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目隠し

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──外へ出たい──
深く深く奥へ、圧し籠めていても無意識に滲み出てしまう心。
見上げた狭い空は橙色だった。
住宅街の合間の薄暗い路地は真っ赤だった。
壁に打ち付けられた体。金網を破ってその向こうで転がる体。コンクリートの亀裂の延長のように爆ぜた体。何体ものそれら。全てが死んでいる。
全て喰種だ。
「琥珀、負傷は?」
「いえ」
「………」
「ほんとに無いですよ。…治ったとかそういうのじゃなくて」
本当に今日は怪我してないです。
もう一度、琥珀がしっかりと言い直して、有馬は「ならいい」と納得した。
「まだ甘い部分もあるけど、戦い方が少しまともになった」
「有馬さんとの訓練の成果もでてますか?」
赫子を解いてスーツの皺を直す琥珀に、クインケを仕舞う有馬が答えた。
「スーツに擦らなければ」
「え?」
瞬きをする琥珀の腕を取り、ボタンがひとつ飛んでいる箇所を示す。敵の攻撃が擦ったらしい。
あ、と琥珀の唇から声が漏れる。
「…全然、気がつかなかった…です」
どの攻撃でだろう。と、考えたのは一瞬。
すぐに、予備のボタンはあっただろうかと、そちらに注意が逸れる。
袖口を凝視して悩む琥珀を余所に、有馬は腕時計に視線を落とす。
「(予備のボタン、タグについてたかな…… )」
「琥珀」
「(ソーイングセットってコンビニにあったっけ?)」
「……」
「(あ、でも糸も欲しいな。黒い糸)」
「……」
唇に指を当てながら、目の前の景色ではなく局敷地内のコンビニを思い出してみる。
その指が不意に離される。
「ぼうっとしてると、置いていくよ」
「ふ、…え…?」
「まあ、少しぐらいぼうっとしてる方がお前らしいけど」
いつの間にかやって来た有馬が琥珀の手を取っていた。
空は橙から紺へと変わろうとしている。
鬱蒼と暗さを増してきた路地で、琥珀は一瞬、距離感を掴めなかった。有馬から離れようと身を反らして後ろへ倒れそうになる。
ぐいっと背中を支えられて、膝に力を入れることを思い出す。
中途半端な体勢は、まるでダンスのポーズのようだ。有馬の腕を掴んでいなければ、琥珀は体重の殆どを背中に預けることになっただろう。
茫然と有馬を見上げて、思考の空白状態から立ち戻る。
「す…、すみません……」
「琥珀は、運動はあまり得意じゃなさそうだな」
「お…どろいた、だけ、です」
琥珀は上擦る声を戻すと共に、体勢も戻す。
そう、と見下ろす有馬との距離。先ほどは近すぎて驚いたのだが、今も背中を支えてもらった為に、やはり近くにあって落ち着かない。
「帰ろうか」
「あ…えっと、処理班は?」
「さっき連絡しておいた」
会話の途中あたりから、路地付近に数台の車両が到着する音がした。任務の事後処理の為にCCGから回された車だ。
"任務前"に終わる時間を報告して呼びつけるなど、絶対の腕と信用のある有馬だから可能といえる融通だ。
夕焼けは夕闇に変化しつつある。
任務も完了した。
…局へ帰らなければ。
「…はい」

