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(2)

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《12月17日/時刻22:45──》
カチ、カチ──…。
秒針が進む音がする。
そう広くはない部屋の中、白い死神と呼ばれる喰種捜査官が見下ろしている。
捜査官の名を失った喰種を。自分を。
カチ、カチ…、と。
刻み続ける音がする。
これだけの時間があれば、有馬は何度、自分を殺せただろうと琥珀の頭に浮かんだ。
絨毯の敷かれた床に琥珀は膝を折って座り込んでいた。
触れるほどに近く、有馬も膝を着く。
先に口を開いたのは有馬だった。
いつも言っているだろう、琥珀、と。
「琥珀、それじゃあ戦えない」
「…どんな状態でも…赫子は出せます。そう、あなたに鍛えてもらいました」
「そうだったな」
でも、と続ける。
「こんなに泣いていては敵が見えない」
有馬の言う通り、見上げる琥珀の視界は涙を湛えて、酷く滲んでいた。
せめて目だけは逸らすまいとして顎を上げる。
「…まだ、っ……泣いてないです」
「強情だな」
「…昔からです…」
「知っている」
「私が…隊から外されていたのは、このせいですか」
「そうだ」
「私が…必要、なくなったからですか…」
「ああ。隊に、お前はもう必要ない」
有馬の声はやはり平淡で、見えない痛みを受けたように琥珀は身体を震わせた。
自分の何がだめだったのか。
何かを失敗したのだろうか。
今、切り捨てられる理由は──…。
0番隊には新たな人材が入った。白日庭で育てられた優秀な子供たち。
Qsもまた成果を挙げている。人間でありながら喰種の能力を持つ彼ら。
片親は人間であるはずなのに、人間を喰い繋ぐことでしか生きていけない自分とは、違う。
幾つかの思いが心に爪を立てて通り過ぎた。
けれど、まさか本当にという衝撃の方が大きかった。
信じたくなかった。
言葉を紡ぐ前に唇から短く息が零れて、ついに涙がぱたりと落ちる。
「俺が憎いか?」
「──…。いつまでも、このままじゃいられないことは…理解していました」
気持ちを落ち着かせるように琥珀は深く呼吸をする。
終わる時が来ると、ついこの間、琲世にも言われた。
「本当なら、捕まった時に殺されていたはずです。今までがとても……、私はとても、幸運だったんです」
「望まない戦いをさせられていても?」
「好きな人と…、丈兄と一緒にいられましたよ」
「………」
自然と小さく微笑みが浮かぶ。
丈の名前を口にすると、どうしても…どんな時でも、心があたたかくなってしまう。
一度流れてしまった涙は堪えようとしても止まってくれず、琥珀は何度も頬を拭う。
琥珀の手を手伝うように、有馬が指を添えた。
少し荒れていて、ささくれを頬に感じた。
男の人の、けれどやはり丈とは違う指先だ。
「俺を殺して逃げることもできる」
「私に…有馬さんは殺せません」
「お前の今の技量なら不可能じゃない」
「…有馬さんが鍛えてくれたからですか?」
「ああ」
「それでも…成功率が低すぎます」
「諦めるのか」
有馬の指を受け入れながら、琥珀は、「どうしてそんなに殺させたがるんです」と困ったように笑った。
「…。私には、できません」
「どうして?」
「有馬さんには…早くコクリアに戻ってもらわないと困ります」
「それは、タケが琲世と戦うことになるから?」
「──…」
琥珀は、諦めたような、観念したような吐息を零す。
「…知ってたのに、琲世君を止めなかったんですね」
「止めてどうにかなる程度の気持ちなら、あれも最初から動かない。…お前もそうだろう。知っていたから止めなかった」
「………」
「あれは"ハイセ"であり、"カネキケン"だ。俺はカネキケンに会う必要がある」
「カネキ…ケン……」
有馬の言葉の意味はわからなかったが、しかし琥珀は首を振った。
「それならなおさらです。……こんな所に留まっていないで、早くコクリアへ戻ってください」
有馬が戻ることは、ここでの用事を済ませていくことに他ならない。
その用事が自分の処分なのか或いは他にあるのか、琥珀には結局わからなかった。
けれどそれも、今となっては知る意味もない。
「あれほどタケに執着していたのに、随分と簡単に手離すんだな」
「…手は……離れてしまいます。…でも諦めたんじゃありません」
「どう違う」
「私が暴れて、ここから逃げて、丈兄のところへ行くよりも……有馬さんがコクリアへ戻った方が、丈兄の身は安全──…そうでしょう…?」
手が震える。
琥珀は自身の手を押さえるように重ねた。
戦いが避けられないのなら、強い者が共に居た方が良いに決まっている。
捜査官の立場も失った自分にはもう、出る幕がない。
「お前は確実にタケに会えなくなる」
「会えなくても──…いいんです。丈兄が無事なら…私はそれでいい……」
「………」
「それとも、有馬さん。私をコクリアへ連れていってくれるんですか?」
「……それは出来ない」
「…、」
私は、まだ──と。
声にならない言葉が喉の奥で留まった。
まだ戦えると主張したところで、有馬が"要らない"と判断したものを、一体どう覆せる?
