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憧憬

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あと、遺書を書いておくように、と。
応接用のテーブルで資料を分ける琥珀に、もののついでに有馬が伝えた。
とある作戦の前のことだった。
琥珀も資料から資料へ往き来していた手を止めると、「はい。わかりました」と答えた。
隣のファイルから白紙を取り出す。
胸元からボールペンを抜き、カチ、と鳴った。
冷気を循環させる空調の音に混じって、カリカリと紙面に当たる音が少しの間、続き、終わる。
再び、カチ、と音を鳴らして。
ペンは胸元へは仕舞わずににテーブルに置いた。
低いテーブルの上で、丁寧に用紙を三つ折りに畳む際に耳にかけた髪がさらりと落ちた。
「書いたのか」
「はい。忘れないうちにと思って」
髪を耳にかける。
ファイルに挟んで元の位置に戻した琥珀は、また資料の振り分け作業に戻る。
分けられた紙束を整えるとホチキスで留め、付箋を貼ってペンで書き込みをした。
「遺書は後で封筒に入れたらお渡しします。──この資料、班にお届けしてきますね」
有馬にも一部を渡すために立ち上がる。
角がきっちりと揃えられて、付箋には整った字で書かれた班名が見える。
琥珀は眩しげに瞳を伏せながら、自分の動きを見ている有馬に笑みを返した。
窓を背にした有馬の席はとても明るい。
「琥珀」
「なんですか?」
「今、なれるか?」
「何にですか?」
「赫眼」
有馬の唐突な言葉に琥珀は疑問を浮かべたが、けれど戸惑うこともなく瞳を閉じた。
口を結び、やや眉が寄せられる。
開かれた琥珀の瞳の、左側は焦げ茶色のまま。右目には、赤と黒を内包した赫眼が顕れていた。
陽光で眩しそうに細められた赤黒い瞳は、やはり琥珀のもので。
有馬が目許へ手を伸ばすと、琥珀の身体がぴくりと動いたが、その後は触れられるままにじっとしている。
少しの緊張と、気恥ずかしさを互い違いの瞳に宿して有馬を見た。
「赫眼なんて…見慣れてるのに。どうしたんですか」
「………そうだな」
もう眼を戻しても?と訊ね、有馬が答えたので琥珀は再び瞳を閉じた。
「遺書。書くのが早かったな」
瞬きをして、ちゃんと戻っているか気にする琥珀を、有馬が眺める。
「以前の任務で書いた時と同じ文面なので」
「どんな?」
「私の持ち物は処分してくださいっていうのと。貯金は好きに使ってほしいということと。あとは、今までありがとうって、お礼です」
付箋から覗く整った字を書くのと同じように。
遺書も整った字で記されたのだろうと有馬は思った。
落ちる髪を耳にかけた細い指で。
とても自然な動作で折り畳まれたあの手紙は、遺書という響きで表されるイメージよりも、もっとずっと軽やかに、ファイルの間に挟まれた。
出掛ける際に残す書き置きや、伝言のような──
「──お届けに、行ってきますね」

