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(4)end.

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翌朝丈が目を覚ますと、琥珀の姿はどこにもなかった。
琥珀が毛布を敷いていた部屋にも、丈が寝泊まりしていた事務室にも、その他の階にも屋上にも。
丈は見て回ったが何一つ変わりはなく、ただ琥珀の姿だけが消えていた。
子供用のテーブルの横に、クインケのケースと一枚の書き置きを残して。
“もうここへはもどらないわ。あなたも自由よ”
自由という言葉の広がりとは裏腹に、住人を失った建物はしんと淋しく、窓から注ぐ眩しい陽射しに埃が音もなくちらちらと漂う。
朝食のパンと水を胃に納め、丈は建物を出た。
立ち去り際に、窓辺か──あるいは屋上にでも姿はないかと仰いでみたが、古びた建物が佇むばかり。
自宅に戻り、シャワーを浴び、スーツを着て出局をすれば、それはもう人質になる前と変わらない丈の日常だった。
デスクに顔を出すと倉元は大層に喜び、詳しい説明をと丈を空いている会議室へ引っ張っていく。
「俺、タケさんがあの喰種に喰われちゃってないか、心配で心配で…」
丈はどちらかというと食った方なのだが、言うわけにもいかず黙しておいた。
「タケさんを置いて戻ってから、あの辺りの喰種の情報も調べたんですけど目立った過去の事件もなくて。喰い場は別の場所だったのかも──…」
「…あの女は消えた」
「え?」
喰種が住み処を移すことは珍しくない。
凶悪な喰種でなければ、一度逃げて身を潜めてしまえば追うことも難しい。
最低限の報告を済ませて終わらせる。
それが琥珀のためになるだろうと丈は思う。
丈の記憶から琥珀を消すことはできなくても。

日々が一変したのはそれから一年が経った頃。
とある理由から丈はCCGを離脱し、そしてまた戻ってきていた。
雨上がりのもやに煙る街並みには巨大な赫子が見え隠れし、高台に立った倉元が細い目のうえに手でひさしを作る。
「この辺りが赫子の境目なのかね。"落し子"も全然見かけないし、さっきなんてヤマトが普通に配達してたし」
「…。コンビニも営業してたよ」
有馬夕乍の無感動な声に、倉元は平和かよと気の抜けた笑いを零す。
最近知り合った現・丈の部下は、倉元とひとまわりも年が違う少年で、しかも街が大事になろうともわりとポーカーフェイスだった。
糸目でも感情表現の豊かな倉元とはタイプも違い、どちらかというと丈やその上司であった有馬貴将に近いクールさだ。
「ん?そういえば夕乍、タケさんは?」
「……。気になる場所があるからって」
街を眺める間に姿を消した丈の行方を倉元が訊ねると、夕乍は眼下に見える古びたビルを指差した。
それはどこの街でも見かけような古びたビルだ。
持ち主が蒸発し、買い手がつかず、存在も忘れられ、静かに朽ちてゆくのを待つように。
ひび割れたガラス扉も一年前と変わらない──。

