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(5)

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穏やかな昼日中、喫茶店のドアベルが微かに聴こえた。
客を迎え、あるいは送り出す喫茶店の上階にある休憩室には、しかし穏やかとは言い難い空気が停滞していた。
「──その顔を解いたらどうだ…」
「平子さんがクインケをさげてくれたら考えるよ」
両者共に視線を外さず睨み合う。
といってもウタは余裕の微笑を浮かべたままだ。
丈と同じ顔でありながら、当人が作らないであろう種類の表情は、丈本人が見ても違和感を覚える。
「………」
「嫌ならちゃんと反応を見せてほしいな。──ああ。前にもこんなこと、言ったよね?」
いつだったっけ?と記憶を探る声色はからかいを含む。
丈とウタは過去にも幾度となく顔を合わせている。
マスクで顔を隠していながらも、"ノーフェイス"の存在は別格であり、名前の由来でもある極めて精巧な"貌"の模倣は捜査官の間でも恐れられていた。
丈自身も"オークション掃討作戦"の最中に有馬の顔を模倣した"ノーフェイス"と対峙している。
「………気味が悪い」
「…これ、平子さんの顔なんだけど」
出来には自信があったらしいウタがふっと笑う。
肌の色味や顔の輪郭が朧に揺らぎ、赫子の膜が融けるようにウタ本人の顔が浮かび上がる。
瞳も赤黒く色を変え、ラフに纏めた黒髪が襟に落ちた。
ピアスやブレスレット、重たげな銀装飾をじゃらりと鳴らして似合わなくなった上着を脱ぐ。
「これも返すね。匂いでばれちゃうかもしれないから隣の部屋から借りたんだ」
クインケを構えつつ受け取った丈は、そのままソファーへ放る。現れた喰種の特徴は士皇の説明と照らし合わせて間違いないだろう。
ウタは刺青の這う指でシャツの襟を開いてネクタイを取る。
「それで、まだクインケは仕舞ってもらえないのかな」
「琥珀から離れろ」
「ぼくにその気があったら、もっと早く彼女をどうにかしてるよ。こんな手順は踏まないで、屋上でね」
「………。」
そうしたければ自分はいつでも行えた──。
声色に悪意や敵意はないものの、ウタは丈の油断を指摘する。
琥珀もそれだけウタという男を信じていたのだ。
他の誰にも、丈にすらその存在を明かすことなく関係を保っていた。
数ヵ月前までCCGに身を置いていたのだから、喰種の知り合いがいるなどと言い出せなかったのだろう。
そして今、知り合いの存在を明かすにしては今更という長すぎる年数を経ていた。
平子さん、とウタが口を開く。
「琥珀ちゃんを責めないでね。ぼくは本当にただの通りすがりだから。二人で会っても、彼女が仕事の話をすることも、ぼくが"ピエロ"の話をすることも一度だって無かったし」
「…まだ何も訊いていない」
「そう?ぼくに嫉妬してもらっても彼女が困るだろうから先に説明したんだけど」
迷惑だった?
薄く笑いを浮かべる赫眼は物静かな知性を感じさせつつもどこか冷たく、丈を観察しているようだ。
"キライ?有馬さんのこと──"
丈の脳裏に蘇る声色と、目の前にある表情とが混ざり重なる。
どんな人物にも建前と本音があり、ありのままに本心を曝け出して生きてはいけない。
丈にも仕事には不要だとして思考の奥深くへ仕舞ったものが多くある。
考えても無意味な心配、不安。苛立ち、焦燥。
感情に流されては冷静な判断は下せない。
しかし目の前にいる男は丈のそれに小波を立てて"ふるい"のように揺らし、暴き出そうとする。
「──…」
丈はクインケを下ろした。
自身のネクタイに指をかける。
勤め人を辞めた今でも習慣のように毎日締めている結び目だ。
無造作に弛めてシャツの釦も一つ二つと外すと、低く沸き立っていた感情が解放されるような気がした。
ついでにアルコールでも摂れればもう少し落ち着けるだろうが。
代わりに長く深く息を吐き出す。
「オフって感じだね。その方が話しやすいよ、たぶん」
少なくともこの場ではもう戦いの方向へと話が拗れることはないだろう。
「…お前への嫉妬はあるがどうでもいい」
「ないとは言わないんだ」
面白そうに眺めるウタを一瞥した丈は、琥珀、と呼ぶ。
