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プリマヴェーラの憂慮(前)

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この気持ちは決して意味のないものだとわかっている。
自分は彼の人に、絶対の信頼を置くと決めたのだから。
たとえば今。
この身をじりじりと焼くような衝動に突き動かされて、あの間に入ったとしても、場違いな闖入者として気まずい空気の運び手になるだけ。
なら偶然を装って挨拶をしてみる?
いいや、すでに用事を済ませた自分は、これからオフィスを立ち去る身であり、部屋の最奥に見つけてしまったそこへ戻って挨拶ひとつだなんて不自然極まりない。
「(こんなに近くにいる、のに…)」
動機もタイミングも掴み損ねていた。
奥で言葉を交わす数名の捜査官の輪の中に、見つけてしまった丈の姿。
表情も明るくリラックスした様子。
思えば時刻は夕方も過ぎて、終業を意識する頃合い。
「(…このあとの予定の話かな…)」
自然と浮かぶ。
逡巡する間に、また笑い声が起こった。…普段から表情の薄い丈に関しては例外だったが。
ただ問題なのはそこではなく。
丈の腕に手を掛けて、楽しそうに笑う捜査官がいた。
若い女性の捜査官だった。
残念ながら人間よりも優れた聴覚は、提案する誰かの声を拾ってしまった。
"このあと皆で飲みに行きませんか"
ちくりと胸の奥に棘が刺さる。
そんな言葉、日常にありふれた台詞の一つだ。
けれど自分には結して言えない台詞の一つだ。
ざわざわと人の出入りの多い捜査課に背中を向ける。
自分に同僚の誘いを止める権利なんてない。
もし丈に断らせたとしても、代わりに何かできるのかと言われれば、それも無理だった。
「(…今日はまだ仕事が残ってるもの…)」
シュンとしぼんだ心と分厚くて冷たいファイルを胸に抱えて、琥珀はオフィスを後にした。


結果から言えば。
琥珀のしぼんだ心は数日経っても戻らなかった。
「………だからって、男をぽんぽん投げ飛ばすのはどうかと思うぜ。サッサン」
投げ飛ばされて突っ伏した不知は床から琲世に訴えた。
今現在、琥珀は瓜江との組み手の最中だ。
地上10センチから眺める琥珀の脚捌きは、もう30分は優に動き続けていたが、軽やかさを失わない。
「あはは…まあ、体を動かすのは悪いことじゃないし…」
この日、琥珀をシャトーに連れてきたのは琲世だった。

貸し出す本を渡すため、うららかな春の陽射しの差し込む有馬の執務室を訪れた、琲世の目に入った。
応接用のテーブルで鬼のような勢いで雑務をこなす琥珀が。
有馬曰く、
「丈に構ってもらえなくて拗ねている」
「平子さんに…?」
「そ、そんなことないですっ…!ただ…最近、あんまり…話せてないなって…思っただけで──」
と、琥珀は反論したが、ここ数日の仕事への没頭ぶりは凄まじかったらしく、あと少しで回された書類整理も尽きてしまうという。
そのため有馬は、自分は今日はデスクワークしかないから連れ出してやってくれないかと、琲世に言った。
「…有馬さんってば。犬の散歩じゃないんですからっ」
「お前が不貞腐れているのは事実だよ」
有馬自らの提案。
尚且つ琥珀は親しみを持つ先輩。
琲世が断る理由は無かった。
琲世はノートパソコンを膝に乗せる琥珀の傍へ行くと、切り出した。
「あの、琥珀さん。僕達の班、今日はシャトーで訓練の予定なんですが…」
琥珀は、二人に簡単にコントロールされていることを自覚して、少しばつが悪そうに琲世を見上げる。
けれど新たな提示に興味は津々だった。
まるで、見えない尻尾がふさりと動いたような。
または、見えない耳がぺたりと下がったような。
有馬の言う通り、確かにペットみたいだと思ってしまった琲世は、心の中で琥珀に謝った。

