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すてきなシエスタに逢いましょう

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ぱたぱたと軽い足音が2階から降りてくる。
テーブルに広げた朝刊に視線を落としていた丈は、文字を追う視線を止めて顔をあげた。
「丈に〜っ。…あ、あのね。どうかなぁ、制服の着かた──…」
居間へ入ってくるなり、琥珀が照れと不安が混じった顔で丈に訊ねた。
ヘンじゃない?とブレザーの裾の端をぴんと握る。
高校へ進級しての初登校。制服に袖を通すのは、試着を含めても初めてではないはずだが、室内で着ることと、それを着て新しい場所へ踏み出すということとでは気持ちも違う。
今日は入学式が行われる。仕事で来られない琥珀の祖父の代わりに、丈はその見送りを任されていた。
丈は椅子から立つと、糊の効いた制服に身を包む幼馴染みの晴れ姿を見おろした。
もじ…、と照れくさそうに瞳を伏せる琥珀に手を伸ばせば、ぴくりと身体を硬直させた。
「ネクタイが少し曲がっている」
「うぅ……頑張ったんだけどね、…どうしてもまだ上手に結べなくて…」
「…リボンにした方が楽だったんじゃないか?」
ネクタイかリボンか、好きな方を選べるのだと、以前、琥珀が学校案内のカタログを眺めて楽しそうに話していたのを思い出す。
丈の言葉に、しかし琥珀は弾かれたように答えた。
「り、リボンじゃダメっ…!」
どうしてダメなのかと視線で問うと、琥珀は少し顔を赤らめて、「…私は、ネクタイがいいの…」とぽそりと答えた。
唇も閉ざし、なぜか視線も合わせない様子に、これ以上訊いても教えてはくれないかと諦めた丈は、ネクタイを一度ほどいて結び直す。
長さを整えて見当をつけ、くるりと巻いて潜らせる。しかしこれは…
「……自分でやるより難しいな」
「ん…、人に結んであげるのってやっぱり大変?」
「いや…」
大変…というよりは…、と口ごもった丈に琥珀は首を傾げる。
結びやすいように上を向いて反らせた琥珀の白い顎の下で、丈の指が艶やかな布地を結わえようと苦戦する。
ネクタイの背景となるのは、第一ボタンまできっちりと留められた白いシャツだ。
琥珀が呼吸をするごとに胸元が微かな上下を繰り返す。
「ブレザーも脱いだ方がいい?」
「………、結べた」
「えへへ。ありがとう」
どうにか自分が鏡で毎日見ているような形に整えることができたネクタイに、丈はひそかに安堵した。
やっぱりリボンにした方が楽だぞ、と思ったものの、満足そうに喜んでいる琥珀を見て、口には出さなかった。
「これから毎日ちゃんとできるか」
「れ、練習するっ。…でも、もしヘンになっちゃったら……また丈兄に直してほしいな」
結び目を撫でる指先の上で桃色の唇が微笑む。
妹のような幼馴染みのお願いはいつもささやかで、どう転んでも肯定の返事しかない。
親バカならぬ兄バカという言葉も甘んじて刻み込む。
「あっ、もうこんな時間…!」
時計を見た琥珀が慌てて台所に向かう。
「朝食は済んでいるんだろう」
丈が問えば、開いた冷蔵庫の扉の向こうから、「うん〜」だの、「ええっと〜」だのと呻き声がした。
「実は、その…おじいちゃんをお見送りして、まだ時間あるなぁ〜って余裕にしてたらネクタイで手間取っちゃって──…」
アイスコーヒーのボトルを取り出す。
慌ただしくマグカップに注ぐと両手を添えてこくりこくりと一気に飲み干した。
「んんっ…、ふぅ、──朝ごはん、済んだから出られるよっ」