ウタの隣でややうつ向く琥珀は先程から沈黙を貫いたままだ。
ウタのしでかした企みにショックを受けているのは明らかで、この様子では二人の会話も聞こえていないのかもしれない。
「琥珀ちゃん動かないね。平気?」
丈は誰のせいだと思いながら、琥珀を覗き込もうとするウタを退ける。
頬に手を当てて視線を合わせると、離れた床を茫然と映していた琥珀の瞳がゆっくりと丈を認識する。
「…ぁ、……丈、さん…?」
「ああ、本物だ…」
「強調すると嘘っぽくなるよね」
「…余計なことを言うな」
ウタの言葉で琥珀の肩がぴくりと揺れる。
案の定、再び混乱が蘇ったのか不安げな眼差しが丈を見返し、身体も逃れようと藻掻く。
「あぁ、うそ……わからない、私……ごめんなさい、丈さん…私、わたし──…」
「………………」
「彼は本物だよ琥珀ちゃん。平子さんも、白状するからそんな人殺しみたいな目でぼくを睨まないで」
琥珀は怯えて後退り、背中をウタが支える。
ウタの動作に微妙な苛立ちを覚えた丈が琥珀を掴まえれば、琥珀は縮こまってまた藻掻く。
この悪循環をどう納めればいいのか。
丈がため息を飲み込んだ時、部屋のドアがガチャッと開いた。
「………」
店の仕事が一段落したのだろう。
黒いエプロンを着けた四方がドアノブに手を掛けたまま動きを止める。
休憩室に琥珀がいるのはいつものことだ。
掃除でもしていたのだろう。
しかし何故だか琥珀は怯えた表情をしていて。
その背中をネクタイを持ったウタが押さえていて。
普段はきっちりとスーツを着ている丈がアフターのような出で立ちで琥珀に迫っている。
まだ昼間なんだが。
…昼間で合ってるよな?
………。
「………無理強いはよくない………と思うぞ………」
たっぷりと誤解した四方の来訪によって、部屋の空気が弛んだ。


三つの珈琲を載せたローテーブルを挟んで、ソファーには丈と琥珀、反対側にウタが座る。
珈琲は誤解をした詫びだと四方が淹れた。
淹れてすぐ、ここにいてはウタへの小言で邪魔をしてしまうだろうからと退室した。
「さっきの蓮示くん、面白かったなぁ。イトリさんにも見せてあげたかった」
ウタはカップを両手に持って香りを楽しむ。
「…それも"ピエロ"の仲間か」
「うん。彼女とぼくと蓮示くんの三人は昔っからの付き合いなんだ」
"ピエロ"という響きに琥珀も緩慢に瞳を向ける。
「ごめんね琥珀ちゃん。ああいうの、もうしないから」
「……怒って…ないです、別に…。私が勝手に…恥ずかしがってるだけですから…」
ぐるぐる廻る自己嫌悪や丈への申し訳なさで複雑にぐらつく感情を抑える。
「…"ピエロ"…"ノーフェイス"……ウタさんは…私のこと知ってたんですね」
記憶まで含めれば琥珀の落ち込みは更に深い。
「ぼくは有馬さんに用があったから。二人のことも知ってたんだ。…ぼくの正体まで平子さんにばれちゃったのは予想外だったけど」
ウタは珈琲カップを口元に運ぶ。
「蓮示くんから聞いたのかな」
ぽそり呟くと嘆息混じりに丈が答えた。
「四方からは…ウタという知り合いがいると聞いたのみだ…」
「へぇ…」
「部屋に戻ったら自分の顔をした何者かが琥珀を口説いていた。そんな悪趣味な者は一人しか知らない」
刺のある言葉を吐き出しながらも平淡な様子の丈にウタは小さく笑った。
元々は四方の仇討ちを手伝うつもりで有馬を追いかけていた。…正確には、四方の姉の赫包を素材にした、彼のクインケを蓮示に渡してやるために。
しかしその過程で見つけた丈や琥珀という存在は、ウタの興味を大いにそそった。
「蓮示くんも平子さんもポーカーフェイスっていうか仏頂面してるから。中身は結構熱いのにね。だから…うん、ついからかいたくなっちゃって」
「…それに私を巻き込んだんですか…」
「そこはまた違う理由で、かな。平子さんならわかると思うけど」
「………」
ウタが挑発しようとも丈の表情はやはり変わらない。
偽者を見破れなかった琥珀への落胆はないのだろうか。
それとも表に出さないだけだろうか。
ウタはゆっくりとした言葉で平子さん、と続ける。
「ぼくは彼女を連れていくつもりだったよ」
どこまで口にすれば丈が感情を見せるだろうかという興味がある。そして、