「でもよー、平子上等だって付き合いもあんだろーし。ちょっとくらい浮気だって──」
「浮気とは言ってません」
「うぉわ──っ!?」
立ち上がろうとしていた不知が尻餅をつく。
一瞬目を離した隙に、今度は瓜江が投げれたらしい。
一瞬前まで不知の取っていたポーズで床に転がる姿が壁際に見えた。
不知の前に立つ琥珀は、やや上気した顔で腕を組む。
動きやすいようにとスーツの上着は脱ぎ、袖を捲り上げたシャツからは白く細い腕が伸びる。
しかし喰種の琥珀は自分より大きい相手だろうと軽々と投げる。
「やっぱ力じゃ勝てないっスよ」
「力だけじゃなくて、相手の動きを利用するの」
ふぅっと息を吐いた琥珀は、そのまま頬を膨らました。
不知の浮気発言を気にして再燃してしまったらしい。
しかし琥珀が、腕を組んで胸を張ろうと、本人が期待するほどの威圧感はまったく出ていない。
「琥珀さん、お願いして良いですか」
「はい。じゃあ次は六月君ね」
「──待て六月…、こっちはまだ終わってないですよ、琥珀さん」
起き上がった瓜江がやってくる。
簡単に投げられたのが余程悔しいのか、詰まった息を調えると、鋭い目付きを更に鋭くして琥珀を見る。
「そう?じゃあ二人一緒にどうぞ」
「え、二人でですか」
「……舐められたものですね」
「舐めてなんか。ただ、私を追い詰められたら、赫子、オマケしてあげる」
瓜江が望む、より実戦に近い状態で相手をする、と琥珀が挑発的に微笑む。
「物足りない?」
「…上等ですよ」
「琥珀さん、本当に平気ですか…?」
「ふふ。私が平気じゃなかったら、つまり二人の勝ちってことよ?」
これってチャンスじゃない?と、にっこりと笑って琥珀はフロアの中央へ移動する。
すでに乗り気の瓜江も、ぶつぶつと動きのシミュレーションをしながら後に続いた。
六月だけは不安げな表情になる。しかし、
「トオル、疲れたら俺と交代な」
「琥珀さんだって捜査官なんだから大丈夫だよ」
不知は伸びをしていつでも続きを始められるように準備をしているし、琲世の言葉も六月の背を押した。
開始の合図もなく、視線の交わった三人が動き出す。
先に仕掛けたのは瓜江だ。
体重を乗せた拳の連撃が、淀みない動きで繰り出される。
弾くように琥珀が流す。
六月も加わって、瓜江の攻め手の合間を、隙を埋めるように攻撃を仕掛ける。
普段からチームを組んでいるだけあって、息もタイミングも申し分無い。
琥珀は防戦にまわっている。
「コレ、もしかして押してんじゃねーか?ウリ公は前衛だし、トオルも筋力はねーけどサポート慣れしてるし」
「…うん。二人の動きは相性が良い。でもね──」
全ての攻撃を琥珀はギリギリで躱している。
ただ、瓜江一人の時も、六月が加わった後も、同じように躱している。
二人の力を引き出しながら、少しずつスピードを上げていく。
「マジかよ…」
「僕も有馬さんのところにいた時、訓練してもらってたから」
Qs班を指導するようになってからはあまり機会がなかったけれど。
最後に手合わせをしてからどれくらい経つだろう。
──琲世君の動きって、お手本みたい──
"佐々木琲世"として生まれた自分。
喰種だという、かろうじての自覚。
記憶がなくても動いてしまう身体に戸惑う自分を、琥珀は軽やかに受け止めてくれた。
──琲世君の"昔"を私は知らないけれど。きっと私よりもずっと強いね──
すぐに抜かされちゃうと笑っていた。
しかしその時も結局、琲世は琥珀から余裕の仮面を剥ぐことはできなかったが。
「瓜江君、全身に力を籠めすぎ。筋肉を無駄に緊張させないで」
「チッ………(注意する余裕?どこまで見えて──)」
「六月君は遠慮してるでしょう。言っておくけど。私…君よりよっぽど頑丈よ──?」
瓜江の相手をしていたと思った矢先、琥珀は瓜江を躱して六月へと向いた。
目が合うといつも柔らかく笑う焦げ茶の瞳だ。
それが今、六月と鼻先が触れそうな距離に──ある。
「えっ」
真っ直ぐに六月の瞳に己を映すと、小柄な身体からとは思えないほどズシリと重い当て身を食らわせる。
「ぁ──っ…」
衝撃は脳までぐらりと揺らした。
離れてゆく煌めく瞳、LED照明、強化ガラスの向うの明るい屋外。
驚く不知と琲世の白黒頭──六月の視界に残像が散った。
「六月……!(このすきを、いかす──! )」
六月への攻撃で完全に背中を向ける琥珀に、瓜江が迫る。
「チャンスって思った?」
読んでいたとばかりに瓜江の拳を掴む。
「でもまだ力が入りすぎ」
その勢いの方向に引っ張る。
「だから咄嗟に動けない」
背を向けたまま身体を反転させての肘打ち。
意地で踏ん張った瓜江が辛うじて防御するが、琥珀の連続攻撃は止まない。
一手一手が滑らかに繋がり、そして恐らく、受ける者にしかわからない重みがある。
瓜江がガードする上から琥珀は中段蹴りを見舞う。まるで手本のような流麗な一撃。
しかし当たる瞬間に、ぞくりと──
「ふっ──!」
「っ……! 」
見た目以上の重さが籠められた蹴りが、瓜江の身体を後方へと吹っ飛ばした。
受け身も取れずにドッと床に弾み、動きが止まってからゲホッと咳き込む。
「うおっ──…ウリ公、今度こそダウンだな…」
不知が、倒れた瓜江を伺うように目を細めた。
喰種だとはわかっていても、あんな細ちっさい身体でよく戦うよなぁと、つい思ってしまう。
本人は、体格が小さく重量も足りないため、掴みに弱いと言っていたが。
よほどの強者でなければそもそも掴まえられない。
不知の頭が、ぽんと叩かれる。
「次は僕vsシラズ君だね」
「は?サッサンと俺?琥珀さんは?」
「琥珀さんはさっきから動きっぱなしだからね。僕に勝ったら、琥珀さんへの挑戦権をキミに与えよう」
琲世が立ちはだかる壁の如く不知を見下ろして、琥珀に交代の声をかける。
皆の奮闘を見ていてこちらにも火が着いたようだ。
「…別に、いいケドよ」
昨年末のオークション戦以来、琲世が考え事をする姿をよく見かけると、不知は感じていた。
「(誰だって、言えないコト抱えてんだろーな…)」
自分とて…あの二人を目にして、ふとした瞬間に思ってしまうことがあるのだから。
「(二人とも…喰種………)」
不知は頭を振る。
それ以上は、考えたくないことだ。少なくとも、皆で時間を共有している今だけは。
いつもは自分達が頼る存在の琲世も、先輩である琥珀を連れてきたことで、いくらかの息抜きにはなっているだろうか。
「…しゃぁねェ、付き合ってやっか。なぁ才子?」
「うぐ…」
不知は、自分の足元を芋虫のように這う、Qsの最後の一人の名を呼んだ。
トレーニングルームに集合して以来、琥珀の脱いだ上着にくるまっている。
…くるまってスーハーしている青い頭。
「お前もたまにはサッサンを喜ばしてやろうぜ」
「…姉サンの上着温め隊も…これで終いか…」
「なに重々しい雰囲気作ってんだよ」


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