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深い深い水溜まり(後)

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──これは捜査官ですよ──
遠くで有馬の声が聞こえた。
「(私は…喰種ですよ有馬さん)」
庇わないでと、琥珀は有馬に言わなければと思った。
守られて情けをかけられるのは悔しかった。
中途半端に優しくされてはきっと縋ってしまう。
悲しみと喜びの比率を間違えてはいけないと、己を戒めるのに。
心のどこかが、その温もりに指をかけた。
琥珀が意識すると、光を透かした目蓋の裏は明るさに包まれていた。
ぱちりと目蓋を開く。
「(違う天井…)」
とても静かな空間に、カリカリとペンの走る音と紙の滑る音だけが伝わる。
「…どこ?」
「俺の執務室」
「わっ……」
天井しか映らない琥珀の視界の、見えない頭上から有馬の声が返ってきた。
音がしていたのだから誰かが居るのは当然で、先ほどまで有馬と行動していたのだから予想はできたはずなのに。
動きの鈍い思考にやや呻いて、琥珀はゆっくりと頭を向ける。
おはようと事も無げに挨拶をする有馬へ、琥珀もおはようございますと返す。
執務机に向かう有馬が、ぱらりと書類を捲った。
「さっきもこのやり取り…しましたね」
「そうだな」
どうやら応接用のソファーに寝かされていたらしい。
起き上がろうとして、けれど後から身体が着いてくるような感覚に思わず眉をしかめる。
「まだ休んでて良い。もう少し掛かる」
「…すみ…ません」
琥珀は横になったままでじっと目を閉じた。
いつ意識を失ったのかも定かではなかった。
有馬に運ばれた…のであろうことも記憶がない。
どこから聞くべきか、何を聞くべきかを考えたけれども、上手くまとまらなかった。
「…こんな時間までお仕事、ですか?」
「早く帰っても、他にすることもないし」
これもどこかで聞いたような言葉だ。
廊下での会話、任務、移動中の車内と記憶が遡り、それよりも前へ。
部屋は違うが、先ほどをトレースしたような今。
──殺されるとは思わなかったのか──
「…あ」
「何?」
「"殺されるとは思わなかったのか"って、有馬さん…私に聞きませんでしたか?」
有馬の手が止まる。
「さっき、部屋に私を起こしに来た時に…」
「…そんなこと言った?」
「そう言ったように、聞こえたので…。でも、あの…半分寝てたので、確かじゃないですけど…」
もごもごと、次第に自信を失って声の弱くなる琥珀。
有馬は少し考えると、中断していた動きを再開して書類に目を通し、それから口を開いた。
「ただの独り言」
「…そ、そうですか…」
「寝ている琥珀を見ていて、思い出した」
椅子の背凭れがギィと鳴る。
机に並ぶペンや小物類を抽出しにしまい、書類を整えた。
「…琥珀はタケを見ていただろう。自分が殺されるかもしれない状況で」
眼鏡を軽く持ち上げると目頭を押さえて、また戻す。
フレームの奥の少し眠そうな目を見返して、琥珀は、有馬の言う、殺されるかもしれない状況を思い出そうとする。
自分が捕らえられた時か、あるいは病室から出て有馬に攻撃された時か。
どちらも意識の限界が近く、今になって冷静に思い出そうとしても断片しか見つからない。
「そんなに…見てましたか?自分では朦朧としていたので、捕まった時も、その後の方も、覚えてなくて…」
確かに丈のことを呼んだような気がする。
無意識のうちに、自分は強く縋っていたらしい。少なくとも、このように有馬に指摘されるくらいには。
琥珀は恥ずかしくなって思わず俯く。
「どちらもだ。…余程、信用しているんだな。タケのこと」
「…信用とは…少し違いますけど、でも…」
「でも?」
「でも…その……、」
口ごもる間にも頬に熱が上ってゆく。
「信用じゃ、なく、て……、」
きっと端から見たら赤面しているのだろうと自分でもわかる。
「あの……」
琥珀は、有馬が自分の様子を見て察してくれれば良いと期待をしたのだが。
残念ながら有馬は、ただ純粋に琥珀の答えを待っているようで、これっぽっちも気付いた様子がない。
仕方なく琥珀は蚊の鳴くような小さな声で。
「す………すごく…好きだから………」
絞り出したのは、それから数秒後だった。
「………」
「………」
お互いの沈黙が辛かった。
「(ああやだ待って私ってば…!なに言ってるのこんな所で…!恋ばな?恋ばななの?なんか違わない大丈夫?理由になってるのこれ…!?)」
琥珀の頭は沸騰しかかっていた。
有馬がどんな表情をしているのかも、見るのがとても恥ずかしかった。
けれど、怖いもの見たさ、という感情も少しだけある。
ゆっくりと、そおっとソファーの肘置きに手をかけて窺うと、琥珀を見るどこか呆気に取られたような有馬の表情が目に入る。
珍しい。
"CCGの死神"有馬貴将のキョトン顔、珍しい。
珍しいけれど、火照ったままで戻らない顔を隠す方が今の琥珀には必要だった。
手の甲と指先の表と裏と。頬よりも冷たい箇所を代わる代わるに当てていく。
ソファーでまごつく琥珀を余所に考え込んでいた有馬が、ようやく口を開いた。
「………すごく好き、か」
「(ああ、もう言わないで………)」
「人を好きになるって、どんな感じ?」
「………は?」
恋ばなが続いてしまったのだろうか。