「この戦いで"黒山羊"の勝ち目はどれくらいだろうね」
「……。勝ち目がなければ戦いは無駄だと?」
丈の答えは、先ほどウタが耳にした琥珀の言葉に似ていて口元が緩む。
「…戦いから離すために琥珀を連れ出そうとしたのか」
「やっとCCGから解放されたのに。琥珀ちゃんがまだ戦ってるのはどうしてかな」
琥珀は人を容易く受け入れ信じてしまう。
嘘にも策略にも向かないそれを、優しさと呼ぶか迂闊と見るかは相手の性質に委ねられる。
「彼女が戦いに向かないのは、平子さんが一番知ってるはずなのにね」
「………」
"黒山羊"が敵対する者たちは、弱い部分を敏感に嗅ぎ付けて炙り出す。
勝ちを獲るために人間も盾に使った。
次に旧多が用意するオモチャを琥珀が殺せるとは思えない。
「和修の王さまは君たちを押し潰す。"黒山羊"が消えて、喰種と人間の関係はこれからも何も変わらない」
そう、何も変わらない。
期待も落胆も何も感じられなくなるほど見続けた。
人間は喰種を忌み嫌い、喰種は互いに奪い合う。
旧多が操るCCGも"黒山羊"が煽動する喰種たちも喰らい合って終わるだろう。今までに幾度となく繰り返されてきた悲喜劇に過ぎない。
その狂瀾を"ピエロ"は踊り愉しむのだ。
噴き出す鮮血を。
喉を裂く悲鳴を。
魂の割れる慟哭を。
人が壊れゆく様を。
行き過ぎた刺激でなければ届かない、己の命の手触りを確かめるために。
顔の半分で泣き半分で笑う道化たちの、これは虚ろで華々しい宴だ。
「そんな戦いで琥珀ちゃんが損なわれてほしくないな」
「もののように言い表す…」
「実際、貴重な存在だと思うよ」
微かな反感を滲ませる丈にウタは言葉を重ねる。
目まぐるしく変わり続ける世界で、いつだって琥珀は一つの想いを抱いている。
脆いくせに、真っ直ぐに前を向く横顔が綺麗だった。
ただ一人の人間に焦がれて褪めない、ひた向きな瞳が。
「……その"変わらない"世界に、丈さんはいますか──」
気がつくと、問いかける焦げ茶の双眸がウタを見据えていた。
さっきまであれほど羞恥に狼狽えていた琥珀が、静かな声で空気を揺らす。
「それは平子さんの頑張り次第かな」
テーブルを挟んだ距離を置き、ウタも琥珀に向かう。
「…丈さんの姿で私を連れ出したあと、どうするつもりだったんですか」
「彼の顔で君に別れを告げて、ぼくはぼくに戻るつもりだった」
丈が生きていれば琥珀を探しに来るだろう。
丈が命を落としたならウタの嘘は真実になる。
…けれど、嘘だとばれても構わなかった。
「昔さ、琥珀ちゃんがぼくに言ったこと。覚えてる?」
「昔…?」
「大切な人が殺されたら、殺したひとを見つけ出して必ず殺すって、宣言」
「………そんな過激なこと…言いましたか、わたし…」
「うん」
「………」
気持ちが振り切ったときの琥珀の激しさを知る丈も呆れた顔になり、すっかり忘れていた琥珀は頭を抱える。
「君には生きててほしくて」
屋上で出会って、言葉を交わすたびにウタは不思議な満足感に満たされた。
命を奪うことも、奪われることも当たり前の日々に、会うたび琥珀は顔をほころばせた。
喰種の仲間内ではもっぱら、顔を見れば生きている証、見かけなければ"そういうこと"と。考える必要もなく納得してしまう。
居ることも、居ないことすら呆気なく流れてゆく中で、それが丈に向けられるあたたかさの端っこの余熱だったとしても。ウタは琥珀と過ごす時間が気に入っていた。
しかし迂闊に手を出せば、丈と一緒にいることを望む琥珀はたちまちに身を翻すだろう。
夢をみるような琥珀の瞳も、物憂げに遠くを眺める横顔も、くすくすと零れる笑い声も。
琥珀とは関係のない戦いで消えてしまう。
「ぼくを憎んでもいいから。……ああ、うん。むしろ憎まれても良いのかなぁって」
「憎…んでも……いいんですか、私は」
「そうしたらまた違う琥珀ちゃん、見られそうだし」
ひた向きに丈を求める琥珀がその存在を失ったら。
その時…憎むべき相手に向かう強い感情を独り占めしたいと、暗い想いがそろりと這う。
「…人が死ぬ前提で話をするな」
「ごめんね、平子さん」
心の籠らない謝辞をウタは述べる。
琥珀への執着はきっと、大切なものを正しく感じられない自身のせいだ。
期待することも希望を持つことも。
