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プリマヴェーラの憂慮(後)

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リビングには明かりが灯され、テレビの前にはゲームを楽しむ不知と才子が陣取っていた。
ソファーには二人を見守る六月の姿がある。
柔らかい暖色の照明に照らされるキッチンには琲世と琥珀が立つ。(ちなみに瓜江は部屋へ引き上げた)
「じゃあ僕は、拭く係りということで」
琲世が夕食で使った食器をシンクに下ろし、琥珀は再びシャツの袖を捲った。
「琲世君も皆とゲームしてていいんだよ?」
「そんな。洗い物をしてもらうんですから、拭くくらいは僕がしますよっ」
「ふふ。ありがとう」
スポンジに洗剤を垂らして水を含ませる。
洗いはじめると、ふわりと泡が飛んだ。
何人分もの食器を洗うことなど、たまにしかない。
半分ほど洗ったところで足さなければならない洗剤すら、嬉しくなってしまう。
「琥珀さん、どうしたんですか?」
「ん?なぁに?」
「何だか、すごくにこにこしてるので」
「うん。身体動かしたら、もやもやなんてなくなっちゃった」
琥珀は再びスポンジをしゅわしゅわと泡立てた。
そんな琥珀の空気が移ったように、琲世も嬉しそうに笑う。
新たな泡がふわりと飛んだ。
「私、洗剤つけすぎかな?」
「シャボン玉ができますね」
二人の目が追いかけた泡が中空でパチリと弾ける。
両手の親指と人さし指で輪を作り、洗剤の膜へ、ゆっくり、ふーっと息を当てる。
指から離れるまであと少しのところで弾け、二人で惜しい〜とため息をついた。
キッチンで遊ぶ二人に気づいた六月がソファーから声をかける。
「先生と琥珀さんって、弟とお姉さんみたいですね」
「弟……男としてはもう一押し欲しいなぁ」
「お姉さん…。私、お姉さんっぽかった?」
琥珀の周囲には歳上や先輩が多く、そもそも琥珀の近くにやってくる者が少なかった。
そのため、お姉さんという呼び方は頼られている気がして、どこかくすぐったいような心地になる。
ゲームに勝利した才子もソファーに上がって背凭れから顔を覗かせた。
「姉サンはちゃんと琥珀姉サンをしておるぞ」
「才子ちゃん、さっき琥珀さんの上着ずっと抱えてたよね」
「姉サンのジャケ、むっちゃええ匂いするねん」
「え、ずっと嗅いでたの才子ちゃん…」
呆れる琲世に才子がイエアと親指を立てる。
「しかし琥珀姉サンはウチらを置いて帰ってしまうんや」
「え?」
「あ、そうそう。今、琥珀さんのケータイに平子上等からメール来たみたいっスよ」
丈の名前を聞いて琥珀がぴくっと反応する。
対戦が立て込んでたからテーブルで鳴ったけどすぐに言えなかった、と。実に二人らしい事情だ。
「琥珀さん、平子上等のこと丈兄って呼んでるんスね」
不知から携帯のディスプレイの表示を指摘されて、琥珀の頬が仄かに染まる。
「それは、その…昔からのクセで…」
「ほほう。幼馴染み兄妹プレイ」
「あっ、もしかして浮気の謝罪メールじゃないスか」
「な…っ、ちが…っ、才子ちゃんも不知君もっ…!浮気じゃないしっ、プレイでもないのっ…!」
携帯を受け取りながら琥珀は反論するが、二人はニヤニヤ笑いを止めない。
「ほらほら二人とも。琥珀さんをからかわない」
「うらやましいぜ平子上等ー」
「シラギン、アタイが慰めてやるよ」
「才子ちゃん、ガチムチキャラでハグからの投げ技する気でしょ」
「ヌフフフフ。バレたか」
「ぜってー食らわねぇし」
「カモン!」
テレビの前へと戻っていく三人を見ながら琥珀はメールを開く。
飾り気のない上に短い文字列。
しかし琥珀には何よりもうれしい。
「返信は…後で大丈夫。琲世君、今日は呼んでくれてありがとう。楽しかったから…つい長居しちゃった」
「…洗い物が終わったら、駅まで車で送りますね」
「ありがとう」
布巾を広げる琲世の手へ、琥珀は丁寧に水を切って最後の皿を手渡した。


街灯に混じって灯る信号機。
時折やってくる対向車のライトに目を細める。
駅まで車なら十数分とかからない。歩けない距離ではなかったが、琥珀は琲世の申し出に甘えさせてもらった。