「…琥珀」
「へいきっ。それに緊張しちゃって…お腹に食べもの入らないもん」
新しい生活のはじまりに期待や不安もあるのだろう。
ただ見守りを任せられた社会人としては、目撃してしまった不摂生極まりない朝食を、彼女の祖父にどう報告すれば良いのかと困るところだ。
「丈兄が一緒にいてくれたなら、それで大丈夫だよっ」
丈のため息はそこそこにかわされて、華奢な腕のわりにぐいぐいと強い力で玄関へと押される。
仕方なく丈が靴を履く後ろで、琥珀がほのかに弾んだ声色で「練習しなきゃ…」と呟いた。
「……丈兄あのね、…いつか、」
「?」
「ふふっ。ううん、やっぱりなんでもない」


ぽかぽかとあたたかな日差しが注ぐ休日の午後。
丈は菓子折りが入った紙袋を提げて君塚家の門をくぐった。
持たされた菓子は丈の祖母からだ。
琥珀の家を訪ねる時にはいつも何かしら土産を持たされる。「琥珀ちゃんによろしくね」との言葉を添えて。
琥珀は食べられないため、実際に口にするのは彼女の家族だが。
丈は祖父母に琥珀が喰種であることを伝えていない。
琥珀も、余計な混乱をさせたくないからと、この問題が会話にのぼると瞳を伏せる。
いつか伝えられる日が来るのか、それとも伝える覚悟が固まることが先か。事情を知らない周囲の者からすれば良好な幼馴染みである二人は、日々の仕事に追われるを言い訳に、今はまだぬるま湯に浸かっている。
「…」
丈はインターフォンの前に立つ。
呼び鈴を押すかどうか少しばかり手を迷わせ、玄関の引戸を引いた。
鍵の掛かっていない戸はカラカラと音を立てて開いた。
無用心──と思いつつ靴を脱いで家にあがる。
「…お邪魔します──」
物音のしない居間を覗いてみて、挨拶をするべき相手がいないことを知ると、袋から出した菓子折りをテーブルに置く。
余所様の家とはいえ、幼少の頃から出入りしていたために遠慮という意識は希薄だ。
折り畳んだ紙袋をさてどうするかと考えていると、2階から微かに音が聞こえた。
階段をあがった丈は、開けっ放しの琥珀の部屋を覗いた。
「…勝手に上がらせてもらった」
「わっ…、あっ!いらっしゃい、丈兄っ。……玄関あいてた?」
締め忘れていたのだろう気まずさを、照れ笑いで誤魔化して。琥珀は部屋の真ん中にぺたりと座り込んでいた。
その周りを囲むのは、衣装ケースから引っ張り出された衣類やら本やらアルバムやら。
よく見れば押し入れも開いており、そちらから出てきたものもあるようだ。
「少し早いけど衣替えをしておこうと思って……」
「………」
しておこうと思って、プチ大掃除になりかけている部屋の有り様を丈は見おろす。
隅に積まれた衣服や書籍は捨てるものだろうか。
そして再びケースや押し入れに仕舞われるであろう品々の…山。
「……しばらく席を外したほうがいいか」
「あ、ううん、必要なものは出したし、あとは片付けるだけで…もうすぐ終わるから。……たぶん」
入り口のドアの下。
琥珀は丈の足元に置かれた大きなバッグに視線を向けた。
局の自室へと持っていくものだろう、衣類が詰まったバッグは小旅行の荷物程度に膨らんでいる。
丈の思いと重なったように琥珀が「旅行の準備みたいでしょ?」と笑う。
「……そうだな」
「──先のこと、考えなかったら。このまま遠いところに……旅に出られそう」
躊躇いがちに、実行されない逃亡計画を唇にのせる。
"喰種"として捕縛された琥珀は現在、CCGの管理下にある。所在を明らかにすることを条件に、勤務以外の時間を自由に過ごしている。
