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あのこのわがまま

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まるで火が着いたように 泣いていた
いつも 雛のように後ろをついてあるいて
いつも 楽しそうに嬉しそうに笑う琥珀
その琥珀が泣いていた
怒りでも拒絶でもなく
琥珀は必死に訴えていたのだ

へいきだから
だいじょうぶだもん
だから おねがい──


インターフォンは鳴らさずに「お邪魔します」と言って丈は玄関を開けた。
「………。」
いつもなら玄関を開けるや否や飛び込んでくるはずの琥珀の姿が、どういうわけか見あたらない。
掃除の行き届いた廊下がただ、しんと静かに出迎える。
足元に視線を移すと、三和土には大人物の革靴と、琥珀の小さな靴、軒先用の下駄と琥珀用のサンダルとが並んでいる。
出掛けているわけではないらしい。
「……?」
一階ならば居間、そうでなければ各自の部屋がある二階にいるのだろうか。
考えながら、丈はお邪魔しますともう一度断って家に上がる。
気持ちと足が向いたのは琥珀の部屋がある二階だ。
一段、一段、上るにつれて、けほけほと乾いた咳と話し声が耳に届くようになる。
ギィと廊下が軋んで足を止めると、半分ほど開いたままのドアの向こうで琥珀の祖父が振り返った。
「ああ、丈君。いらっしゃい」
「お邪魔…します。琥珀は…?」
丈が顔を出すのはいつものことなので挨拶は短い。
ただいつもと違うのは、丈の手を引っ張って招くはずの琥珀が、けほけほと咳をしていること。
鼻までを深く布団に覆われて、とろんとした眼差しがだるそうに開閉していること。
風邪を引いてしまってねと丈に説明する祖父を、琥珀の瞳と頭が緩慢な動きで頼るように追いかける。
「氷枕を買ってくるから、少し留守番をしていてくれるかな?」
「…はい」
琥珀の祖父が部屋から出てドアが閉められると、室内は廊下のようにしんとした。
病人を任せられて心許ない気持ちに見舞われる。
琥珀の喉が出す、けほけほ、ぜいぜいという音で丈は我に帰った。
「……平気か…」
答えともつかないゆっくりとした動きで琥珀の瞳が閉じる。かと思えば、白い額の眉をきゅっと寄せてむせるような咳をした。
「…。水は、飲めるか…?」
顎を引く微かな動きがあり、丈は机に用意されたコップを琥珀の口元に近づける。
わずかに頭を起こした琥珀へ、水を溢さないように少しずつ傾けて小さな唇を湿らせる。
こくり、こくり、と嚥下する音。
もういらないと意思を示すように唇が離れ、一滴が頬を伝った。
コップを戻して丈は指で拭う。
「…悪い」
「……つめ…たい…」
「………ごめん…」
外の空気に晒されていた手だから冷たかったなと謝る気持ちで手を引っ込める。
しかし琥珀は丈の動きに不満を表した。
「…もっと……」
「……?」
「…おてて……つめたい、の…」
「…冷たいのがいいのか…?」
「……」
ベッドの横に膝をついて枕と頬の間におそるおそる手を差し込むと、琥珀も頭を近づけて頬を乗せた。
湯たんぽのように熱い。
身体がくつくつと内側から熱せられているように思えて、丈はもう片方の手も添える。
包み込む顔はふっくらと小さくて指先を怯ませたが、ほぅと息をつく琥珀の表情が心地よさそうにやわらぎ、丈を落ち着かせた。
「…おでこも……」
「冷やしたほうがいいか…?」
「…ん…」
枕と挟まれている方はそのままに、反対の手を額に当てる。
手のひらをぴたと添わせると、きもちい、と琥珀は瞳を細めた。
学校から戻る丈を待ちわびる琥珀はいつも、きらきらとした瞳で出迎える。
今日はなにをおべんきょうしたの?とまとわりついてくる琥珀に、はじめのうちは丈も戸惑ったが次第にそれが日常になった。
妹の元へ帰る、兄のような気持ちにさせてくれた。
「………」
それゆえに、しおしおと元気の無い花のような琥珀の姿はひどく不憫だ。
今、丈にできることといえば、ずれた布団を直したり、額に浮かぶ汗を拭ってやることぐらいしかない。
せめてもう少し琥珀の負担を和らげてやりたいと思った。
「…たけにい……」
「…?」
「おかえりなさい……。わたしね、おそと…おむかえ…に、いきたかったの……」
喉が潤って喋りやすくなったのか、布団越しに声が届く。
鼻にかかった声は明らかに風邪っぴきのそれで、外に出ようとした琥珀はおそらく祖父に引き止められたのだろう。
熱に浮かされて潤んだ瞳がぼんやりと丈を捉えている。
「…琥珀が出てこられなくても、ちゃんと会いにくる……から…、心配はしなくていい…」
まだ学校にも通っていない琥珀の世界は、琥珀の家族と丈の家族しかない。
大人たちには仕事があり、彼らを見あげるばかりの琥珀はいつも一人だ。
琥珀の友達と呼べる存在が丈しかいないという事実は、少しの優越感と、もう少し大きな寂しさを丈に与える。
同じ年頃の友達がいればと思う反面、琥珀の唯一でありたい気持ちも存在している…。
丈が無意識に琥珀の髪を撫でていると、琥珀もまた安心したように時おりざらつく小さな呼吸を繰り返していた。
静かな部屋に響く衣擦れ。
手のひらにはすっかり琥珀の熱が移ってしまった。
丈が手を抜こうとすると、けれど琥珀がじゃれついて放さず、結局元のままになった。
そうして密やかに遊ぶうちに、布団の中からきゅるきゅると音が漏れ聞こえた。
「…。おなか、きゅぅって……」
「痛いのか?」
「…ううん…」
「減ったのか?」
「……」
わずかに琥珀の頭が動く。
机に用意してあるのは水の入ったコップだけだ。食べられるものはない。
「………」
温かくて、食べやすいもの。
「味噌汁…くらいなら…」
「…おみそ…しる……?」
作れるだろうかと頭に浮かぶ。
祖母が支度をする姿なら丈も見ている。
「作ったら…食べるか?」
「………。たべたい」
丈も琥珀も互いの家で食事を摂ることはたまにある。
勝手に台所に入ることは後ろめたかったが、琥珀のために何かをしたいという気持ちが大きかった。
咳をして呼吸をする琥珀の頬を指で撫でる。
待っていろと言葉をかけて丈は部屋を出た。


