×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -



遠雷/花曇り

.
「お前も浮かない顔をするんだな。タケ」
仕事が立て込んでいた時だったと記憶している。
有馬さんに指摘された。
喰種捜査官となって数年目の、時期は確か、春先。
家に帰っても眠るだけで、目覚めてはまた仕事の日々が続いていた。
もともと無趣味で、それに費やす時間も必要がない性分ではあった。
疲れだけならば十分に眠って目を覚ます今の生活で事足りる。
それでも、何かが物足りないような、沈んだ気持ちが晴れないのはどうしたことか。
真っ先に頭に浮かんだのは幼馴染みの姿だった。
今、琥珀は何をしている頃だろうか。
そう考えると、自分が時間を気にする間もなく働き続けていたことに気がついた。
いつから琥珀に会っていない?
数日前、いや数週間前か。
丈兄、電話しちゃった。今いい?──と、携帯越しの声だけを聞いてそれっきり。
琥珀も受験生となって意識にも変化があった頃だったはずだ。
ひとつを想ってしまえば連鎖反応のように溢れだした。
琥珀の甘い声も、自分を見上げる嬉しそうな眼差しも、すぐに紅潮する頬も。
全てに触れたくなってしまった。
だから自分は有馬さんの言葉に確かこう答えた。
「…いえ。…最近、幼馴染みの顔を見ていないと思ったので──」


琥珀の存在を口にしたことは正しい選択だったのだろうか。今でも考えることがある。
丈は隣を歩く琥珀を見下ろした。
視線に気づいたのか、琥珀もちらりと丈を見上げて目許を緩めた。
「平子上等」
「なんだ」
「平子上等はここに来るまでに誰かと会いましたか?」
「──いや…、」
局内上階の廊下を歩くのは二人だけ。
ゆっくりとした歩調の足音が絨毯に吸い込まれる。
「特には誰とも会わなかったが。…どうしてだ?」
琥珀の速度に合わせて歩く丈が質問の意図を読めずに聞き返す。
「ううん。…だったら、その上着を着てるのをちゃんと見るのは、私が一番かなって」
小さく微笑む。
任務前の二人は揃いの白いコートを羽織っていた。
これから向かう地下駐車場、そこに集まる有馬班の者達も同じもの着ているはずだ。
喰種からは"白鳩"と揶揄される白いコートは、気休め程度の防刃と防寒を果たす。
「今日は雨が降りそうだから、フードがあって丁度良い」
丈は窓の外に目を向ける。
オフィスビルの連なる街並みを覆う空には雲が広がり、景色は仄暗い。
「ふふ、……そうかもね」
丈を見上げていた琥珀の瞳も、灰色に沈む外へ移る。
「でもせっかく戻ってきた平子上等と一緒なのに。雨が降ったら…ちょっと残念」
琥珀の足取りが速度を落として止まり、丈も立ち止まった。
物憂げな瞳は何を映しているのか。
琥珀の見つめる先を探してみたが、見える景色は漠然と広く、ただ街が陰鬱にぼやけていた。
「丈兄と有馬さん……何年振りかな」
有馬が琥珀を捕らえた当時、丈はそのパートナーを務めていた。
丈は喰種捜査官に就任してから数年後の、比較的早い段階から有馬と組んでいた。
丈とは一つしか歳の違わない有馬は、捜査官としてはすでに中堅、階級も特等捜査官だった。
周囲の者達からは、有馬の元では学ぶことが多いだろうとよく言われた。
丈からすれば学ぶというより、どうにか死なずに付いていく、ということに意識を置いていた気がする。
有馬の動きには無駄が無く、常に効率的だ。
喰種を相手にしながら部下の指導も行う。
それが可能なずば抜けた実力が有馬にはあった。
改めて人間離れしているなと思う。
…いや──…
「(どうやら…ヒト、ではない…らしい)」
"喰種捜査官"とは。
喰種と戦う捜査官なのだろう、と。
そう考えて自分は捜査官になったはずなのだが。
「(…随分と…離れた場所に来たものだ…)」