「…一人では行かせられないな」
「…丈兄も、ついてきてくれる?」
しかし一度でも規則から外れようものなら、その先に待つのは喰種としての"処分"だ。
「ああ」
床に積まれた卒業アルバムを手に取る。箱から引き出した背表紙には高校名と年度が刺繍されいる。
「──やっぱりだめ。…ぜーったい、だめ」
少し怒ったように、少し困ったように、眉をしかめた琥珀が唇を結ぶ。
「……私は…絶対に逃げたりしないし。…丈兄のそばに、ずっといるし…」
拗ねた顔をして、琥珀は丈の持つアルバムへ、貸して、と手を伸ばした。
「片付け、もう少しで終わるから。ベッドに座ってて」
「ああ…」
丈は床に広がる琥珀の大切な物たちを踏まないように足を運んでベッドの上へ。
胡座をかいて邪魔にならないように落ち着くと、琥珀からページを開いたアルバムを、はい、と手渡された。
「このアルバム、私は卒業してないから写ってるのは途中まで。でもクラスの子が飾りつけてくれたの」
集合写真の枠外に、学校の行事の写真に、思い出やメッセージがカラフルなペンで書き込まれている。
「私の分も作ってもらったんだって」
「そうか…。やめた理由はどう説明をしたんだ」
「確か病気とか、そんな感じ。…遠いところに行ったことになってるみたい」
喰種として捕らえられた琥珀の処遇は、局と取引きをした形で収められた。
琥珀の家族への"喰種幇助"の処罰も打ち消されたため、君塚琥珀が喰種であったことは伏せられ、表向きにはその件は、"一体の喰種の確保"とだけ新聞の隅に載った。
そして日を置いて、とある高校で一人の生徒が退学したという事実が残った。
その際の学校への説明に苦労したであろう祖父を想像してか、琥珀がひっそりと肩を落とす。
「…ごめんね。しんみりしちゃった」
「…お茶でも淹れてこよう」
「あ、飲みたい。私はアイスコーヒーがいいな」
「冷蔵庫のでいいのか」
「うん。丈兄も、お茶とか珈琲とかいつものところにあるから、好きなの淹れてね」
それまでにはお茶を飲むスペースを空けないと…!と気持ちを切り替えた琥珀が意気込む。
床に広がった処分を免れたものたちを見ていると、果たしてこの量が元の場所へ収まるのかという疑いも涌くが、他人が口を出せるものでもない。
一時、琥珀は、必要のないものを持つことは自分には無駄でしかなく、悲しいだけだと言って遠ざけていた。
しかし今は気持ちも落ち着いてきたようだ。
アルバムを閉じて琥珀に渡した丈は静かに息をついた。
ベッドから降りて立ちあがる。
そしてふと、押し入れの中の衣類が目に入った。
落ち着いた色のジャケットと揃いのプリーツスカートが一緒にハンガーに掛かっている。
上手く結べないといって琥珀が苦戦していたネクタイも。
「…高校の制服か」
呟くと、琥珀が、なぁに?と答えた。
「制服、まだとってあったんだな」
「うん。一着は捕まった時に着ててボロボロになっちゃったけど。これは予備の制服」
琥珀は押し入れからハンガーを取り出して制服を胸元に抱える。
「もう着ることもないけど。なんとなく捨てられなくて」
「そうか…?まだ着られると思うが」
「えっ?うーん…それは確かに、着られるとは思う、けど」
「けど?」
「これ、高校の制服だもん。着てもヘンだと思うの。だって私ももう、捜査官として働く大人だし」
「………。」
「えっ、なんでそんな顔するのっ」
何も浮かばず、丈は無言で部屋を出る。
心外といわんばかりに膨らんだ琥珀のほっぺたを、通りがけに指でつついて。
大人と子供の境目というのだろうか。