琥珀の知る限り、有馬が判断を誤ったことなど無い。
琥珀だけではない。
他の誰であっても…有馬が局に不利益をもたらした場面など見たことがない。
頬に触れたままの有馬の温度を感じながら、琥珀は瞳を伏せる。
死神を前にした気持ちとは意外と静かなものだ。
いや、静かであろうとしているだけだ。
考えてしまえば抑えられなくなる。
自分は…どうなるのだろう。
コクリアに連れていかれて死ぬのだろうか。自分が捕まえた喰種のように。当然の報いだ。
いっそ今、頬を撫でるこの手で有馬に殺されたなら。
窒息であれば、喰種でも確実に死ねるはずだ。
"死"で埋められる琥珀の思考。
死ぬことなんてわかっていた。
丈と共に歩める時間は遠くない日に必ず終わると。
だからその時に後悔の無いように、いつも伝えてきた。気持ちを。心を。
それでも。
やはり、ぽつりと浮かんでしまう。
「(丈兄に、さいごに会ったのは…いつだっけ──…)」
ぱたぱたと。
どうしよう。
困ったことにまた泣けてきた。
涙と共に現れる整理現象に、ぐすっ、と鼻をすする。
同時に、控え目な溜め息が降る。
──脅かしすぎたな。と。
再び鼻をすすった音に掻き消されて琥珀の耳には届かなかった。
有馬が何か言ったことを感じ、俯いていた顔を、おそるおそる、ゆっくり上げる。
頬を撫でていた手は、いつしか頭を撫でていた。
琥珀の髪を整えるように。
一房ずつ絡めながら、指が滑る。
「……。俺は、所有権を破棄すると言った。誰かに譲るわけでも…局へお前を返すつもりもない」
「……?」
早とちりをするな、と。
今度はちゃんと聞こえた。
「…だから琥珀、お前を局の外に逃がす」
有馬の眼鏡は素通しだ。
ただの硝子が填まっている。
いつからか、視力を補う役目を止めていた…。
その眼鏡の向こうで穏やかに細まる双眸を、琥珀はただただ見上げた。
自分を殺すのではなく、逃がす。
この人は何を言っているのだろう。
「……そんな…ことをしたら、有馬さんはどうなるんです」
喰種は駆逐すべきもの。
誰だって、子供だって知っている当然の決まり事だ。
喰種を生かすことは罪だ。
誰であろうと。有馬であろうと。
「言っただろう。俺にはやりたいことがある」
有馬は、まるで子供にでも言い聞かせるようにゆっくりと話す。
「俺の望みのためには、"カネキケン"が必要だ。お前を逃がすことは、それのついでのようなものだ。……だから、お前は何も考えなくていい」
「…望み…って、なんですか」
「………」
「立場を捨ててでも……そんな…」
「…丈にも仕事を任せた。終わったらお前を迎えに来る」
「…っ」
自分一人を置いて、丈も、隊の者たちも、有馬と共に動くのだろう。
琲世が…カネキがコクリアを破ることを黙認し、局に叛いて琥珀を逃がした有馬は──、
「…丈兄のことは心配です………でも、みんなも、有馬さんのことも…っ、私は──…」
何も知らない自分だけ、遠い場所で待っていろと言う。
「…。お前は人の心配ばかりしているな。琥珀」
有馬がふと笑った。
こんな時でなければ、ただの微笑みなのに。
どうしてこんなに胸が詰まるのだろう。
「ちがいます…私は……わたしは──…」
自分の行く末なんて何度も想像を繰り返した。
戦いで死ぬのか。
どんな傷を負って死ぬのだろう。難しい任務の前夜はいつも怖くて眠れなかった。
コクリアで死ぬのなら。