「女性が一人で歩くのは無用心ですから」
「私が喰種でも?」
「喰種でも、です」
お互いの小さく笑う声がする。
「Qs班。前よりもまとまったような気がするね」
助手席の窓を少しだけ開けて、琥珀は夜の空気を吸い込んだ。
シャトーを訪れたのは久し振りだったが、以前よりも暖かみが増したように感じたのは、決して春の気候のせいだけではないだろう。
「そうですね。…去年のオークション戦。あの作戦は、彼らが参加する初めての大規模作戦だったんです」
大きな作戦となれば手柄を立てるチャンスだ。
反対に失うリスクも上がることにはなるが。
信号機が黄色く灯り、車が減速して止まる。
「他の多くの捜査官と交流できたのも、その中で、任せられた役割を果たすというのも、皆の良い刺激になったみたいで」
二人きりという気兼ねのない空間のためか、琲世もどこか饒舌に話す。
「皆が、他の捜査官にもっと認めてもらえたら嬉しいです。まだまだ…特別な目で見られがちですけど…」
班の者達が危険な任務を無事に切り抜けられたことと、彼らが組織の中で自分達の存在を証明し、居場所を作り出せたこと。
琲世はその二つに何より安堵しているように思えた。
「皆、良い子たちです」
信号待ちで停車する車が増え、光が増す。
けれども車内にはエンジン音が静かに響く程度で、琲世の穏やかな声がよく聞こえた。
「……琲世君もだよ」
「え…」
「あの子たちだけじゃなくて、琲世君も」
疑問の残る琲世の目から、琥珀はひとまず視線を前へ向けた。
青信号に慌てて琲世がサイドブレーキを下ろす。
「あの子たちだけみたいに言わないで。琲世君も同じように良い子だもの」
Qs班は指導者の琲世も含まれているのに、琲世は"僕達"とは言わずに"彼ら"と口にする。
まるで自分だけを置き去りにしたような口調。
「僕が…喰種でもですか?」
「もちろん。君が喰種でも」
喰種と知られて生きることは辛く、その上、琲世は自分の過去を知らない。
自分が何をして生きてきたのか、誰と共に生きてきたのか、どこで生きてきたのか、なにもわからない。
その不安と負い目が、踏み込むのを躊躇わせ、琲世の行動に──心に制限を掛けているのだろうか。
車は間もなくロータリーに入り、バス停ともタクシー乗り場とも離れた場所に停車する。
建ち並ぶ薬屋やコンビニ、医療ビルの明かりが灯る駅前には、ぽつぽつと人影がある。
オークション戦で…と、琲世が口を開いた。
「コクリアへ収監したフエグチさん──…ヨツメという喰種は…僕を知っている喰種のようでした」
言葉を選びながら、それでも止められない気持ちが溢れる。
「彼女は僕を、お兄ちゃん、と……。血縁ではありません…でも、親しかったん…でしょうか……たぶん…」
琲世の目はハンドルに置かれた手をじっと見たまま。
けれど、彼が見ているのは記憶の中のヨツメだ。
「……情に流されていると言われれば、そうかもしれません。でも、どこかで、僕は彼女を………救いたい、って………」
琲世は、絞り出した言葉を飲み込んだ。
息を吸うと、夢から現実へ引き戻されたかのように視線を揺らして、ごめんなさいと謝る。
「すみません…今のは忘れてください、琥珀さん」
「………」
「規則は…守ります。それに彼女…ヨツメはアキラさんのお父さんの……」
「…真戸上等の……?」
「…死に関わった…喰種です…」
耳にした名前に、琥珀の心がざわりと波打つ。
喉の奥に引っ掛かった言葉が塊となって呼吸の邪魔をする。
「………」
しかし今は、捜査の話をしているのではない。
琲世の話をしているのだ。
ちらつく過去を、密やかな呼吸と共にゆっくりと閉め出した。
「…その…ヨツメという、喰種を………彼女を助けたい、…それが、琲世君の考えなら──」
琥珀は人指し指を唇に当てる。
声を潜めて誰にも聞かれないように。
小さな子供に静かにと宥めるように。
「他の人には…話したらだめだよ」
驚いたように琥珀を見る琲世の視線に、琥珀も応えるように琲世を見た。
琲世のためにも、自分はここで揺らいではいけない。
琥珀にとっては、ヨツメという喰種より真戸の響きの方が重い。
けれど、真戸はもう、いないのだ。