琥珀は自分を無いものとして扱うことに慣れている。
「(そうさせたのは──)」


琥珀のような片眼の赫眼というのは、片親を喰種とする、ハーフの"喰種"が持つ特徴だ。
母親が喰種である場合、胎内に子が宿っても母体が餌と認識してしまい育たない。
そのためにハーフは父親を喰種とする。
琥珀の父親は既に死亡しており、調査でもそれ以上の事は判らなかった。(人間の母親も同様に死亡している)
隻眼とは稀有な存在だ。
確認されている個体数は少なく、能力も高い。
実験材料として貴重な存在だ。
「貴将、彼女はどんな様子だ?」
報告を終えた局長室から他の者が退室した後、和修吉時は朗らかな顔で有馬に訊ねた。
表面上、"CCG局長"という皮を被る喰種だ。
「彼女?」
答える有馬も"捜査官"の身分を持つ、喰種に育てられた半人間だ。
「この間捕まえた隻眼のことだよ。仲良くやっているのかと思ってね」
「ああ…」
人間の世から喰種を排除しようとする集団の上層部がこれなのだから、もし、純粋な"人間"などこの世に存在しないと言われても、何の不都合も無く世界はこのまま継続するのだろう。
…元から歪んでいるのなら、途中でまた歪んだところで誰も気づきはしない。
そんな考えが有馬の頭に過る。
「コクリアには送らない、クインケにもしない。挙げ句、傍に置きたいなんて言い出した時には驚いたよ」
吉時は肩を竦めた。
「喰種を相手にお前が容赦をするなんて初めてじゃないか。どういう風の吹き回しだ」
「…珍しかったので、少し興味を思っただけですよ」
「興味か。所有権はお前にあるし、有馬貴将は優秀な捜査官だから多少の我が儘には目を瞑るが…」
時おり垣間見える表情のつくり方。
有馬の記憶にある、"庭"で言葉を交わした泣き黒子の子供と重なった。
「"たまたま現場付近"にお前が居てくれたお陰で、捕獲もスムーズに進んだことは間違いない。ただ──」
温厚然とした柔和な笑顔で続ける。
「貴将、お前が死んだ時に権利はちゃんと局へ返してもらうよ」
その時まで大切に預かってくれ。
大切に扱ってくれ──とも、聞こえたような気がした。
しかしそれがどちらか訊き正すつもりはなかったし、これ以上話を続ける気もなかった有馬は、それでは、と会話を終わらせた。

和修家は有馬の育ての親といえる存在だ。
その存在に有馬は嘘をついていた。
正しくは、嘘ではない言葉、だが。
嘘であれば暴かれてしまうから、沈黙か、或いは歪曲させた言葉で答えてきた。
琥珀の所有権を局に返すつもりなど最初から無かったし、有馬が喰種を相手に容赦をしたのも、これが初めてではない。
"梟"と呼ばれる隻眼の喰種が最初。


かつて"V"に属していた喰種がいた。
今ではCCGから追われている、芳村という名の喰種だ。
芳村は人間の妻を持ち、産まれた娘が隻眼の喰種だ。
隻眼の娘が育ったのは地下で、芳村ではなく別の喰種に育てられたらしい。
一方で琥珀は人間の祖父に育てられて、人間の社会で暮らしてきた。
記憶にあるのは、闇夜に紛れてしまいそうなパーカーを制服の上に羽織った琥珀の姿。
もっと明るい色のものにしたらと言葉をかけたら、恐らく不穏を感じ取ったのだろう琥珀は、怯えるでもなく、怒るでもなく、寂しそうに微笑んだ。