どんな処分をされるのだろう。廃棄があると聞くたびに、自分の立場に安堵して、自分の行いにも、この心にも嫌悪した。
死んだ後は躯を使われて何かになるのだろう。
それ以外の道なんて無いと思っていた。
外へ逃がすと言われて、今更。
命の使いみちがわからない。
「わ、わたしは……私にはなにも、できないんですか」
どうして有馬がそんな行動を起こすのかがわからない。
どうして自分だけを放り出すのかがわからない。
「どうして…、私だけ、だめなんですか……」
真っ先に使われるべきは自分だったはずなのに。
「………。これは俺の…わがままだ。俺の望みをカネキケンに押し付ける、ただの………」
琥珀と向き合い、細部を眺め、ひとつひとつをなぞるように瞬く。
けれどもどこか不自然で、おぼろ気な有馬の瞳。
いつもぼんやりと物を見ていたような有馬は、実は"見る"と同じくらい"聴いて"いたのかもしれない。
琥珀は手を伸ばす。
有馬に時折、違和感を覚えることがあった。
膝を合わせるほどに近づいて、その理由が、今やっとわかった。
「コクリアでは抑制剤は必ず使われるだろう。…あの場所はお前には向かない。琥珀──、お前はもう、戦わなくていい」
琥珀は静かに、恐る恐る有馬の目許に触れた。
頭を撫でて、宥めてもらったぶんを返すように。
「そんな眼で…戦えるんですか、有馬さん………」
「…。お前も知っているだろう。これ迄ずっと戦ってきた」
「ずっと…、気づきませんでした……」
「お前は嘘が下手だから、お前にばれたら他の全員に気がつかれる」
「ひどいです…」
「そうでもない。……表情のよく変化するお前を見ているのは楽しかった」
有馬が声を発するたびに、触れたままの琥珀の指先に微かに振動が伝わる。
そう感じた時、琥珀自身の頬こそが掴まえられていた。
ささくれだった指が頬に当たる。
薄く開いた唇を何かが押し開き、ぷつりと口内に痛みが奔った。
「ぇ──、ぁ……?」
前身の力が消えていくような不安定さと、ふわりと視界が揺らめく感覚が琥珀を支配する。
横へと倒れゆく身体はなす術もない。
有馬の腕に支えられなければ。
体温を感じて、甘いような匂いを吸い込む。
「あ、りま…さん──…、これ……」
鼻をくすぐる白い髪と、頬に当たる、恐らくは眼鏡のフレームの冷たさで、自分が抱き抱えられていると琥珀は理解した。
「…よく、せい…ざい……?」
天井の照明が眩しく眼に映る。
明るさを堪えようとして瞬きをする。
「…遠くへやったところで、お前はどうせ丈を探しに来てしまうのだろうけど──」
天井から顔を背けるには、強く身体を抱かれていて動けなかった。
出会ってからの、どの記憶よりも近い場所で声を聞く。
「一度でいいから、抱き締めてみたかった」
身体を包む温度が離れていき、琥珀は有馬を見上げていた。
光が眩しくて眼を開けていられない。
「さようなら、琥珀」
意識も感覚も、有馬も。
すべてが離れていくようだった。
声を聞いたのか、それとも唇の動きを見て思い込んだのかもわからない。
終わりのようなその言葉を否定したかった。
「…いや、です……、まっ…て、……き………」
涙が零れるよりも早く、急速に感覚が閉じていく。
身体の内側が浸食されて微弱に凍えてゆく、
眠気のような、
重力のような、
温度の無い何かに引かれて落下するように、
琥珀の意識は──


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