背伸びをする気持ちもわからなくはない。丈も10代から20代へ移り変わる時間を過ごして今の年齢に至ったのだから。
先輩の捜査官からは未だに青二才扱いが抜けず、かといって自分よりも下の世代は学生の延長に見えてしまう。
結局いつだって自分を基準にしかできない、と結論に至り、冷蔵庫からアイスコーヒーを出した。
とぽとぽと二つのグラスに注ぐ。
ガムシロップとミルクは…と迷いかけて、今日はこのままでいいかと、戸棚から出した丸盆にグラスを乗せた。
琥珀に関しても、ブラックの珈琲を好むということ以外に大人的な要素は見からないものだが。
しかし、いつか大人びた琥珀とやらを見る日が来るのかもしれないと、階段をあがりながら考えてみる。
それは例えば、捜査官としての凛々しさであったり、落ち着いた様子だろうか?または安浦特等のようにしっとりとした大人の雰囲気を………。
頭にいくつか琥珀を浮かべてみる。しかし。
つやつやと美しいケーキにほぅっと見惚れたり。
洗濯した羽布団を堪らずぎゅっと抱き締めたり。
散歩する柴犬をみてそわそわと撫でに行ったり。
…満ち足りた笑顔でこちらへ戻ってきたり。
「(…いつもと変わらないな)」
幼少の頃の記憶まで遡ってみても似たり寄ったりだ。この先、突然変異でもしない限りこのままな気がしてきた。
にこにこ。ふわふわ。いつもやわらかく笑っていて、ふっくらとした唇で丈を呼ぶ声も楽しげに弾む。
「──ほらほら丈兄、やっぱり違和感あるでしょ?」
そう、こんな感じで制服に身を包み、ひらひらとスカートを揺らしてみせる──…
「………」
「あ、丈兄もアイスコーヒーにしたの?おそろい〜」
琥珀は、茶運び人形のように立ち尽くす丈の手から盆を持ちあげると勉強机へと運ぶ。
白いシャツにネクタイを締めて。
細いウエストを包むスカートから白い脚が伸びており、華奢な裸足が絨毯を踏む。
「制服に着替えてたら片付けが間に合わなくなっちゃって。だから一緒にベッドに座ろ?」
ブレザーをベッドのすみに寄せ、先に座った琥珀がぽんぽんと布団を叩く。
招かれるままに気づけば丈は琥珀の隣に座っていた。
無言で額に手を当てる。
視界の端でちらちらと動くふくらはぎに意識を乱されながら。
少々(少々?)散らかった部屋だが、琥珀と自分が二人きりというシチュエーションはこれまでにも何度か(幼い頃を含めれば数えきれないほど)あったはずだ。動揺するような状況ではない。
けれど昔と今では事情が違う。
丈は大人で、琥珀もいちおう社会人だ。
丈は私服で、琥珀はなぜだか制服を着ている。
いっそのこと学校から帰ってきて部屋で寛ぐ女子高生だ。
「………何故こうなった…」
「制服見てたら懐かしくなっちゃって。今さらだけど、ちょっと照れるね」
これってコスプレかなとシャツの胸元を摘まむ指先。
今なら丈は、琥珀を抱き締めようともそれ以上のコトに及ぼうとも咎められる立場ではないし、琥珀の許可だってもうある(…と言ってもいい…のか?)。
なにか頭を冷やせるものが欲しい…そう思った丈がアイスコーヒーに手を伸ばす。
琥珀が小さく笑った。
「上手く結べてるでしょ?」
「…?」
「ネクタイ。…私ね、どうしても自分で結べるようになりたかったんだ」
丈が視線で問うと照れたように瞳を細める。
「丈兄のネクタイを、いつか結んであげられたらな、って 」
「ネクタイに拘っていたのはそれでか」
「うん。そう。…あと、ね。丈兄がお仕事から帰ってきて、それを外すのも…もし私だったら……」
俯く頬も髪から覗く耳もほんのりと赤く染まる。