買い物から戻った琥珀の祖父の目に飛び込んできた光景は、普通の子供たちであれば微笑ましいもののはずだった。
ベッドから半分身体を起こした琥珀は、背中にカーディガンをかけられて。
湯気の立つお椀を大切そうに小さな両手に包んでいる。
丈は琥珀のためを思ってそうしたのだろう。
琥珀は丈がそれを作ってくれたことが嬉しかったのだろう。
お帰りなさいと顔を向ける丈に留守番の礼を言い、祖父はベッドの琥珀の横に立つ。
やんわりと、小さな手からお椀を取り上げた。
風邪を引いているから今は食べられないと諭して。
はじめは何を言われたのかわからなかった琥珀は、ゆっくりと、空っぽになった手のひらと、遠くに置かれたお椀を見た。
大きな瞳にみるみる涙が溜まる。
戸惑いながら求めるように手を差し伸べて、やだ、と唇が震えた。
「琥珀、聞き分けなさい」
「やだ…やだぁ、…おじいちゃ──…っ、」
「…丈君、外へ出ていてくれるかな」
「──…、」
ベッドから這い出す琥珀を祖父の腕が阻む。
へいきだから。
だいじょうぶだもん。
たべられるもん、だから、おねがい──
そうしてついに大泣きになった。
風邪も熱も背負い込んで、涙でぐちゃぐちゃの顔を歪ませて、琥珀は祖父の身体にしがみつく。
滅多に出すことのない大きな声が響く。
れんしゅうしたから──
たべられるの──
げほげほと咳き込み言葉にならない声で訴える。
涙と咳で最後にはひーんと掠れた琥珀の声を、丈は何もできずにドアの外で聞いていた。


よく晴れた日の午後。
学校から帰ってきた丈は、家の外で跳ねる琥珀を見つけた。
丈に向かって大きく手を振ると、子供にはやや大きすぎる、斜めに掛けた赤いチェックの水筒が揺れた。
「おかえりなさいっ」
「…風邪は?」
「もうへいきー」
駆け寄ってきた琥珀を、転ぶぞと抱き止めて水筒を見おろす。
外に出ても薬はまだ飲んでいるのかもしれない。
そう考える間にも琥珀の空咳が響き、丈と琥珀は家の敷地に入って玄関先の石段に並んで座った。
喉を潤した方がいいだろうと、水筒を預かって中身を蓋兼用のカップに注いでやる。
湯気を立てる、白くてとろりとした液体だ。
「琥珀、これは?」
「おゆ」
「…うまいのか…?」
「んー…ふつう」
尖らせた唇でちびちびと白湯を舐める。
先日の味噌汁を食べてもらえなかったことを思い出して丈の気持ちがやや沈む。…今思えば、あの味噌汁も出来が良かったとはいえず、もっと練習が必要だったと後悔をした。
しかし何よりも、あの場で何もできなかったという無力感が一番だ。
静かにため息を吐く。
気がつくと琥珀が丈を覗き込んでいた。
「…あのね…。げんきになったら、たべられるの…」
子供の話は唐突にはじまる。
「…たけにいがつくった、おみそしる…」
しかし琥珀のなかでは確かに繋がっている。
丈のなかでも。
丈が心残りにしていたように、琥珀も落ち込んでいたらしい。
手の中に包まれる赤いカップが代用品であるように、琥珀は大切そうに抱えてもじもじと伝える。
たけにい、あのね、と。
「わたしに…おみそしる、つくってくれる……?」
食べられなかったことを悔やんで、断られるのではないかと、琥珀はこわごわ窺う。
「…おれが作ったのでいいのか?」
口にしてみると、まるでプロポーズでもしているような気分になったが、琥珀は花が開いたように笑顔になった。
「たけにいのがいいっ」
嬉しさを隠しきれずに喜ぶ琥珀の手の中で、白湯がちゃぽんと跳ねた。


琥珀が泣いた本当の意味を丈が知るのは先のこと。
そしてままごとのような言葉が現実になるのは、さらに余年後のおはなし。


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