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深い深い水溜まり(前)

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──殺されるとは思わなかったのか──
身体を横たえる琥珀の、顔に掛かる髪を掬って見下ろす有馬の姿がある。
細いフレームの眼鏡の奧、瞳からは感情が読めず、美しい硝子が嵌め込まれているようにすら見えた。
「…ぁ、………」
頭を行き来するゆっくりとした手の動きも感じた。
波のように微睡みが引いてゆき、琥珀の世界が戻ってくる。
明り取り程度の嵌め殺しの小窓。
天井に張り付く細長い照明。
部屋の隅を区切るカーテン。
組立式のラックには畳まれた衣類と日用品が置いてある。
ベッド脇には椅子が一脚とサイドボード。
眠る前に外した腕時計の、今の時刻は…夕方の5:48だろう。
丈に図書館で借りてきてもらった小説も乗っている。終わり近くのページに栞が挟まっている。
眠る前に、枕元に閉じた記憶があったのに。
混ざる、数時間前という過去と、今と、有馬の声。
「──ころ…され……?」
琥珀の呼吸は声となり、ベッドに座る有馬へ向かった。
どの死についての話だろうか。
琥珀がCCGに身を置いて暫く経った。
喰種も殺した。数えられる程の何体か。
これからはもっと増えるだろう。
増やすことが、琥珀の生きられる時間に繋がる。
ベッドに身を起こすと有馬の視線と近くなった。
椅子があるのだからそっちに座ったらいいのにとか、普段は建物入り口で待つのになぜ部屋まで来たのかとか、今日は休みと言われていたのにとか。頭を過ぎていく。
困ったことは他にもあった。
寝姿を見られたことは恥ずかしいし、また、有馬と会話をすることに、琥珀はまだあまり慣れていない。
緊張もする。
「…おはよう、ございます。有馬さん」
「おはよう。琥珀」
いくらかの、怖さも。
「(本当に、どうしてこんな所にいるんだろう……)」
眠気の少し残る頭で目蓋をこする。
「携帯に電話しても出ないから迎えに来た」
「…けい、たい…?」
自分のものではなく、仕事用にと持たされた備品だ。
制限は掛けられていないらしいが、外の世界の出来事には触れる気にならず、任務の連絡と目覚まし時計の機能くらいしか使っていない。
「(…携帯……)」
サイドボード、椅子、ラック。
琥珀は部屋の中の、物の置ける平らな場所に目を走らせるが見つからない。
あれ?と思いながら、今度はベッドを探して、枕を持ち上げると──。
「えと……着信、一件…」
…って、少なすぎませんか。
一回繋がらないと来ちゃうんですか。
確かに有馬からの着信が10分程前に入っていたが、たった一度の連絡が通じないだけで部屋に足を運ぶとは。
意外と短気なのだろうか。
「…次から気をつけます」
「構わない。連絡が付かなかったらまた来るから」
「………。」
「それで、急だけど夕方から任務が入った。お前にも来てもらう」
「私も…ですか?」
なんとも言えない表情をしていた琥珀の瞳が軽く開く。
もちろん異論など無い。
琥珀はこの日、待機と言われていた。(ほとんど休日扱いだが)
しかしここにいても読書か寝るくらいしかすることもない。
夕方からの任務。となると琥珀の頭に過る、一つの期待があった。
丈は──平子一等も一緒なのかと…。
「丈はクインケの調整でラボへ行っている。予備の装備もあるけど、今日はこのまま帰す。その穴を埋めてもらう」
「……はい」
落胆は隠せていなかっただろう。自分でも肩が落ちる重さを感じた。
「集合は地下駐車場に18時30分。装備を整えて待ってること」
18時半、装備、と琥珀は忘れないように口の中で繰り返す。
伝えることは伝えたという様子で立ち有馬が上がった。本当に、このためだけに来たようだ。
琥珀は慌てて「有馬さん」と呼び止める。
「丈兄……平子一等の、クインケの調整っていうのは…」
不安を宿した琥珀の瞳を有馬が見下ろす。
「任務で、何かあったんですか…?」
「敵の攻撃の弾き方が悪くて歪んだだけだ。タケに怪我はない」
「…そう、ですか」
良かった、と思わず零れる。
「………」
有馬が足を止めたままなので、琥珀は恐る恐る、ついでにもうひとつ訊ねてみることにした。
「あの、」
「何?」
「私だけで、邪魔にはなりませんか?」
丈が一緒がいいとかそういう意味ではなく、戦力として琥珀自身に不安があった。
「効率は下がる。けどそれを言っていては、お前の腕は上がらないよ」
有馬の言葉には飾りがない。
事実。
唯、それが有るのみで。
そこを冷たく感じるし、突き放されているようにも思える。
「(私は喰種だから…仕方ないけど…)」
以前に琥珀が会って話をした時も、有馬は感情の起伏が薄い人間のように思えていた。
その時はそれで終われたが。
こうして行動を共にしなくてはならなくなった、今の琥珀の立場で有馬を見る限り、親しみを持てるようになるかは自信が無かった。
…有馬が丈の上司とはいえ。
はい、と琥珀は小さく答える。
強くなることは必要だと理解していたが、気が進むものでもない。
今はただ、指示された任務の成功を一つ一つ重ねていくしかない。
正解と正論と、自身の心とを。
噛み合わないこれら全てを、軋み、歪ませながら、少しずつでも混ぜ合わせていくことが必要だった。
呼吸ほどの、微かなため息が零れる。


