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水溜まりの虹

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グチャ、クチャ、ペチャッ──…
耳に絡みつく音は…どこからしている──?
ゆっくりと身を起こすと琥珀がいた。俺の腹に顔を近づけて何かを啜っている。
「あ、丈兄おはよ。呼んでも起きないから、食べちゃった」
音は止んでいる。
顔の下半分を真っ赤に汚して可愛らしく笑う琥珀。
琥珀が両手に掴んで頬張るのは俺の腹から続く長い何かで、琥珀の唾液と俺の血とが混ざって糸を引いて落ちた。
俺の腹に。
俺の、喰い破られた腹の穴に。
「丈兄、とっても美味しいよ?」
恍惚と笑う琥珀の、焦茶の左目と赤黒い右目が細まった──。


目を開けて映ったのは天井だった。
心臓の鼓動が速く、胸を圧迫する。呼吸も同様に乱れている。
喉の奥が乾いて痛み、無理矢理に唾液を飲み込んで、咳をしながら身体を起こした。
「………。」
Tシャツが肌に張り付く不快感。
小雨の降る音が耳を打つ。
カーテン越しの、明け方の薄い光が部屋全体を浮かび上がらせる。
呼吸が次第に収まってきた。
ドア横には前日に整えておくことにしている仕事の用意がある。
丈は横目で時計を確認しながらベッドから降りると、Tシャツを脱いだ。
シャワーを浴びていく時間はありそうだ。


局外へ出る支度をする者、PCを起動させてコーヒーを取りに席を立つ者。
朝から小降りの雨が続いていたが、捜査課のオフィスは出勤時間帯独特の、減り張りの効いた空気に包まれていた。
「あ。おはようございます。丈さん、今日はゆっくりなんですね」
いつも早目なのに珍しい、と眉を上げる宇井に、少しな、とだけ返す。
「丈さん、午前中は?」
「ここだ」
「あ、じゃあコーヒー淹れますか?」
「…頼む」
爽やかが纏まって形になったような宇井は、今週頭から班に配属された。合同調査で何度か面識はあったが。
活気のあるオフィスを縫うように歩いてゆく後ろ姿を見送る。
背筋をまっすぐ伸ばして歩くその姿が、何となく琥珀と重なった。
そこへまた一人。
「タケ、おはよう」
「…おはようございます、有馬さん」
「調子が悪そうだ。寝不足?」
丈は、少々、と上司の出現に言葉短く答える。
有馬もまた質問したわりにはそれ以上の言葉もなく、丈を通りすぎるとパーテーションで仕切られた奥へと姿を消す。
有馬には、有馬が現れるとそこだけ空気が変わる、一種の存在感がある。
若くして特等捜査官へと登り詰めた有馬に興味を持つ者は多いだろう。しかし当人が多くを語る人柄ではないために、謎も多い。
故に行き場のない、羨望や憧憬、或いは嫉妬や畏怖は、いつまでも宙に浮いたまま。
現に幾人かが、動きを止めて有馬に注視していた様子が、ちらほらと窺えた。
そんな人間がこんな近くに来るまでなぜ気が付かなかったのか…。
明け方の夢が色濃く影響していることを丈は強く自覚する。
そして有馬も。
丈は、自身が表情が薄いと称されることを知っているが、そんな自分の変化に有馬はよく気が付く。…心の機微というものに関して言えば、疎いとも思うが。
そんなことを考えていたらパーテーションから、「前にも言ったけど」と本人が顔だけ覗かせた。
「午後は琥珀も一緒だから。そのままだと心配されるよ」
「…。そうですね(有馬さん、体柔らかいな)」
まさか夢の内容まで知っているんじゃないだろうかという言葉の正確さに、丈は若干の薄ら寒さを覚えた。
理解したからといって治せる症状かは分からないが。しかし琥珀に気付かれるというのは一理ある。
幼馴染みという関係以上に、琥珀は丈を知っているし、丈もまた琥珀を知っている。誤魔化せる相手ではない。
だが心配はかけたくなかった。
「(…心配される、と…今言われたか?…有馬さんに?)」
心に何か引っ掛かるものもあったが、タイミング良く宇井がコーヒーを持って戻ってきた。
有馬さんも来ましたねと奥を見る。
そんな宇井はやはり爽やかで、今はその空気を分けてもらいたいと思いながら、丈は受け取ったコーヒーを口に含んだ。