ひとり、廃ビルの前に立った丈はエントランスの扉を開けた。
階段を上り、記憶の一つひとつを確かめるように目に納めてドアの前に立つ。
他の階に比べて小綺麗なのも、この薄暗い廊下ではよくよく見なければわからないだろう。
できるだけ音を立てないように開く。
雨上がりの仄かに明るい陽射しが落ち、室内を静かに満たしている。
パステルカラーの組み合わせ式のマットが敷かれた部屋の真ん中──…、毛布にくるまって寝息をたてる女の横に丈は膝をつく。
「──琥珀…、」
丈の呼びかけに琥珀は眉を寄せ、身体を縮めて、んん…と呻いた。
ゆっくりと。
目蓋を開いて丈の姿をその大きな瞳に映し、そして、
「うそ、こわ…っ」
信じられないモノを見てしまったという顔をしたので丈は密かに傷ついた。
「なんでアナタがここに…っていうかどうして戻ってきたのっ…、あっ!あと不法侵入っ」
「…こちらの台詞だ。……戻ってきていたのか」
「当たり前よ。他に行くところなんてないもの」
身体を起こした琥珀は小さくあくびを噛む。
丈を解放したあとに宿無しの生活を送っていたことや、CCGの喰種狩りが激しくなって地下へ避難したこと、そしてその地下も突然現れた巨大赫子の暴走でほとんどが崩れてしまったと──。
「宿代わりの人間を探すにしても、赫子のおかげで都心部は立ち入り制限がされてるし……結局、ここが一番都合がいいのよ」
寝癖を整えるように梳いた髪の隙間から首筋の痕が覗く。
一見した限りでは怪我をしている様子もなく、丈は静かに胸を撫で下ろした。
書き置きを別れの挨拶に、ぽっかりと空いた一年が、目の前にいる琥珀の存在で満たされる…。まるで昨日の出来事のように琥珀と過ごした数日が丈の中に甦った。
一年前、喰種を追う立場にいた丈は、今、有馬の意思を継いで喰種に手を貸すことを選んだ。
「…オッガイからも、逃げられたんだな……」
「そうね。危険を察知するのは得意だから。…ところでアナタこそ一体どういうつもり。のこのこと一人で私の前に現れて。せっかく自由にしてあげたっていうのに」
琥珀は丈のネクタイを掴んで引き寄せた。
吐息が触れる距離で「また私に捕まりに来たの?」と赫眼を細める。
「今は人間も喰種化するって噂じゃない。アナタが不味くなる前に、ちゃんと繋いでおくべきかしら」
歌うようにからかう琥珀の手首を丈は掴んで、抱き寄せた。
琥珀は聡い喰種だ。自身の力量も、もし捜査官を殺せばどうなるかも知っていた。
最初から丈を喰べる気などなかった。
「ちょっと、なにするの──」
「……お前が無事で良かった…」
「……。いつ死んだっていいって思ってるけど、別に私、死にたいわけじゃないわ」
「………。」
「何よ。変な顔」
「…もし」
「?」
「…もしも喰種が人間と同じように、同じ場所で生きられるようになったなら、今の言葉は変わるか」
「……喰種は人間を喰べる怪物よ。そんなおとぎ話みたいなこと、あるの?」
押し退けられるかとも思ったが、琥珀は丈の腕の中で静かに答える。
今までずっと逃げて隠れて生きてきた。
これからも同じように生きていくだけと。
「街を占領してる赫子。ちょっと大きすぎるけど、あれから街を守るのはアナタたちの仕事でしょう?」
「こちらとしても手に余る大きさだ」
「まあ…同じ喰種でも仲良しにはなれないでしょうね」
「ああ。だからあの赫子に対抗するため、CCGと喰種は手を結ぶことになった」
琥珀の瞳が瞬く。丈の言葉が理解を通り越してしまったというように。
幾度かの呼吸によって時を取り戻した唇が戸惑う。
「…喰種と人間が…?」
「守りたいものがあるのは人間も喰種も同じだ。…互いを知ることができれば両者の関係も変わる」
「そんなこと…本当に…」
「…お前も自由になれる」
「…自由……?」
丈は上着の内ポケットから紙切れを取り出した。琥珀が残した書き置きだ。紙はくたびれ、鉛筆で書かれた文字も擦れていた。
「…なんでそんなの持ち歩いてるのよ」
「自由という漢字は書けたんだな」
「ばかにしないでよ。…未練たらしく、こんなメモとっておく男のくせに」
「名前の他には何も知らない」
「ただの喰種で十分でしょ。…捜査官に仕返しする勇気もない、弱い喰種よ」
「俺にとってはただの女だ」
むすっと拗ねた顔をする琥珀の頬を、丈の手のひらが包み視線を合わせる。琥珀、と。
「もうお前を一人にはしない。痛い思いも、怖い思いも」
「……なによそれ。告白のつもり?」
「おかしいか」
多くの人間が喰種に怯え、喰種たちも捜査官を恐れた。
それは互いの憎しみで作りあげた怪物だ。
互いが赦しあえれば怪物もきっといなくなる。そうすれば琥珀も──、
「…気が早すぎよ。あのとんでもない赫子を何とかできたらの話でしょ。…でも」
琥珀の瞳が窓の外へ向けられる。
街並みの遠くに歪んだビル群の影が霞む。
「…そんな夢みたいなことが起こるのなら、私だって信じてみたい…、かもね」
家族を失い、一人で生きていく力も、生きられる場所も見つけたけれど、どうしようもない寂しさだけは埋められなかった。
昔、誰かがいたはずのあたたかな日溜まりで、ひっそりと吐くため息は誰にも届かない。
叶うなら…と琥珀の唇から零れる。
「アナタがそれを叶えてくれるなら──。私、丈の告白に応えてあげてもいいわ」
「………」
「…。何か言いなさいよ」
つんとした物言いで睨むと、丈は親指で琥珀の唇をなぞった。
もう一度、と呟く。
「呼んでくれ」
「…欲しいのなら叶えてちょうだい。私、待たされるのは嫌いなの」
鼻先でふふんと笑った琥珀の唇が丈に触れた。
唇を掠めるような軽いキスではもの足りず、丈はさらに深く求めると、琥珀は睫毛を伏せて応えた。
水音に混じってサイレンの音が遠くから響き、スーツの胸元で携帯が低く震える。
「…丈、早く帰ってきて」
じゃないと違う男のところに行っちゃうからね。
拗ねたように零す琥珀を抱き寄せて、丈はその首元へ、約束の証のように口づけをした。


──よく挨拶をかわす隣人が実は喰種だった。
人間と喰種が協力して巨大赫子の一部を消滅させた今、そんな話もちらほらと聞こえてくる。
同僚が喰種だった、または通っている美容室の店員が、行きつけの喫茶店のマスターが。
この先、そんな違いも"当たり前"として日常に溶け込む日がくるだろう。
「ねえ、今日は何を買うの?」
「向こうで食べる昼食と、あとは…」
「あとは?」
「缶コーヒーを二つ」
コンビニに立ち寄った、とある男女が人間と喰種だった。
そんな話も。


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