「まだ起きないのか」
鍵の付いた病室扉の前に立つ同僚に有馬は声をかけた。
淡い色の廊下に濃い色のスーツ姿というコントラストの強い組み合わせ。
地下階でありながら過不足無く照らす蛍光灯によって、廊下は夜中を昼間とも紛う明るさで満ちている。
「……よく眠る奴なので」
有馬を目にしても、特に顔色を変えずに丈が答えた。
先程仕事を終えて別れたばかりなのに、また顔を会わせるというのも不思議な心地だ。
「傷はもう癒えているだろう」
「…殆ど」
医療スタッフにも確認をしたので、と扉に嵌め込まれた小窓に目を遣る。
有馬の攻撃を受けて、腹部に大穴を空けた彼女がここへ連れ戻されたのは一昨日の朝。
喰種の回復力など厭というほど知っているだろうに、一昨日の夜も、昨日の夜も、今もこうして、丈は仕事の後に彼女の様子を見に来ている。
…しかし、よく寝るといっても流石にそろそろ目を醒ましても良い頃だろう。
「傷が癒えたなら、今は普通に寝ているだけか」
「まあ、そうですね」
「…」
「…」
「…起こさないのか?」
「………。」
「………」
「………」
「タケが起こさないなら俺が起こそうか」
「起こします」
即座に鍵を取りに行こうとした丈を有馬は止める。
「いいよ。今起こす必要もない。元々、明日の朝に呼びに来るつもりだった」
「…何か用があったのでは?」
「特には無いな」
「………。そうですか」
なら何しに来たんですか。そう思っていそうな丈の視線が有馬に刺さる。
あまり表情が変わる人間ではないので定かではないが。
ただその丈も彼女が絡むと幾らか様子が変わる。
「何か、起こさない理由でもあった?」
「…特には」
「本当に?」
「………。」
小窓から室内を見る横顔はやはり表情の変化が薄くて、有馬でも考えていることが読みにくい。
「……起こすのは──…。これは勝手な希望ですが…起きるまでは、このまま寝かせておいてやりたいと…」
病室は、その小窓ひとつで室内すべてを見られる程度の広さしかない。
「…目を醒ましたら、今までとは違う環境で過ごすことになりますから」
選びながらの、とつとつとした言葉が廊下に響いた。
廊下には、壁の外からだろうか、低く、空調の音が伝わる。
どちらかが言葉を続けなければ無人も同然の静けさが漂う。
本当に、と、丈が口を開く。
「喰種でしたね」
琥珀は──。
丈が有馬に幼馴染みですと紹介した君塚琥珀という少女は、喰種だった。
機会があって丈に紹介されて、その翌日に有馬は丈に、先に謝っておく、と言った。
文脈も脈絡も関係なく、ただそれだけ。
思い当たる節もなく突然謝られた丈はしばらく有馬を見つめ、こちらも、はぁ、とだけ返した。
「…あれは、これに対しての言葉だったんですか」
やっと意味がわかりました、と嘆息した。
有馬が琥珀に初めて会った時、残念ながら判ってしまった。
多すぎる喰種を見てきた、捜査官としての経験か。
ただの勘かもしれない。
背筋をぴんと伸ばして緊張しながら、けれどとても楽しそうに、丈や、篠原や丸手と話す琥珀を見ていて、気づいてしまった。
小さな違和感だったが、それだけで十分だった。
この時も、ヒトより優れた自分の感覚を疎ましく思ったことを有馬は覚えている。
白い廊下は相変わらず低い音に包まれている。
衣擦れの音がして、丈が再び小窓へ顔を向けた。
視線の先には琥珀の姿があるのだろう。自分達の会話も何も知らずに眠り続ける。
「タケ、お前は、君塚琥珀が──幼馴染みが喰種でショックを受けた?」
ちらとだけ、丈は有馬へ目を向けた。
やや考える。
この数日で周囲の様子が変わったというなら、琥珀程ではないにしろ、丈も同様だ。
捜査官に近しい場所から喰種の存在が発覚したのは、捜査官の間でもあまり聞こえの良い話ではない。
丈自身にも調査が行われた。
「…周りの人間が言うほどは、受けていないと思います。……単に俺の頭が理解できていないだけかもしれませんが」
冗談のような、恐らく真面目であろう丈の言葉に僅かに気持ちがほぐれる。
「一昨日、話をした琥珀は、やはり琥珀だったので」
本人が今この様子なのだから、この先も丈は今までと同様に彼女に接するだろう。
恋人同士──かは知らないが、それに適した距離で。
人間と喰種としては、近すぎる距離で。
周囲の視線がどのようなものであっても、二人の距離を保ち続けるのだろう。
「タケ」
有馬はスーツの内ポケットから出した鍵を丈に渡した。
仕事を終えてここへ足を運ぶ丈を見て、管理者に話を着けて有馬が預かった。
元々、これを渡すつもりで来たのだ。
こんなに長話をするつもりは無かったが。
「明日、彼女を移動させる」
この後、身体検査や調査などを行い、問題がなければ琥珀はしばらく、篠原の元で働くことになっている。
眠りから醒めた琥珀が丈と顔を会わせるのは、また時間を置いたその先だ。
「…逃がすかもしれませんよ」
「お前がそうしたければ、すれば良い」
行えばどうなるかも互いに解っている。その上でそうしたいのなら、止めはしないと有馬は伝える。好きな道を選んだら良い。
ひとつ、聞いておきたいことがあった。
「タケは──…、俺のことを憎いと思うか…?」
琥珀を喰種だと見抜いたのは自分だ。
琥珀と丈の日常を砕いたのも。
「………。あの日、捜査区域を移動しましたよね」
丈は鍵を受け取ったままの格好で答えた。
「今、琥珀は生きています。……上手く言えませんが…あなたが最善と判断したから、そうしたんでしょう。なら………俺は──」