「…琲世君に、ひとつだけ。あくまでも…これは私の考えだけど」
いない存在の真戸を想って、琲世の枷になるのは、何か違う気がした。
「組織に従うことと、心は別…って私は思ってる。私にも…譲れないものがあるから、それが侵されそうになったら、私は…大切なものを優先させる」
他の何もかもを捨てても。
「琲世君も…琲世君の思うようにしたら良いと思う。失うものもあるけれど…守れるものも、あるんじゃないかな…」
本当に?と、頭の片隅で声がした。
守れる保証なんてどこにもない。
失うだけで終わるかもしれない。
何も行わない方が、穏やかに死ねるのかもしれない。
それでも。自分はできる限り傍にいると決めたのだ。
喰種なのに喰種を殺してきた。どれ程の憎しみを受けているのかを思うと身体が震える。
ただ、行わなければ、自分の心はきっと死んでしまうと知っている。
それを、琲世にも押し付ける気はないけれど。
「……琥珀さんは、もう…決めてるんですよね。大切なものを」
「うん。もう、ずっと昔に」
「…そんなに昔じゃないでしょう。局に入ったのだって、数年前じゃないですか」
「そうだね」
「僕と、そんなに歳だって離れてないし」
きゅっと眉に力を込めた琲世だったが、すぐにふと、何かに気づいた様子で息を吐いた。
「僕、情けないですね…迷ってばかりだ」
ゴン、とハンドルに額を乗せて項垂れる。
「ふふ。そんなこと。…たまには聞かせて?男の人って、弱音をあんまり見せてくれないんだもの」
しょげて苦悩する白黒の頭は、男の人というよりも男の子のように、琥珀には見えてしまったが。
鞄を膝の上に乗せた琥珀がドアのロックを外す。
「それって…やっぱり平子さんのことですか…?」
琲世の問いに、琥珀は困ったように微笑んだ。
「私も、聞いてもらうばっかり」


琲世の車がロータリーを出るまで、琥珀はその場で見送った。
周囲を行く人影はもう、片手で数えられるほどの人数。
ぬるいような、肌寒いような、薄ぼんやりとした春の空気の中、琥珀の手は自然と携帯を探していた。
メールではなく通話を選ぶ。
数回のコールのあと、電話の向こうで「どうした?」と。
声を聞いて琥珀は泣きそうになった。
[…まだ外にいるのか?]
「…うん」
[……佐々木は?]
「…今、帰ったところ」
[今…?琥珀、お前は今どこにいるんだ]
「………車で近くの駅に送ってもらって…電車にはまだ」
[………]
「平気…。局まで近いから」
[…娘の帰りが遅い父親の気持ちがわかった気がする…]
「ふふふ、お父さんじゃなくてお兄ちゃんでしょ?」
[………、恋人だろう]
「うん………そうだね…」
[………]
「言わせちゃった」
[………。]
「あっ、やだっごめんなさいっ、切らないでっ」
懐かしい名前に心が軋んで、久し振りの丈の声に気持ちがほどけた。
琥珀の瞳から、一粒、涙が落ちる。
琲世が恐れる気持ちの一端を、今になって本当の意味で理解できたような気がした。
親しかった存在を思い出すだろう。
殺めた者を思い出すだろう。
喰種の側にいたのだから、捜査官として口にできない記憶もあるかもしれない。
その時、琲世はその者に笑いかけられるだろうか。
その時…その者は琲世に笑いかけられるだろうか。
「(きっと、琲世君の世界は変わるんだろうね)」
琥珀は涙と共に熱くなった鼻を、すんとならした。
[…琥珀…?]
「ううん、なんでもない………まだ、外は寒いね」
気持ちを切り替えるように、冷たい空気を大きく吸い込む。
[………琥珀]
「なぁに?………あ、」
先ほど琥珀が受け取ったメールはたった二言。
休みにしたいことを考えておけ。
電話なら何時でもいいから掛けてこい。
きっと有馬あたりに琥珀を何とかしろと言われたのだろう。
「次のお休みにしたいこと…ん、じゃあ──…あったかくなりたい」
[………今でしょ、と言えば良いのか]
「ちょっと古いけど大正解っ」
[………。]
「ほ、ほんの冗談っ!呆れないで丈兄っ」
その身体に触れることも、姿を見ることもできないけれど。
電車を待つ僅かな時間、せめて声だけは、丈と繋がっていたかった。


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