24時間いつでもおいで
鴨谷 イェスタ(かもたに いぇすた)
エレオス・クロロス
◇
イェスタは、人の気配に敏感だ。もう五年ほどになる俺にさえ怯える時がある。まだまだこれからだな、と思いつつ、疲れきってソファに伸び切り、羊の抱き枕に顔を埋める小さな彼に声をかけた。
「イェスタ、夕飯食えそ?」
うん、と細い声がした。絶対食べられないと思うような声だ。俺に気を遣って無理やり食べ、夜中に戻して窒息しかけたことや枕をだめにしたことが何回もある。様子を見ながら熟考してスープはどうかと尋ねると、いけそう、と返事があった。
「いーちゃん、スープ来た」
甘やかすときには、いーちゃん、と呼ぶ。自分でできるか? と聞けば、羊に頬を寄せたまま口を開ける。小さな、つんとした上唇とぷにぷにの下唇の奥に白い歯と赤い舌。みんな小さい。床に座って、冷めきったそれを口へ流し込む。時々混ざる柔らかな野菜やベーコンをもむもむ、舌と上顎で潰して飲んでいた。
「おいしい?」
「ん、おいし……」
果たして感じているのだろうか、味を。
とりあえず口に入れてやりながら、イェスタが過ごす昼間の、彼が言うところのオンの時間について考える。
仕事中は誰に対しても億さず話し、強気な態度で目を合わせ逸らさず、最後まで衰えない弁舌と豊富な知識で勝ち抜く。依頼人からの信頼も厚い、やり手弁護士と言われる存在だ。普段は真逆の様子しか見ていないので、初めて裁判を傍聴した際にはだいぶ驚いた。まるで、というか、全くの別人で同じ顔名前の人物がそこにいるような気持ち。
いつも帰宅してきて玄関からシャワーへ直行するまでの廊下で多分エネルギーが切れるのだろう。だいたい脱衣所で座り込んで壁に寄り掛かり、ぐったりしている。俺が拾いに行って一緒にシャワーを浴びながら身体を洗ってやらねば意識が遠のくくらいに消費しているらしい。特に、裁判なり慣れない相手との交渉なりがあった日は。
そこまでしてオンの自分を演じなければならないのか、と、世話係になった当初は思った。イェスタの雇用主に聞いてみたところ、曰く「普通になりたいんだろうねぇ」――鴨谷イェスタを知り尽くしている雇用主によれば、イェスタはいわゆる『普通』に対してとても憧れがあるらしい。その憧れだけが、オンの凄腕弁護士モードを支えているのだそうだ。しっかり人に関わり、しっかり仕事をし、しっかり社会に溶け込む。
俺からしたらぼんやりしたイメージに支えられているのは危険な気がする。
そう呟くと、白黒の不気味な雇用主は読めないいつものにやにや笑いをうかべたまま「それは絶対に本人の前で言っちゃだめよ」と釘を刺してきた。根底に疑問を持たせるのは危ないから、ということだとわかった。同時に強すぎるほどの、強烈な否定になる。
そんなこともあり、せめて本人が好きな自分を演じきって舞台から降りてきたら一切合切面倒を見よう、と決心したのだが。オンにはどうやら「飲食」や「会話」も含まれているらしく、オフになるとおぼつかない。視線は右下を見たまま絶対に合わないし、許可なく触れると震えるほど嫌がる。衣類やお気に入りの羊の抱き枕、寝具など肌に触れるもの、食事の種類などにもこだわりがあるようで、というか、はっきりしたルールがあるようで、それから外れると混乱してしまう。
もっと言うなら、時間にも。
オンの仕事時間は残業でも我慢できるようだが、家に帰ってきたあとから何分後何時間後までにこれをする、というのがおおよそ目安としてあるらしい。それがずれるとまた、何からしたらいいのかわからなくなってしまうようだ。
しかし、全く融通が利かない訳では無いらしく、こちらから「十五分くらい遅くなってもいいか」と具体的に聞けば整理がつくようだし、本人ないしお気に入りのものに触るときも「触っていいか」「洗っていいか」などなどの許可を得たら構わないようだ。
俺からしたら別段、面倒だとは思わない。人には大なり小なりこだわりがあるし、それがちょっと顕著なだけ。一日の圧倒的な時間を自分ではない自分として生きている反動だと思えばなんてことはない。
「よく食べたなーいや飲んだな? まあいっか。えらいえらい」
空になったスープ皿を見せると、ふにゃりと恥ずかしそうな微笑が浮かぶ。可愛らしい。小さな、たまに中学生高校生に間違えられるほどのイェスタの童顔。そこに浮かぶ表情も幼く純粋だ。ほとんど、無表情か眉間に皺を寄せたような険しい顔しか見なかったりするが。
早々にうとうとし始めたので寝てしまうと急いで洗面台に連れていく。もちろん許可を取って抱き上げて。
寝る前の準備を終え、ベッドに転がした。壁の方を向いた側位、身体を丸めて太腿の間に手を挟んで寝る姿勢。夏でも関係ない羽毛の掛け布団をかけてやり、羊の抱き枕を隣に添える。