「うちの班の者くらいには知っておいてもらおうと思って」と。
琥珀を伴って、有馬班が24区に降りたのは数週間前のことだった。
琥珀は身柄の拘束を解かれて暫く、篠原と真戸の元で監視が行われていた。
それと同時に喰種捜査というものを簡単にだが学び、その後、有馬に訓練を付けられて今に至る。
訓練がどのようなものであったかは聞かされていない。…しかし有馬に…喰種という取り合わせでは、おそらく生半可な訓練ではなかっただろう。
琥珀は任務で力を発揮し、その"姿"を以て喰種を駆逐した。
躊躇が、なかったわけではないだろう。
それまで只の女子高生だった琥珀が──、捜査官と喰種の戦いに横槍を入れる程度の戦いしかしてこなかった琥珀が、喰種を殺したのだから。
赫者であった琥珀を目にして。
丈は無意識に畏れを抱いた。
無意識に畏れた故に、あのような夢を見て、今朝の有馬からの指摘だった。
「(………厄介だ)」
望まなくても傷付ける。
丈本人の意思の届かない奥底で、脳なのか、感情なのか──が、喰種という存在に反応した。
琥珀は琥珀だというのに。
任務を完了した琥珀を前にして、丈はほんの僅かに強張った。
他人は気付かない程度、しかし琥珀にはわかってしまう程に。
職業柄とか条件反射で済ませられれば一番良いのだが。もし、この状態が続くようなら?
丈が気にしていなくても、琥珀は丈に気を使うだろう。そうなると丈も琥珀に触れられない。傷付ける。触れられないのは──
「(つらい)」
琥珀に伝えたというのに。
自分を慕う琥珀の方も、自分を兄としてではなく想っていたと応えてくれたというのに。
心の奥底で、琥珀を拒絶する部分があるというのか。
冗談はよせと自分を殴りたい。
「…平子一等、お待たせしました」
聞き慣れた声に丈が顔を上げると、琥珀が立っている。
「もう…そんな時間か…」
「うん。…顔色、悪くない?大丈夫…?」
「ああ……問題ない」
丈の言葉に微かに目元を緩ませる。
しかし丈が続けて何かを言う前に、琥珀は打ち切るように有馬の元へ戻った。
一抹の寂しさを感じる。
琥珀の言葉が少ないのは、あくまでもこれが仕事であるから。
琥珀が丈からすぐに離れたのは、以前丈が灯した畏れを感じ取ったからではないのか?
丈は、自分もまだまだだと溜め息をついた。


弱いながらも長引いた雨がやっとあがり、空を覆う明るい雲の合間からは、時折、陽が覗いた。
この日の午後は担当区の捜査だった。
淡々と過ぎてゆく時間、消化される調査対象。
潰した対象から得た新たな情報を元に移動、本部との連絡を取り合い、簡易的にだが情報のすり合わせも行う。
道中、琥珀ひとりが聴き込みで離れた際、有馬が丈に言った。
「努力してるよ」
丈は一瞬、先ほど聴き込みのために公園のママ友の輪に入るタイミングを見計らっていた琥珀のことかと思った。
「赫子の上辺しか使ってこなかったから、限界間際では特に、制御に梃子摺ってるみたいだけど」
訓練での、琥珀の話だ。
「弱音を吐かない」
丈の脳裏に思い出されるのは、24区の地下道でクインケを手に下げた琥珀の姿。
喰種と対峙し、赫子を纏った姿。
琥珀は喰種だった。
そして慣れない戦い方と、能力とに消耗して、泣きそうなくせに平気なふりをして意地を張る、紛れもなく幼馴染みの琥珀だった。
琥珀が、己に受ける痛みにも、他者に与える痛みにも歯を食い縛るのは、琥珀自身の為。
そしてその幾らかが──僅かでも構わない──自分の為であればと、丈は心の底で期待をする。
不意に子供たちの笑い声がした。
有馬に、タケ、と呼ばれる。
キラキラと水滴を残す花壇の向こう側。
母親たちに聴き込みを終えた琥珀が、今度はしゃがんで子供たちに笑いかける姿が見える。
「お前が躊躇するのなら、俺が貰ってしまうよ」
夜の街中で、薄暗い地下道で、血煙に包まれる姿より、今の方がずっと琥珀らしい。
明るい陽の中で笑う琥珀を幼い頃からずっと守ってきた。
「………あいつは、やれません」
一言残して、丈は琥珀の元へ足を踏み出す。
迎えに行くのも手を差し伸べるのも琥珀の微笑みを向けられるのも、何もかも。
誰にも渡す気はない。
コンクリートの水溜まりに虹が映えた。


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