任務を終えて局へ戻り、時刻は21時を回った。
総議長室前の廊下で、壁に背を預けて琥珀は有馬を待っていた。
「(赫子の制御、前よりは上手くいったかなぁ…)」
身体を包む倦怠感はあるものの、後は部屋に戻るだけなので持つだろう。
夕方からの任務は、緊急ではあったが難しいものではなく、有馬と琥珀のみで行われた。
そのために琥珀は、丈や、他の捜査官を巻き込む心配をせずに赫子を使うことができた。
"赫者"と呼ばれる喰種の戦い方で。
「(喰種って…私って、あんなうねうねになれるんだよね…)」
──琥珀。お前は赫者だ──
実戦で使用する前に、一度、局内にある訓練施設で、琥珀は有馬に"それ"の存在を教えられた。
共喰いを行う喰種の中で、稀に変異するものがある、と。
ほぼ実戦の様子を呈した訓練の最中、引き出された自身の能力を、身体を琥珀は思い出す。
あの場に自分を映せる鏡のようなものが無くて本当に良かったと思う。
赤黒い赫子に覆われた肌。
自身が巨大な花となり、その中心に守られているような──…。
有馬はイメージによって形すらも制御もできるはずだと言っていた。
しかし、その時の琥珀の救いにはならなかった。
床一面を侵食するかの如く広がる赫子。
植物の根にも似た、細く分かれて伸びてゆく赫子の一部は、迷わず有馬へと向かっていた。
畏れる琥珀の意思とは反対に、渇きを訴え、少しでも多くの人間を(喰種でもいい)、自身を動かす糧である細胞を(寄越せと)欲深く求める餓えを感じた。
「(自分じゃないみたい…)」
あんなものを(気持ち悪い)果たして制御できるようになるのだろうか(考えたく、ない──)…。
「(だめ…制御しなければ、いけないの……)」
丈の傍にいるために(こんな姿でも)。
提示される要求には、応えなければならない(嫌、慣れたくない…)(怖い)。
身動ぎをしたわけでもないのに、琥珀はゆらりと眩暈を覚える。
ずる──と絨毯を踏み締める音。
そこに重なって、重たい総議長室の扉の開く音が響いた。
「ほぉう、これは有馬ボーイのピクシーじゃあないか」
低く厚みのある男の声と、
「悪戯もしないで主を待っているなんて、躾が行き届いているのね」
艶のある女の声。
額に手を当てた琥珀が顔を上げると、部屋の前に立つ二人の男女。その後ろから有馬と、もう一人──。
「琥珀、用が済んだ。戻るよ」
「有馬ボーイ、少し紹介があっても良いのではないかな?」
「………」
「ボーイが捕らえたという例の喰種だろう?」
「そうね。任務で一緒に動くこともあるかもしれないでしょうし」
「まあまあ二人共。そんなに威圧的になっては、琥珀君も驚いてしまう」
「面白いことを仰いますな、局長。喰種に威圧されているのは、か弱き人間の方ですぞ」
琥珀も知る和修吉時局長に男が答える。
ここにいるということは階級の高い捜査官なのだろう。そんな人間たちを前にするのは決して居心地が良いものではない…。
眩暈も治まったとは言い難かったが、琥珀は背筋を伸ばす。
「君塚琥珀です。学生…でした。篠原特等と真戸上等の元で指導を受けて、今は有馬上等の元でお世話になっています…」
「ふむ、随分と社会性が高いようだ」
「ほら言った通りだろう?琥珀君には、丸も一本取られたくらいだからねぇ」
乱れの無い整えられた髭と髪の大柄な男に対して、吉時が面白そうに返す。
二人を流し見た目で、女も琥珀を眺める。サイズのぴったりと合ったスーツに身を包んでいる。
「登録名は"ナイトメア"、だったかしら。能力は高いと有馬さんから聞いているわ。今後の働きが楽しみね」
控えめに言って観察──包まずに表すと品定めを行う彼らの目。
琥珀は軽く結んだように見せる手の、隠れた小指に力を入れて、ふらつく身体を叱咤する。
僅かでも弱味を見せたくないという意地だった。
「今もピクシーを伴っての任務だったのだろう?クインケにする気はないのかね、有馬ボーイ?」
「特には考えていませんね。IXAとナルカミで事足りているので」
「羨ましいわ。予備には困らないでしょう」
「彼女より強力な喰種を、お二人も多く駆逐しているでしょう。そちらを活用されてはいかがですか」
有馬が琥珀の隣に立つ。
「まあ、片眼の喰種ともなると珍しいからねぇ」
「…局長も琥珀に興味がおありですか」
「それを言ったら貴将。女子高生に興味のないオジさんはあまりいないと思うよ?」
「………。」
「いや、軽い冗談だ。そんな目で見ないでくれ」
「…。これは捜査官ですよ。──では失礼します」
琥珀の背に手を添えて、有馬は歩き出す。
背後から、再び三人の声が聞こえてくる。人員がどうこうと、内容は次の話題へと移っていた。
琥珀の表情は固いままで、有馬に背を押されなければ恐らく歩けなかっただろう。
けれど歩かされる琥珀の中は、精神も神経も、消耗して乱れていた。
──倒れてしまいたい。まだ倒れられない。喰種を見る目。恐怖じゃない。自分を怖がる目は知っている。彼らは違う。いつでも刈り取れる命を見るような──
精神的な重圧感。
心を切り離し、呼吸をすることと足を動かすことだけを行う身体。
彼らの声も聞こえなくなり、エレベーターまで辿り着いた時、琥珀の頬は色を失っていた。
崩れるように力の抜けた琥珀の身体を、有馬が支えてエレベーターに乗り込む。
扉が閉まり、狭い室内に稼働音が響く中、悪かった、と有馬が呟いた。
「連れて来るべきじゃなかったな」
聞こえたような気もしたが、意識を手離しつつある琥珀には、答えることも聞き返すこともできなかった。


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