有馬が単独で調べ初めて間もなく、琥珀が隻眼であることを知った。
人も喰種も、憎むこと無く生きていることを知った。
CCGは素性不明である琥珀に"ナイトメア"の名を付け、隻眼の赫者であることからレートをSと定めていた。
Sレートともなれば危険視され、警戒度も高い。
"ナイトメア"の討伐へ、上が本格的なチームを組むらしいという噂も耳にした。
いずれ誰かが摘み取る命なら、試してみようという気になった。
所有権がある内は、琥珀の命は──


ふわりと風が前髪を浮かせる。
ゆっくり目を開くと、あっ、と近くで声がした。
次第に定まる、不自然に一部の欠けた視界。
有馬の身体に上着を掛けた体勢でぴたりと固まる琥珀がいた。
顔を動かせば良いだけのことなのだが、琥珀が見える場所にいて良かったと、頭の隅で思った。
「すみません…。起こしてしまいました……」
今、掛けた上着をすぐに取り払うのも気が引けると思ってか、迷う指先が有馬の肩の辺りで所在なさげに浮いている。
やんわりと、その手を掴まえる。
「…どれくらい眠っていた?」
「私が部屋を出てからだと、15分くらいでしょうか」
「眠ったことにも…気付かなかったな…」
目を閉じる前に琥珀の手にあった資料は見当たらない。
「ぐっすり眠っていたので、起こさずに掛けられると思ったんですが…」
いたずらが見つかってしまったように、残念そうに琥珀が言う。
「琥珀も眠ったら?」
陽射しと同じように琥珀の手は暖かい。
「私ですか?…私よりも有馬さんの方がお昼寝が必要ですよ。少し、お休みしてください」
誰か来たら起こしますから、と、穏やかな声が耳を打つ。
寄越される日々の任務に終わりはなく、ひたすら積み上げ、こなしてきた。
その強張って麻痺した冷ややかな部分を、暖かく溶かすような感覚。
頭の隅に残っていた微睡みがゆっくりと広がる。
「琥珀は…もう外へは行かないのか?」
「はい。お届けは終わりました」
琥珀はいつもこんな風に眠りについているのだろうか。
だから琥珀の纏う空気はこんなにも暖かくて、甘いのだろうか。
「有馬さんが起きるまで傍にいます」
「手を繋いだまま?」
「えぇと……繋いだままでもいいですけど。寝にくくないですか…?」
「暖かいから、離したくないな」
「そうですか…。じゃあ──」
手を繋いだまま、琥珀は有馬の膝の脇、絨毯敷の床に座ると有馬を見上げた。
「眠りにつくとき、誰かが手を繋いでいてくれると、安心します」
「…そういうもの?」
琥珀の双眸が陽の光を受けながら、楽しげに細まる。
確かに琥珀はここにいる。
琥珀が時折、自分を無いものとして扱っても、琥珀はまだここに存在していて、こうしてその温度を有馬に感じさせている。
どうやら試した目論みは上手くいっているようで、琥珀の命は長らえている。
ただ、この目論みには時間制限があり、この先も永遠に続けられるものではない。
有馬は琥珀を見下ろしていた。
霞んで、ぼやける、その姿を。
衰えた眼であることも、眠気が心地好すぎたことも。
どちらも惜しく思った。
もう少しだけ、
「(琥珀を見ていたかったな──)」
有馬の意識を、指先から伝わるように、優しい眠りが包み込む。
自分だけを瞳に映してくれる琥珀はあまり無いのに。
自分に残った寿命もそれほど長くはないのに。


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