初めに──
幼馴染みの琥珀が喰種だった。
丈の知らない場所で琥珀は人間を喰べて生きてきたと。そういうことだ。
その事実に、もちろん驚きはした。
けれど琥珀が喰種かそうでないかということよりも、丈の中で琥珀は──…琥珀という存在だった。
幼馴染みとしての関係以上に、愛おしい存在だった。
いずれ琥珀も大人になって、自分の道を見つけて、幸せになるのだろう、と。
朧気に、そう思っていた。
諦めもあったように思う。
琥珀は自分を慕ってくれているが、その気持ちはあくまでも幼馴染みに対するものに過ぎないと。
自分から踏み込むような大胆さも無かった。
琥珀への気持ちを口にして今の関係が崩れるならと、ぬるま湯に浸かり続けることを選択した。
この先、自分が琥珀の手を取ることはないだろう。
ただ琥珀が…幸せならばそれでいいと思っていた。
その琥珀が。
喰種にしては珍しい隻眼の半喰種だという。
研究の材料として貴重な素材なのだという。
(研究…?)
クインケが喰種の赫胞を利用して造られるのだ。
喰種を利用した研究も行われていて当然。
ならば。
(喩えば実験動物のように、琥珀が──?)
研究の内容など丈の知識の範疇ではない。
しかし、そもそも喰種の琥珀が生きられない(つまり処分される)だろうことは想像に固かったし、さらにはその命が如何に(物のように)扱われるかなど考えたくもなかった。
それなのに、一介の捜査官である自分には出来ることなど何一つ無いのだ。
自分の隣で笑っていた琥珀が永遠に失われる。
(琥珀を生かす、手立てが無い──…?)
その丈に有馬はこう切り出した。
「あれを──琥珀を。暫くの間なら殺させずにいられる」
暫くの間ならと、有馬は言った。

次に──
とつとつと。
この数年の時間をかけて。
ゆるく絡まった毛糸玉を手渡され、ほどくと、また次をほどけというように。
有馬もまた、自分に関する幾つかの話を丈にした。
そのうちの一つが、自分が人間ではないということ。
人間ではない、とは。
"半人間"。
半分は人間。
半分が喰種なのだという。
半分が喰種でありながら、半喰種の琥珀とは呼び方が違う理由は、性質のほとんどが人間寄りだからということらしい。(出生の違いでもあると…)
食事は人間と同じものを食べられる。
身体能力は人間よりも優れている。
ただし身体の衰えが極端に早い──。
「…その"衰え"のせいですか。以前よりも大分、度の強い眼鏡をしているのは」
有馬が琥珀を手元に置くと決め、今後の管理と指導方針、その他の制約と規則を照らし合わせての計画書の作成を行う最中だった。
「よく見てるな」
「他の者よりは、有馬さんの近くにいますから」
書類を面倒くさがるのも有馬の本心だろうが、他の理由もあったのかと丈は理解した。
「そうだな」
そう答えた有馬の眼鏡は──。
丈が有馬班から離れている間に、いつしかただの素通しに戻った。
視力の低下は老眼に因るもので治療法も無くはないらしいが。
先のことを考えると無意味なのだと。
「(老眼…だけの話ではないのかもしれない…)」
傍で有馬を見ていると、時折、不自然さを感じることがあった。
有馬班に戻れと伝えられた際、丈が眺めていたのは有馬の眼鏡だった。
先んじて有馬が口を開いた。
「眼鏡を変えた時、琥珀も不思議そうに見ていたけど、結局何も聞かれなかった」
「必要があれば、有馬さんから言うと思っているんでしょう」
「琥珀のそういうところはお前に似ている」
丈が有馬班から離れていた間に、幾つか変わったことがある。
眼鏡もだが、その奥の表情もどこか柔らかくなったように丈は感じた。
本人の自覚があるかは疑わしいが、均整の取れた顔の有馬は間違いなく美形だ。
目許を緩めて浮かべる穏やかな顔を見れば、惹かれる女性は少なくないだろう。
「琥珀とは一緒に過ごす時間が長かったので…」
いつからか、そんな表情を目にすることが多くなった。
「そうか。…琥珀の傍は居心地が良い──…」


