてきた真遠は蓮とナツが住むアパートのすぐ近くに住み、風俗店で勤務しつつほぼ毎日幼いナツと遊んでくれたのである。蓮が亡くなってからはマスターと一緒になって面倒をよく見てくれた。
 ナツが鬼島邸にいるようになってからはマスターと共に鍵を預かり、ときどき風を通したり水を出したりと管理してくれている。
 色素が薄く、くっきりした顔立ちできつめの目元ながら、輪郭の丸さがそれを和らげている。長身の美男であり、人好きもする気軽な性格なので今も風俗店では人気があるキャストだ。とは言えほとんど経営のほうに回っているが、指名したいと昔からの馴染み客や新規の客が遠方からも足を延ばしてやってくるほどには名高い。

「気が済んだか」
「うん」

 隣に座った真遠に肩を抱かれ、引き寄せられた。昔から変わらない香りがする。安心するけれどちょっとだけどきどきする、なんだか色気のある香り。幼いナツにもわかったほど、爽やかな色気を昔から持っている。

「なんで泣いてた?」

 グレーの瞳に顔を覗き込まれ、蓮と自分の戸籍のことを説明する。

「おとーさん、おれのこと、本当はあんまりよく思ってなかったのかなって一瞬思っちゃった」

 ナツが口にすると三つの声がそれぞれ同時に「それはない」と言った。
 うめちゃんは「目に入れて持ち運びたいって言ってたし」と言い、聖は「夏輔のためならなんでもできるって言ってた」と言い、真遠は「夏輔に簡単に手ぇ出したら首だけ出して地中に埋めて、顔にははちみつ塗って放置してやるって言ってた」と言う。

「とにかく蓮さんが夏輔を愛してないのはありえない」

 きっぱりとしたうめちゃんの言葉に、うんうんとふたりが同時に頷く。

「そうかなあ……」
「蓮さんのことだし、なんか理由があって戸籍をそのままにしておいたんだと思うけど」

 聖が、艶のある短い爪を備えた指先でナツの頬をつつく。

「ま、今は確認のしようがないけど。でも、蓮さんの愛情は間違いなく夏輔に溢れんばかりに注がれていたっていうのはこの町の誰もが言うと思うよ」

 証人はいくらでもいる、との言葉に、ナツはおぼろげに蓮と過ごした時期のことを思い出した。いつだって笑顔でナツに向かい合い、怒ったところは見たことがない。疲れた顔も思い出せない。ただいつも笑顔で抱きしめてくれた大きな姿を思い出すだけだった。

「おとーさんに会いたいな」

 ぽつんと零すと、真遠の腕が柔らかくナツを抱きしめてくれた。


 帰宅すると、赤い目を見た鬼島が飛び上がるようにして驚き「誰に泣かされたの鬼島さんの可愛いナツくん!」と抱きしめてきて、くんくんにおいを嗅ぎ「あの管理人野郎ね」となぜか特定したので、思わず笑ってしまう。

「大丈夫です。もうすっきりしてきたので」
「蓮さんのこと?」
「はい」

 ちゃぶ台を挟んで向かい合う。ナツの後ろの網戸から、涼しい風が吹いてきた。ひぐらしの鳴き声も聞こえてくる。

「おれ、納谷夏輔として結婚したかったんです。ずっとそうやって生きてきたので。でも突然見知らぬ人が出てきてびっくりしちゃったんです」
「そりゃそうだよ」
「……この人、今どこにいるかわかりますか」

 とん、とナツの指先が、書類の父親のところを示した。鬼島の顔が渋くなる。

「知ってるんですね」
「知ってるけどぉ……」
「会いに行ってみたいと思います。どんな人なのか、すごく気になるので」
「ナツくんが興味を示すとは思わなかったわ」
「こうならなければ興味はなかったです。おれのおとーさんは納谷蓮だし、家族はこの弁天町のみんなと鬼島さんたちです。でも、こうして人生の節目に出てきたのなら会ってみたいと思うようになりました」

 ナツは梅が枝青果店で少し、実の父親についての話を聞いていた。うめちゃんが知っていたのだ。
 曰く「夏輔はびっくりするかもしれないけど、悪い人では、ない。ただ少し考えが浅いっていうか、衝動でふらっとする節があるっていうか」とのことだ。ナツが信頼するうめちゃんが言うので、多分本当に悪い人ではないのだろう。

「とりあえず鬼島さんから連絡取ってみて、向こうがどう言うか、っていうの見てみてもいいかな。ナツくんが急に会いに行ったら、多分さすがのあの人もびっくりすると思うから」
「びっくりするような人なんですか」
「うん」
「わかりました。鬼島さんにお任せします」

 数日後、鬼島邸で勉強をしつつ鬼島の帰りを待っていた。傍には談がいて、今日の夕飯について考えているようだ。

「談さんは、おれの実の父親って人に会ったことがありますか」
「ありますよ。なんていうか……軽やかな方で」
「軽やか……談さんよりも、ですか」
「ええ」
「おお」

 それは想像していなかった……とナツが呟くと、ふふ、と談が笑う。

「強いて言うならナツさんに似て非なる存在ですかねえ」
「似てます?」
「ところどころ似てます。そういえば、鬼島社長に結婚を申し込まれて了承したそうで。おめでとうございます」
「はっ! そうだありがとうございます。そっちの件が大きすぎて忘れかけてました」
「鬼島社長が聞いたら泣きますよ」
「言わないでくださいね」

 障子の向こうに既にいた鬼島が、酷いじゃないのと飛び込んでくるまであと五秒。


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