何かを強く信じることも諦めてしまった。
凡庸に垂れ流れる世界で、弱くとも確かな光を放ち続ける琥珀を見ていたい。
「……私は…」
ぽつりと琥珀が呟く。
「ちゃんと憎めるか……今はあまり、自信がありません。ウタさんが"ピエロ"だとしても……」
迷いを含んだ声色は、まだウタを信じる証拠だろうか。
つい数日前に談笑した相手は自分を欺いていて、知らない間に刃すらも交えていた敵だったのに。
「琥珀ちゃんは、この前の戦いを思い出してもそう言える?」
「…それでも──…」
「ぼくら"ピエロ"が人間を使い捨てにするような酷い喰種でも?」
「……っ、」
「"ノーフェイス"……こちらからも訊かせてもらう」
じわりと押し潰そうとするウタの言葉に息を詰まらせる琥珀を庇って、今度は丈が割って入る。
「先日の戦いで使われた"手段"…あれは"ピエロ"の発案ではないな」
「…。どういう意味かな」
「個々の愉しみを優先させる"ピエロ"が使う手にしては計画性が過ぎるという意味だ」
先の"黒山羊"の会議で下された見解だと続けた。
「誰の計画だと思う?」
「…"V"か旧多のどちらかだろう」
丈の指摘をウタは静かに肯定する。
「考えたのはね。でも乗ったのはぼくらだよ。…わざわざ誤解を解いてくれたのは嬉しいけど、これって平子さんに得はあるのかな」
"ピエロ"のウタと面識を持つ者が"黒山羊"にいることが両者の歩み寄りの材料となるならば…とでも丈は考えたのかもしれない。
しかし"ピエロ"の目的は騒ぎを愉しむことだ。
捜査官だった丈ならば厭と云うほどにわかっているはずだ。
「無い。ただ琥珀の気持ちは多少マシになる」
感情の起伏の見えない物言いにとどめて、丈はウタに告げる。
「用件が済んだのなら帰れ。…お前がここで、これ以上事を起こすならクインケを取る」
事務的な声色は、場の空気を何も無かった状態へ戻すようでも、琥珀の気持ちを落ち着かせるようでもある。
ウタが事を起こした動機も、琥珀との関係も判明した今、これ以上の話は必要ないとして、琥珀の友人でいるか、それとも"ピエロのウタ"となるか、丈はウタに選ばせる。
しかし選択の余地を与えるのはウタへの思慮ではない。喰種の友人に心を砕く琥珀のためだ。
平静を張り付けた皮膚の下には返事次第で刃を振り下ろす熱量を潜ませている。
怖いねとウタは嗤う。
「二人はぼくを殺して、ぼくは平子さんを殺すのか。…でも……案外それも、興味があるな」
赫眼をゆったりと細める。
しかし真っ先に反応した琥珀が丈を守るように身を乗り出す。
「──本当に平子さんが大切なんだね」
「……。」
戸惑いか悲しみか、琥珀は互い違いの瞳でウタを睨み、堪えるように唇を噛んだ。
「…私はウタさんを殺しません……。"ピエロ"だったことも…丈さんの顔で嘘をついたことも…、それで私がウタさんを嫌いになることもないです。でも……」
迷いと意思を現すように右の赫眼が深い色に煌めく。
「…丈さんがもし、死んでしまったら……私はきっと、後悔します。…誰かを憎むことよりも、仇を殺すことよりも……丈さんを助けられなかった自分が許せない──」
昔も今も、戦いの最中に不安が過らないことなどない。
屋上で顔を合わせると琥珀はいつも話していた。
好きな人と一緒にいるためだから、前を向けるのだと。
「…丈さんが、もし…死んじゃったら…私は……わたしは…」
気がつくと琥珀の目から大粒の涙が零れていた。
ぱたぱたと音を立ててスカートに弾ける。
「琥珀……お前も俺が死ぬ前提で話をするな」
「…ご、こめんなさ…っ、」
気持ちばかりが先行して、丈を守って広げた腕を下ろすにも居心地が悪い。
琥珀は、うぅ…と引き攣る呼吸を不器用に飲み込んだ。
しかし一度あふれたものはなかなか止まらない。
瞬きを懸命に我慢しても、互い違いの瞳の淵にじわと浮かんでは頬を伝って落下をし続ける。
丈がハンカチを取り出して琥珀を慰める間、ウタはぱたりぱたりと落ち続ける涙に手を伸ばした。
「…平子さんが死んじゃったら、琥珀ちゃんは枯れちゃうかもね」
手のひらに滴が溜まる。
それは心の欠片のようにあたたかかった。


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