「な、なんて──…、恥ずかし…、丈兄、今の、やっぱり聞かなかったことにして──」
誤魔化すようにネクタイを握る手を丈はそっと掴む。
「…ん……っ」
「──…、」
呼吸が重なり、鼻先が触れる。
一瞬だけ軽く押し潰した琥珀の唇から、名残惜しくゆっくりと離れた。
もっと続けたかったという欲と、それ以上踏み込まなかった自制心への称賛が、丈の乏しい表情の裏で押し合う。
琥珀の表情が驚きから恥じらいに変わる。
その中に怯えや恐れはないようで丈はほっとした。
「………すまん…」
今度こそ真っ赤になった琥珀が顔を伏せる。しかし俯いた頭をふるふると揺らして答えた。
「だ……だめ、じゃない、の……」
躊躇う指先が丈の服の裾を小さく掴み、途切れがちな言葉がぽそぽそとシーツに落ちる。
「わ、私も…丈兄に……してもらうの、うれしいから…。謝らないで…。ね…?」
「……突然でも?」
「とつぜん…だと、ちょっと照れちゃうけど。…してほしい、し」
「…もう一度したい」
「ん、……」
おずおずと了承の意を示した琥珀を上を向くよう促して、口づけながら服の裾を握る細い指に指を絡める。
やわらかな唇へ、重ねるごとに零れる吐息が微熱を孕む。
羞恥に戸惑って逃れようとする琥珀の頬に手を添え、少しずつ、少しずつ深く踏み入れる。
呼吸に混じる甘い声が丈の脳を痺れさせ、もっと欲しいと本能を疼かせる。
「……ぁ……ん、…っ」
「…っ……」
ちゅ、と水音が鼓膜を揺らした時、照れの限界に達した琥珀の指が丈の胸をもじ…と滑らせた。
物足りない気持ちを押し込んで身体を離すと、視線を合わせることに耐えられなかった琥珀が丈の胸に頭を押しつけた。
「………丈兄、ずるい……ぜんぜん照れないなんて…」
「…照れていなくもないが…。したい気持ちの方が大きい」
胸に抱いた頭は湯たんぽのようにあたたかく、丈は拗ねる髪に顎を乗せた。整髪料の穏やかな香りの下から、「私だって」と琥珀が反論する。
「わ、私だってっ…キス、とか…こういうこと、したかったし…。学校に行ってた時だって、丈兄に…好きって伝えられたら、って……ずっと思ってたもん……」
色んなこと、たくさん考えて、結局なにも言えなかったけど。
シャツに包まれた肩を縮こまらせる琥珀の告白は、数年前の葛藤を今のことのように丈に伝える。
「こういう風に…丈兄が部屋に来てくれた時も、本当はすごくドキドキしたりしてて…」
「…それには気がつかなかったな」
「私にだって、隠し事はできるんですー」
「…」
丈から身体を離した琥珀は誇らしげに顎をそらした。
琥珀は昔から嘘や隠し事が苦手だった。表情が豊かで、素直な性格ということも重なって、考えていることがすぐに顔に出てしまうからだ。
頭が意識をすればするほど不自然になってしまうその挙動は、見ている側が、もう止めていいぞ、と音をあげるほどの大根役者といえる。
だというのになぜ自分は想われていることに気がつかなかったのか…。
黙り込んでしまった丈を見て、それはね、と琥珀が言う。
「丈兄が思ってるよりも…ずーっと小さな頃から、私は丈兄のことが好きだったからだよ」
不意に、ふにっ、と丈の唇に自分のそれを押しつけて、悪戯を成功させた子供のように晴れやかに笑った。
赤く染まった顔のまま。
「………」
「丈兄?…きゃ、…わわっ──」
頭に言葉が浮かぶより先に、身体が丈の気持ちを代弁した。
琥珀を抱いて、ぼふっ、とベッドに押し倒す。
琥珀の部屋のこのベッドで一緒に眠ったこともある。二人が幼かった頃のことだ。しかしそれとは全く違う気持ちで、丈は今、琥珀を見おろす。
