×
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -



真昼の星

.
遠く、青いばかりの空の真ん中を、一筋の飛行機雲が伸びていく。
「あ…」
線を引く、その粒のように小さな飛行機は真昼の空に唯一見ることのできる星に見えた。
眩しさに目を細めて視線を空から戻す。
空ほどではないが、遠くまで続くコンクリート。歩道の白線。
すぐ横には背丈を軽く越える高さの黒い鉄格子。
これまでに歩いてきた背後から、これから行く先へと規律正しく並んでいる。
格子の内側には平行して広葉樹が植えられ、その向こうに豊かな芝生が見えた。
一定の間隔で設置された石碑も。
あれは墓石だ。
琥珀はまだ、この墓所に足を踏み入れられたことはない。
「………」
正面入り口まではまだ遠い。
猶予だっていくらでもある。
心を決める準備の時間が、まだ──…
コツン…コツン…と、コンクリートに足音を響かせる。

タバコを咥えてライターの火を寄せる。
信号待ちの僅かな時間さえ我慢できなかった。
運転席の窓を開けて煙を外へ吐き出せば、頃合いも良く信号も変わった。
空はよく晴れ渡っている。
しかし心まではそうはいかない。
車を走らせながら、これから向かう場所のせいだと言い訳をして、ゆっくりと肺までを満たしての、再びの煙。
家庭を持って、いきなりの禁煙とは言わずとも、せめて本数を減らしていこうと思った矢先だ。
堪え性がないのは昔からだと自分自身を鼻で笑う。
その時、歩道を歩く人影を通りすぎ、何気無くサイドミラーに目を遣った。
「(あれは………有馬んとこの──?)」
名前を思い出そうと眉間を寄せる間に、みるみる小さくなる濃紺色のワンピースの姿。
まあ、いいか、と。
富良太志は早々に諦めた。
こんな所を歩いているのだ、向かう場所は同じだろう。
「(…顔を会わせたら聞きゃいい)」
曲がり角に差し掛かり、助手席に置いた花束がかさりと音を立てた。

平日の昼間、それも彼岸ですらない。
富良以外には誰もいない墓所は、石碑さえなければ公園のように穏やかな風が吹く。
目的の碑に花を手向け、…洋風の墓所ではあるが、簡単な別れの言葉を思い浮かべて手を合わせる。
仲間を亡くしたのは初めてではない。
彼ら一人一人を忘れることは決してないだろう。
だが深く囚われてしまえば進めなくなる。
かといって"そちら側"に加わるつもりも勿論ない。
感傷的になるなんて柄でもないと思いながら、またな、と呟いた。
ふと浮かんだ。
またとはいつだ?
次に来る時は別の者の墓参りになるんじゃないのか、と。
駐車場で車に乗り込む前に、抑えきれず、また一本、タバコに火を着けた。