「おやすみ、イェスタ。もし嫌な夢とか、なんか不安になったらいつでも俺の部屋に来てベッド入っていいから」
「うん……おやすみ」
すぐにぷうすか寝始めた。眉間に皺を寄せ、羊に顔を押し付けて。
居間兼イェスタの寝室である部屋の電気を消し、白い引き戸をゆっくり閉める。頭の方にダイニングの灯りがいかない程度までにして、閉め切りはしない。シンクで皿を洗って、ダイニングに一脚だけ置いてある白い椅子に座った。鍋が入れてある棚からノートを引き抜き、今日の食事の様子を書き込む。
夜の野菜スープはまだ嫌がっていないが、小鳥が飲む程度の皿を空にしているだけ。朝は8枚切り食パンの4分の1。これがここ二週間の朝晩だ。昼は事務員さんに聞き取りをしているが、今日は少なくとも事務所では食べていなかったという連絡が二週間続いている。
二週間前に昼夜と依頼人との会食が続いたことがあった。気を張って話して食べて飲んで、また飲食に対して怖いというか嫌悪というか、悪い印象が残ってしまったのだろう。難しい。どこかで、食べることができるようになれば。
頭の中にある『いーちゃんお気に入りレシピブック』を開く。やはりお粥始まりで徐々に副菜を増やすか、最初に麺類をもっていくのが王道だろうか。
「う……ひっ……」
イェスタの不穏な声が聞こえた気がした。
即座に脳内レシピブックを閉じ、冷蔵庫横のラックに重ねて置いてある嘔吐用の容器をふたつ掴んで部屋に飛び込んだ。
ベッドの頭側から羊を引っこ抜き、容器を当てたあたりで、けぽ、けぷ、と戻りがあった。羊が汚れると悲しさ情けなさが増すらしく、泣く。その姿を見たくないのでシーツや他は仕方なく思うが、羊だけは死守。絶対に守らねばならない。
「いーちゃん、俺が見誤ったわ。今日は本当に無理だったんだな。辛いよな、本当に申し訳ない……全部出して楽になろう」
身体が震える度に液体が出てくる。詰まらないかが不安で、少し顎を引き上げた。一緒に器も。未消化の小さくすりつぶした野菜や小さくなったベーコンのようなものもまだまだ出てくる。たまに我慢しそうに口を閉じる。
「いいよ、全部出して」
涙目でちら、ちらとこちらを窺う。申し訳なさそうに。だから「触るよ」と言って許可を取り、背中を柔らかく撫でた。
「出しな。れにー絶対怒らないから。それどころか褒めちゃう。よくやりましたって」
苦しそうな嘔吐は少々続いた。吐き終えてぐったりした様子になりつつ、横になっている。口を拭いてやり氷を一粒口の中へ。右を下にして、羊を求めたので抱き枕を抱かせた。
「ごめん……」
嘔吐後の辛そうな声で謝罪。
「いーちゃんのせいじゃない。量を見誤ったのは俺。いーちゃんはよく吐けてえらいえらい」
「ごめん」
すっかり元気をなくしてしまった。
「胃とか痛くない? お腹とか」
「うん」
「眠れそう?」
「うーん……」
羊をなでなでしている。不安そうだ。
「良ければ、俺、ずっとここで見てるけど。安心するなら」
ここ、とベッド脇の床を示す。イェスタは少し考えてから、ゆっくり身体を起こした。
「れにーの、ベッドに……寝てもいい?」
「いーちゃんがいいなら。いつでも来てっていうことばに嘘はない」
「じゃ、いく」
ぺたぺた、羊を抱いて後ろをついてくる。身体が少し楽になったような足取り。うがいをさせたり水を飲ませたり歯磨きをさせてから、居間兼イェスタの寝室になっている一室すぐ隣の、同じ素材の引き戸を開ける。俺の身体に見合ったベッドはイェスタが気に入っているシーツと同じものを掛けてある。そこへ横になり、先に目を閉じる。
「眠れそうになければ最終手段があるから言って」
定期的に通う精神科で出されている睡眠薬。俺の部屋のクロゼット内部の高い場所にしまってあるもの。
「れにー」
「ん?」
「……隣、寝て、頭、なでて」
言われた通り、隣に入って頭を撫でた。そのうちに距離が縮まり、ぎゅっと抱きついてくる。羊はイェスタの背中のほうにある。
「れにーはいつも優しいね」
「いーちゃんが大好きだから」
「いつでも優しい」
促し、また常温の水を少し飲ませる。
「二十四時間、どんなことでも頼って欲しいと思ってる」
「ふしぎなひと……」
ようやく、イェスタが眠った。長い時間様子を見ていたが、今回は何も無く眠っている。大丈夫そうだ。
少し安心して息を吐いた。
イェスタが平穏に家にいられれば一番良い。そして栄養を取って飲食がよくできたらより良い。
明日は何を食べてもらえそうだろうか。
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