──パチッ…──
廊下の天井に連なる照明が明滅して、記憶から今へと意識が戻される。
視界が一瞬だけ暗くなり、すぐに何事もなかったように点灯した。
いち、に、さん、し…、と丈の隣で小さく数える琥珀の声がした。
「雷……今、光ったの──」
見た?と琥珀が訊ねた瞬間に、遠く重く、空気を振動させて低音が響く。
視界の遠くに再びの、音の無い雷光。
琥珀の指先が揺れた。
光の消えた方向から目を離さずにまた数え始める。
「………、遠いな」
「、なな、はち──、…うん」
魅入られたように動かない琥珀の、指先だけが微かに震えていた。
「………琥珀?」
雷を怖がる性質ではなかったはずだ。
むしろ今のように数を数えて、「また光るかな」と好奇心すら見せていた記憶がある。
その琥珀の横顔が、やや血色を欠いた様子で窓の外に向けられている。
空調の効いた室内なので、ただの気のせいかもしれないが、丈はどこかひやりとした空気を感じた。
琥珀をこちらへ向かせる。
弱々しく唇が動いた。こんなじゃなかったのに、と。
「私ね、……少しだけ、雷が苦手…」
身体を向けさせても琥珀は俯き、視線は捕まえられない。
白い手がコートの上から自らの腹部に触れていた。
何年も前に焼かれた場所だ。
「…有馬さんが苦手とか、そういうのじゃないの、だだ──…」
喰種の強力な治癒力によって修復され、今では痕ひとつ残ってはいない。
しかしイメージは頭の中からは消えなかったのだろう。
雷が、ほんの少しだけ怖くなったと、琥珀はもう一度口にする。
「──丈兄…」
また遠くで雷が細くいびつな筋を描く。
「どうして…有馬班に戻ってきたの……?」
音が届くのは何秒後だろうか。
耳の良い琥珀には、自分よりも早く聴こえてしまうのだろうかと丈の頭を過る。
「なにかが変わっちゃうんじゃないかって…少し不安になっちゃった。…考えすぎかな…?」
傷もない、そもそも見えもしない痛みだ。触れたところで癒すことなどできはしない。
それでも琥珀の手を退かせることもできず、丈は自分の手を重ねる。
「ただの…人手不足だ」
包み込んだ琥珀の手は小さくて冷たい。
「郡が抜けて、他所から連れてきた者を教育するよりは…俺が入った方が手軽だったんだろう」
「………。そう…」
「……。手が、冷えている…」
「…動けばあったまるよ」
「…任務には行けるのか」
「ふふ…何言ってるの、丈兄。…雷が怖いから休みますなんて、怒られちゃう」
私は、平気──。
唱えるように琥珀は呟くと身体を離した。
届かなくなる前に、丈はもう一度琥珀の手を掴まえると、繋いだまま歩き出した。
先程よりは速かったが、早足よりは遅いという程度。
「あ……ごめんなさい、遅れそう…?」
「いや…」
やや後ろから遠慮がちな琥珀の声がした。
冷えきっていた琥珀の手に丈の温度が伝わる。
反対に冷えゆく指先と、共に頭の中にちらつく影を、丈は深く奥底へと沈めた。
有馬が丈に教えた闇も、見透すことのできない琥珀のこの先も、今考えるべきことではない。
変わろうとする兆しを感じているのかもしれない。
ただ丈が「何でもない」と首を振れば、琥珀がそれ以上訊ねないことも丈は知っている。
琥珀は丈を信じているからだ。
「………」
伝えないことも守る手段だと知ったら、琥珀は狡いと怒るだろうか。それとも泣くだろうか。
琥珀の手を握り直してエレベーターへと向かう。
途中で何人かの局員と擦れ違ったが、丈は手を離さなかった。
「…平子上等…、そろそろ人が──」
「………」
二人がエレベーターに乗り込んだ後もまた、違う局員と相乗りとなった。視線を感じた琥珀は繋がった手を隠すように丈の後ろに下がっていた。
暫くしてエレベーターの中が二人だけになり、琥珀がむずむずと丈の腕に擦り寄る。
「局ではあんまり触らないのに──…、」
「…琥珀、」
丈は何かを言うべきかと少し考え、それから、琥珀と繋ぐ手に力を籠めた。
「──、…丈兄が……今日はちょっとだけ大胆…」
「生まれて此の方、大胆さは持ち合わせていない」
目的の階を知らせる電子音に合わせて琥珀は身体を離すと、困惑と照れを隠すようにフードを被った。
「うそつき…」


ひらり、はらり──
人事異動が決まった、と。
数日前。廊下で擦れ違った時、平子班のメンバーを先に行かせた丈兄が私に言った。
敷地内に植えられた桜が花びらを落としている。窓の外の優雅な様に目を奪われて、私はロビーへ続く廊下で立ち止まっていた。
ひら、ひら、ひら──…
ほんの数拍、何回か呼吸ができるくらいの短い時間。
花びらが花から離れて、落ちて、まだ宙を舞っていた。
「有馬さんと組むことになった。…来週から、また頼む」
ぽん、と。珍しく局内で私の頭に手を置くと、そのまま通り過ぎていった。
艶やかな芝の上に薄桃色の花からが着地した。
丈兄の簡潔な言葉なんていつものこと。
けれどその短い言葉のすべてが、私の中でまだ着地できないでいた。
丈兄は何て?
人事異動と。
戻ってくるらしい。
いつから?
来週と言っていた。
どうして?
…聞くのを忘れた。
でも。
それはつまり、また丈兄と一緒に居られるということ。
この報告を私は──、
「(喜んでいい…はずなのに──なんで)」
私が振り返ったとき、平子班はすでに遠く、廊下の角を曲がるところだった。
こんなに距離が離れるまで、私はぼうっと丈兄の背中を見つめるばかりで、追いかけることも忘れていた。
先ほど手を置かれた頭に触る。
私の手では大きさも重さも物足りない。
もう一度して──、とせがみたい丈兄の影すらもう見えなかった。

「(…わからないの、)」
有馬さんは部下の教育を常に行っていた。…ついてこられる人は少なかったけれど。
丈兄は、新しく入った者を鍛え直すよりも、経験のある自分の方が手軽なんだろう、と言っていた。
確かにそうかもしれない。
でも。
私の中でなにかが袖を引く。
本当にそれだけなの。
有馬さんが丈兄をもう一度呼んだ理由。
またひとひら、薄桃色が舞った。


170219
[ 100/225 ]
[もどる]