「(このペースじゃ一箱吸っちまうな──…)」
もう残り半分ほどになった箱を恨めしげに見下ろして、上着の内側にしまう。
何か気を紛らわせるものでもない限りは。
時間は正午を少し過ぎたというところ。車内の時計から視線を前方へ戻し、アクセルをゆっくりと踏んで車を正門へ進める。
閑散とした駐車場。
開けたままの窓からはジャリジャリとタイヤとコンクリートが擦れる音が聞こえた。
眩しいほどに晴れた空から陽が注ぐ。
白い石柱。
黒い鉄柵。
入り口にしゃがんで白い猫をなでる、濃紺色のワンピースの姿。
やけに鮮明に富良の目に映り込んだ。
偶然、というのもあるものだ。
ジャリ──徐行を止めてタイヤが軋む。
「──よぉ…」
通過するものと思っていた車が停止して、少女のやや訝しげな顔が向けられる。
「アンタ、有馬んとこのお嬢さんだろ?」
「………。」
袖から伸びる白い手の、なでる動きが止まっても猫はもっとと強請るように絡みついたまま。
ああ。そうか、こちらは知っていても──、
「……すみませんが…あなたは…? 」
「あー…悪い、いきなりすぎたな。……俺は富良、一等捜査官だ」
身分を証すと見上げる少女は、富良捜査官…と呟くように反芻した。
仕方ないことかと思い直す。
「アンタも墓参りだったんだろ?」
答えは返されず、少女は唇を閉ざした。
「局まで戻るところだが…。アンタも乗ってくか?」
富良は自分が決して愛想の良い人間ではないことを知っている。…そのために多少警戒されることもある。
しかしこの少女の場合、沈黙は別の理由からだろう。
彼女は喰種だ。
彼女を避ける局員は多い。
その風当たりは傍目からでもわかるのだ、当人が感じないはずがない。故に──…
「(こりゃ、こっちがフラられたもしれねぇな)」
「──私が…」
「ん…?」
「………乗っても、良いんですか…?」
「おう。…なんつうか、ついでだしな」
意外だった。
だが富良は大袈裟にならないように答えた。
女や子供は他人の感情の機微に鋭い。躊躇いを見せては敏感に察するだろう。
少女は猫の頭を、またね、と優しくなでて助手席に回る。
富良に礼を言いながら、君塚琥珀ですと名乗った。
「(──ああ、確かそんな名前だったな)」
有馬が部下として琥珀を所有し、その後、何度か本局で有馬と一緒にいる姿も見かけていた。
座席に収まった少女は膝にハンドバッグを置く。
それと、一輪ずつの花束も。
車を運転しながらの富良の視線に気づいたのだろう、琥珀が花束に触れる。
「猫と遊んでいたら、いつの間にか時間が経ってしまっていて……。お墓参りは、また違う日にしようと思います」
「多いからな、猫。…おまけに墓にいるのは人懐こい」
「そうなんですよね──、だからつい、可愛くて…」
猫が好きなのか、先ほどの白猫を思い出して柔らかい表情になる。
富良も動物は好きだし、柴犬なんかは特に好きだ。
可愛がる気持ちも分かる。
だが、目的を差し置くほどの理由にはならないことも分かる。
墓なんて、また近々来ようと気軽に思えるような場所ではない。
猫は──、目を逸らしたかった言い訳だ。
「入れなかったんじゃないのか?あそこに」
「………」
「別に責めてる訳じゃない。気が重いのは、誰だっておんなじだ」
いくら空が眩しかろうと、穏やかな風が吹こうと、気持ちまでは晴らしてくれない時もある。
生き物の気配があまりにも希薄で、静けさに包まれるこの場所では、否が応にも思い出が再生される。
声も。
笑顔も。
最後の瞬間も。
倒れた身体も。
あるいは身体という形を保っていなかった、死を。
激しい戦いの末に損傷では済まなかった死もある。
そんな時には殊更に、こんな石に一体何の意味がある、と問いたくなる。
欠片しか納められなかった墓に。
欠片すら納められなかった棺に。
──もう、どこにもいないのに──
富良は、少しでも油断すると暗い方向へ螺旋を描きはじめる思考に眉をしかめる。
ついでに懐の煙草を探していた手に気づいて、更に顔をしかめた。
「私に──…」
フロントガラスを見つめたままの、琥珀の声が耳を打つ。
「…話しかけてくれた人がいました。任務で、一緒だからよろしく、と」
唐突に、ぽつり、ぽつりと言葉が零れる。
「…別の任務で、移動の時に声をかけてくれた人も」
誰が、という部分は語られない。
「どの人も、その時は知らない捜査官でした。……全部が終わってから、別の方に聞きました」
命が果ててしまったから本人からは聞けなくて、同僚から、名前を聞いたと。
「話しかけてくれるだけでも嬉しかったんです。嫌がられるのが、普通ですから」
だから。
せめて──。
「お墓参りくらいは、って、思って。………ここに来るのは…初めてでは、ないんですけど…」
喰種であることが足を縫い止めた。
口にはしなかったが、そういうことだろう。
「………」
喰種にも人間と同じように感情がある。
世間で強調されるのが、凶暴性や食欲や、人間を害する衝動ばかりでも。
人間に紛れて存在しているのだ。
遠慮や思慮があったって何の不思議もない。
曲がり角でゆっくりハンドルを切ると、内ポケットの中で、かさりとタバコの包装が擦れた。
「………」
「…アンタ、学校は好きか?」
「え…?」
「学校。通ってたんだろ、ここに来る前に」
自分でも唐突な出だしだと思った。
「どんなところが好きだった?」
そちらを見なくとも琥珀の戸惑いを感じる。
こんな曖昧な問い掛けに困って当然だ。自分が言われたら、まどろっこしい質問をするなと怒るだろうなと思う。
しかし琥珀は少し考え込むと、根が真面目なのだろう、「特別なことじゃないですけど…」と口を開いた。
「授業は…わりと好きでした。友達と話をするのも」
学校という言葉をきっかけに、糸を手繰るように思い出が連なる。
「放課後に教室に残って先生に注意されたり…。学校の近くにできたお店の店員さんが格好良いから、帰りに見に行こう、とか…」
「その頃は平子には惚れてなかったのか?」
「はっ?え…?…えと、平子一等は…その………」
動揺しながら、どうしてそんなことを、と言いたげな琥珀に富良は軽く口許を緩める。
こうしていると、琥珀はどこにでもいるような少女で、ありふれた想いを抱えて、普通に生きているように見える。
人間と、何の、変わりだってない──。
「俺のクラスにもな。いたよ。喰種が」
琥珀の呼吸が僅かに詰まる。
気がつかない振りをして富良は続ける。
「あんたみたいに普通だった。普通の学校生活が楽しくて、授業も普通に受けて。テスト勉強して──」
あーあ。と。
ため息をつくように、
──せっかく…勉強したのになぁ…──
真っ赤な血と、人間への羨望と、諦めを最後に零した。
今、富良の妻である幼馴染みの片目を奪い、もう一人の幼馴染みの命を永遠に奪った喰種だった。
記憶は思い出の澱となり、静かに富良の中に留まっている。
表情や顔の細部を思い出そうとしても完璧にはならないのに、声だけは鮮明に繰り返せる。
「…──いいんじゃないか」
そう、気がついたら言葉が富良の口をついていた。
琥珀は言葉を発しないで、富良の言葉の続きを待っている。
死んだ喰種を──琥珀は名を知らない三波を──思い浮かべているのかもしれない。
「喰種にだって感情がある。…あんたみたいに、死者を悼む気持ちも──…」
あの時、アキの目が光を失わず、リョウの命が奪われないでいたら。
もしかしたらもっと、喰種寄りに物事を考えていたんじゃないだろうかと思った。
普通の暮らしがしたいと望む喰種がいることを知った。
ただ自分は、喰種が簡単に人間を殺せることも知ってしまった。
普通に生きている人間を喰種が殺すというのなら、守らなくてはならないと──思ったのだ。
「墓なんておまけみたいなもんだ。花を添えなくったって…そんだけ真剣に思い悩んでるんなら、その捜査官たちも悪い気はしないだろ」
何を口にしたところで結局は慰めにしかならないことはわかっている。
自分には大切な家族がいて、友人がいて、その誰かが唐突に無作為に、目をつけられて殺されるかもしれないというのなら、守らなければと、捜査官になったのだから。
──桜扇女学院高等科3年、君塚琥珀。捜査官である平子一等とは面識があり──
──隻眼という個体は稀少であるために保護を目的とするが、抵抗するようなら早急に処分を──
局の医療施設で取り押さえられる琥珀が、あの場に立ち会っていた富良の記憶にも残っている。
身体が傾いで、糸を引くように血を垂らして、それでも琥珀は探すように視線を向けた。
「……そのうち──、花も添えられるようになるさ」
人間であろうと喰種であろうと、守りたいもののために手を伸ばそうとする心は、きっと同じなのだろう。
奇妙なことに、今この場には喰種捜査官と命長らえた喰種が隣り合って座っている。
偶然が上手に積み重なって生れた、ほんの僅かな幸運だ。
「…ま、花を迷惑がろうにも、本人はもういないけどな」
それでも、過去と現在をゆっくり混ぜ合わせるように過ごせたこの時間を、そんなに悪くないと思うのは、やはり感傷的すぎるだろうか。
暗くなりすぎないように、調子を作って最後を締め括ると、琥珀は眉を下げて微笑んだ。
「富良、太志捜査官──」
穏やかな声と共に、琥珀は微笑んでいた。
「あなたと、お話ができて良かったです──」
その微笑みがあまりにも自然なものだったから。
妻帯者であるのに少しだけドキリとしてしまい、富良は慌てて頭の中で妻に謝った。
これは、あれだ、油断してるところににこっとされてちょっと照れたとか、そういう類いのドキッだから違うぞと。
(学生の頃もそういえば三波の笑顔にノックアウトされたことを思い出した)
「………ん?俺の名前…?」
車は赤信号で緩やかに減速して停まり、くんっ、と前に身体が揺り戻される。
琥珀は少しだけ申し訳なさそうに目を泳がせて、その後、口許が少しだけ、いたずらめいた弧を描いた。