今度は琥珀が呆気に取られる。
「人を好きになったことがないからわからないな」
赤面が治まっていないことも忘れて、呟く有馬を、琥珀は顔を上げてぽかんと見ながら反芻する。
わからない。人を好きになったことがないから。
今までで──、
「一度も…?一人もですか…?」
「思い当たる人はいないな」
有馬は冗談を言うタイプとも思えない。
琥珀はソファーから身を起こして座り直す。
「えっと例えば…この人と話をするのが嬉しい、とか…会うとどきどきするとか、ありませんでしたか?」
「別に」
「じゃ、じゃあっ…女の人とか、その人の仕種を見て可愛いなとかっ」
「可愛い………」
「………」
考え込む有馬に、琥珀は考え込んでしまう。
本当に本当のようだ。
恋愛とはそこからの発展だろうに。有馬には恋愛の回線が繋がっていないのだろうか。
本人はこんなにも人目を惹く容姿をしているのに。
それとも琥珀の方が、日頃から丈のことを考えすぎなのだろうか?……わりと頷ける。
「そんな感じ、ですよ?好きになるって」
「ふぅん」
「(ふぅん、って全然興味なさそう…)ええと他には、その人に触ってみたいって思ったり…」
「………」
「姿を見かけると目で追いかけちゃうんです。顔を見ると、それだけでもなんだか嬉しくなっちゃう──」
「タケの無表情でも?」
「そ、そんなに無表情じゃないですっ…!」
琥珀は肘置きに身を乗り出すように答えてしまう。
それから力が抜けて自然と笑いを零した。
「──ひどいです、無表情だなんて。有馬さんだって丈兄が何考えてるかわかる人なのに」
「まあ…それなりに長く一緒にいるしね」
それなりに。
自分の知らない捜査官としての丈を知る有馬を、琥珀は少し羨ましく思った。
「…有馬さんが好きになる人って、どんな人なんでしょう」
そして、人を好きになったことがないと考え込む有馬を、なんとなくだが、有馬らしいと感じた。
圧倒的な強さを持つ有馬は、局内では近寄りがたい存在に見られているような気がする。
向けられるのは尊敬と羨望の眼差し。
琥珀の場合、そこに怖れも混じる。
どこか感情を読めずに怖いと思っていた有馬と、少しだけ近づいたように思えた。
「琥珀は俺がどんな人を好きになると思う?」
「ふふっ、見当もつきません。……有馬さんの好みのタイプなら、きっとCCG全女性局員が気にしてますよ」
「大袈裟だな」
「そんなこと無いですよ」
そういう人が現れたら教えてくださいねと付け加えて、その時を今から待ちわびるように琥珀は笑う。
作られた笑みではなく、気遣いの微笑みでもない。
年相応の笑顔で。
「良かった」
「?」
「…──怖がられているのかと思っていた」
「………」
有馬の顔を見返して、琥珀が言いにくそうに視線を逸らす。
「…緊張、してましたよ。だって有馬さん、私のお腹に大穴を空けた人ですし」
「あれくらいしないと簡単に治ると思って」
「まあ、そうなんですけど」
ただ、有馬がそれを行うのには理由があることを知った。
──効率は下がる。けどそれを言っていては、お前の腕は上がらないよ──
悪意や憎しみという感情ではない。
…とても厳しい教え方ではあるけれど。
「(訓練でも、わりと痛いし)」
つい自分のお腹を見下ろす。
でも結局、お腹はちゃんと治っているし、赫子の扱いにも少しずつだが慣れてきた。
「…緊張、解けてきてますよ。こうして有馬さんとお話をして…」
人間の有馬に赫子の使い方を教わるのも不思議な話だと思う。
「有馬さん、さっき局長に言いましたよね。"これは捜査官ですよ"って」
けれど琥珀がここにいる限り、強くなることは必要だ。
「…私、嬉しかったです」
有馬にとって琥珀の相手をすることが、クインケの手入れや強化のようなつもりであったとしても。
他人の思いではなく、自分自身がそう思えることが、今の琥珀には大事だった。
「──そう。俺も、嬉しいな」
それが雪解けのような微かな変化でも。
眠たげに瞬きをしながらも答えてくれる有馬の姿に、琥珀の口許が緩む。
ソファーから立ち上がって、執務机を挟み有馬と向かい合う。
「…私が……もっと局から信用されたら、一人でも局内を歩けるようになりますか?……そうしたら、有馬さんに送り迎えをさせてしまう手間も、少しは減りますか?」
「迎えに行くのも悪くない。良い息抜きになるし」
「…ちゃんと、お休みしないとだめですよ」
手を伸ばして触れるには遠い。
けれど互いの、ほんの微かな微笑みがわかる近さで言葉が交わされる。


あれはどのタイミングだっただろうか。
局内の…確か廊下を歩きながらだった気がする。
タケに聞いたのは。
お前から見て、君塚琥珀というのはどんな性格をしている?と。
…性格、と反芻したタケはしばらくの間、考えていた。
「──お人好し…でしょうか。……自分よりも人の心配をする奴です」
口にした後も考えるような沈黙。
人の心配というより、それはタケへの心配なんじゃないか。そう返すとタケは、残念ながら、と。
「時間が経てば…有馬さんとも打ち解けると思いますよ」
「彼女にとって、俺に関して良い記憶は全くないと思うけど」
再びの沈黙。
廊下に響く靴音に紛れて、それでも、と。
聞こえたような気がした。


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