──外へ出ることが怖い──
有馬と並んで歩く国道の通り沿いには住宅と店舗が並んでいる。
通りに面してガラスが張られ、暖かな照明が灯る店内が浮かび上がる。
琥珀の視線が、すれ違った制服姿を追い掛けた。
琥珀よりも一つか二つ下の女子高生たちだ。じゃれあいながらカフェらしき店舗に入っていく。
羨ましい、と思ってしまう自分がいる。
「気になる?」
「え…?」
「さっきの制服、琥珀の通ってた学校の制服だ」
「………知ってたんですか」
「経歴は頭に入っている」
「…制服も?」
「それも一度見た」
ああ、と琥珀は思い出す。
それから、ふふ、と笑った。
「有馬さんって、何でも知ってそうです」
「そう?」
「はい」
日が短くなり夕暮れ時も早まった。
時刻はまだ夕方のものだというのに既に空は暗い。
赤信号が灯る横断歩道に差し掛かり、二人は足を止める。
「──気になって…ました。あの制服」
有馬には言わないが、先程通り過ぎた店も。
「…懐かしくて」
勘違いしそうになるのだ。
任務を終えた帰り道、それが夕方ならば尚のこと。
こうして歩いていると、自分も人の中で暮らしていたことを思い出してしまう。
友達と寄り道をして新しい店を覗いたり。
食べられないものばかりだけれどカフェにも行った。
可愛らしいケーキも、つややかなタルトも、喰種にとっては食べ物ではなく造形物だったけれど。
「琥珀が付けていたリボンとは色が違ったみたいだ」
友達が美味しいと言っていたから。
仕事が忙しい家族とは来ることができなくて、買って帰ったこともある。
「年度によって分けてるんです。私のしてた色は、たぶん今の一年生が付けてて──」
楽しかったから。
食べられなくても、この時間を共有できることが楽しかった。
「(任務が夜とか昼間なら、思い出すことも少なくて済むのに)」
暗く沈んだ思考に琥珀はどきりとする。
喰種だとばれて、それでも生きている。
幸運なことなのに。
「(私……変わったのかな…)」
外で目にする手の届かないすべてを羨ましいと思ってしまう。
嫌なことばかり考えてしまい、振り払えない悪循環。
この思考が明るさを思い出せなくなってしまったら…。
そんな自分に、恐怖に似た思いすら抱く。
振り払うように顔を上げると、有馬が琥珀を見下ろしていた。
「変わった」
「な…」
「信号。変わったよ」
言葉の通り、琥珀が見上げると既に青信号変わっており、周囲に溜まっていた人々はとっくに歩道を渡っていた。
動けないでいる琥珀に付き合うように、有馬も立ち止まっている。
信号が点滅を始めても琥珀の足は動かない。
ようやく足先がコンクリートを摺る音が琥珀の耳に届き、「行かないと」と体が前へ傾いた。
「間に合わない」
言葉と同時に点滅が終わり赤に変わる。
有馬に腕を掴まれて、琥珀のすぐ目の前を車が通った。風圧が前髪を巻き上げた。
「…あ………」
「次の信号まで歩こうか」
腕を掴まれた状態で茫然と歩き出す。
「琥珀は少し、鈍いな」
「えっ、」
「……というか、いつも以上にぼんやりしている」
「い、いつも以上のぼんやり、ですか…」
有馬の視線は前を向いている。
有馬は不思議な人間だ。
口数が多いわけではないし、何かを聞き出されたわけでもないのに、こちらの心の裡を知っているような言葉を投げ掛ける。
観察眼が優れているのだろう。かといって、それをコミュニケーションに生かしているわけでもない。
他人と仲良くなろうとするわけでもない。
そもそも、他人と親しい関係を築こうとしていないような気すら起きる。
一体この人はどんな家族に囲まれて育ったのだろう。
琥珀は想像しようとして、しかし全く思い浮かべられなかった。
「それとも、単に任務が終わって眠いだけ?」
「…かも、しれないですよ」
「言うつもりは無さそうだな」
「…すみません…」
罪悪感で心が重くなる。
整理のできていない気持ちが軋んでいる。
有馬のせいではないのに。
この暗さが自身の頭の中だけに留まらず、自身を取り巻く空気まで重くしていることにますますへこむ。
「局での生活は息苦しい?」
「…。今、生きてるっていうのだけで…私はものすごく、恵まれています…」
「それは質問の答えになっていない」
「………」
有馬は簡潔に物を言う。
この口調も、怒っているわけでも、突き放しているわけでもない。
しかし剥き出しの言葉は、今の琥珀の心に容易く刺さる。
頭の中で焦って練られる返答はどれも後ろ向きの出来損ないばかり。
少しでも振り払いたくて、琥珀は大きく呼吸をした。
その呼吸と合わせるように有馬も嘆息する。
「…。琥珀は、大志と話してみるといいかもしれない」
「……たいし?」
「富良太志一等」
ふら、たいし…いっとう。
有馬が唐突に持ち出した名前は、琥珀の記憶にはない。
けれど有馬が名前で呼ぶ人物となると、少し興味が湧く。後輩だろうか?
「どんな方なんですか?」
「元不良」
「ふりょ──、……有馬さんの親しい方なんですか?」
「親しいっていうか。昔、捜査で編入した学校で一緒だった」
「む、むかし…?」
「何?その顔」
「いえ、べつに…」
「………。」
「すみません。なんだか意外で…」
有馬という人物の背景の一端に指が掛かったような気がして、琥珀が僅かな笑みを零す。
丁度、たった今、有馬の過去が見えないと思ったところだったのに。
高校時代の有馬。
言葉で、それも本人の口から聞かされると、途端に現実味が増して安心する。
「…有馬さんのお勧めの方というので興味が涌きます」
「そんなに期待するほどでもないと思うけど」
「…それはそれで、富良さんがかわいそうですよ…」
横断歩道の青信号を待つ人々の後ろに立つ。
通り過ぎる車をふと、眺める。
有馬は気づいただろうか。
信号待ちの人垣を越えて。
過ぎ行く車体に垣間見える一番遠くの車線を、先ほど現場にやって来た車が通過した。
夕闇に沈んだ住宅街のあの赤い路地裏は、きっともう、ひびと割れ目を残して片付けられたのだ。
「(あの車は…どこに運ぶの──…)」
有馬ならきっと答えてくれるだろう。
けれどとても聞く気にはならなかった。
車が通過したことに気がついたかも。
住宅街の、近隣の住民にも、黒いコンクリートがなぜ割れたのか、詳しく語られないままに終わるのだろう。
多少の新聞記事にはなるかもしれない。
僅かに残った血の跡を見つけるかもしれない。
ただそれだけ。
これまでも琥珀が知らないだけで、すべて日常に紛れて存在していた。
琥珀が通っていた通学路にも、遊びに出かけた街路にも。もしかしたら、暮らしていた家の近くでも。
歩行者用の信号が青に変わり、鳥の鳴き声に似せた電子音が響く。思考を裂く。
無意識の糸で繋がり引かれるかのように、琥珀は有馬の背中についていく。
──戻りたい──
日常の影を知ってしまう前の自分を、琥珀はやはり羨んだ。


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