局の正面入り口に車を停めて、富良は琥珀を降ろした。
人目を気にした琥珀は局の手前で降りると言ったが、富良はアクセルを緩めなかった。
「若いやつが遠慮するな」
「遠慮じゃなくて…。私と一緒だと富良さんが…色々と言われてしまいます」
「そういう気遣いが遠慮っつーんだ」
以前、琥珀は有馬に勧められたらしい。「太志と話をしてみるといいかもしれない」と。
しかし面識のない富良に話しかけるきっかけも、機会も無いままに時間は過ぎてしまった。
けれど名前だけは覚えていた。
それを伝えるタイミングを掴めないまま話を進めてしまって申し訳ない、と謝る琥珀に、富良も気の抜けた様子で手を振った。
「有馬に付いてるんじゃ、そんな暇も無いだろうさ」
高校の頃に三等捜査官だった有馬は、今では"死神"とかいう呼び名で喰種から怖れられる特等捜査官だ。
その捜査官に、今でも自分は太志と呼ばれるのかと思うと、気恥ずかしいような、照れくさいような気持ちになる。
それを知っただけでも儲けというものだ。
「こっちこそ、あんたと話せて良かったよ」
富良がドア越しに見上げた琥珀は、陽射しに目を伏せながら、ほっとしたように会釈をした。
人と話をするのが嬉しい、そんな雰囲気が伝わってくる。
踵を返しかけて琥珀は、あ、と声をあげた。
「どうかしたか?」
「煙草、なんですけど──」
富良の胸元をちらりと見る。
「…吸われるなら、外で吸っておいた方が良いかもしれないですよ。喫煙ルーム、今日は空調の整備で使えないって郡さんが言ってたので」
それじゃあ、と、ぺこりと頭を下げて足早に自動ドアをくぐる。
濃紺色のワンピースの裾が、琥珀の心を表すように軽やかに揺れた。
この後は着替えて任務に出るのだという。
明るい外からは、閉じた自動ドアのガラスの奥を見通すことはできない。
「また思い出しちまったな………」
困った富良の手はふたたび、しばらくの間、またしても…宙を彷徨うことになった。


170121
[ 49/227 ]
[もどる]