「あ…、ねぇ、……丈兄?」
きょとんと目を丸くしている琥珀は驚いた顔のまま。丈が何をしたいのかには思い至ってないようだ。
「……このまま」
「…う、うん?」
「…抱きたいといったら、だめか…?」
「へっ……!?……っあ、…えっと………、その………、」
逃げ場のないベッドの上で琥珀の睫毛がふるりと震えた。
緊張で浅くなった呼吸に合わせ、胸の膨らみが上下する。
頼りない気持ちの拠りどろこを探すように指先でネクタイを弄ると、それから消え入りそうな声で「いいよ」と答えた。
幼馴染みとして長い時間を一緒に過ごしてきて、恋愛の感情を抱いていたのは何も琥珀だけではない。
丈も同じように好きだった。
琥珀の体温を感じるような出来事があれば気持ちが揺れたし、夢に琥珀の姿を見たことだってある。
戸惑う瞳はほんのりと色香を宿し、薄化粧ながらも艶やかに濡れる唇がきゅっと結ばれる。
傍にいて、手の届かなかった琥珀。
今の立場になる前の、二人で過ごした穏やかな時間を追体験しているような陶酔感に、丈は見舞われる。
琥珀の手に手を重ねてネクタイを緩める。
心臓がとくりと跳ねた。
制服に手をかける。
高校生、のような琥珀の………。
「………。」
「?…どうかした…?」
「……なんというか──…やってはいけない感があるな…」
「ふ、えっ…???」
生々しい…というか、なんというか。
これまで丈のいけない気持ちを抑えていた"社会人としての規範"がまずチラついた。
続いて"年下の幼馴染みを唆す悪い兄"みたいな気分が押し寄せる。それはいわゆる罪悪感という名の見えない壁だ。
「…あ……えと、もしかして……私が制服着てる、から?」
身体を重ねたことだってある今更、何を言っているんだろうと琥珀は思っているだろう。丈自身もものすごく思っている。
しかしタブーというものは、当人が思う以上に案外強く心を縛り付けるもので、今の丈の心情はこの先へ進むか退くか、振り子の如く、ぐらんぐらんと揺れていた。
「そういうもの…なのかな…?でも、丈兄がしにくいのなら…その……わたし、制服脱ぐ…?」
「それは………」
どっちの意味でだ。
一旦制服をやめて私服に戻して再スタート…であればとんだ二度手間だ。雰囲気もへったくれもあったものではない。
琥珀が自ら制服を脱ぐのであれば、それこそ丈にとってはサービス…いや、本末転倒というものだ。
「………」
「丈兄って…、ふふふ。やっぱりお兄ちゃんだったんだね」
全くの称賛でない言葉が突き刺さる。
思考も挙動も停止した丈とはうって変わって、さほど悩んでいない様子の琥珀が両腕を丈の背に回した。
押し潰してしまわないように丈が身体を浮かせると、琥珀はお構い無しに両腕にそっと力を込めた。
「私ね、今日はハグの日がいいな。丈兄にも、してほしい」
僅かにある隙間で顔を向けた琥珀が、だめ?と訊く。
昔から琥珀の世話を焼いてきた。
兄バカという言葉も甘んじて受け入れる丈に断れるわけがない。
賛成だ、と答えた丈が琥珀を抱き締めると小さく歓声があがり、二人で並んでベッドに転がる。
「丈兄、あったかーい」
「琥珀もだ」
片付けの途中で放置された部屋は依然ぐちゃぐちゃだ。
足の踏み場もまだない。
けれど、少しのあいだハグをして、もしからしたら更に少しの昼寝も挟んで、片付けはそれからでも良いかもしれない。
もぞもぞと幸せそうな琥珀にくっつかれながら、丈は腕の中のぬくもりを閉じ込めた。


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