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白桃

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病室のドアを開けると、果実の匂いがふわりと香った。
白い病室を彩る見舞いの品は患者だけではなく来訪者の心も和らげる。
本来なら病人を気遣って避けがちな明るい色彩も甘い香りも、彼ならおおらかに笑って受け取ってくれるだろう。
「篠原さぁん、お見舞いに来ました〜…んですケド。…ちょっとかぶっちゃいました?」
丸椅子を近づけてベッド脇に座った什造は、膝に載せたビニール袋を開く。
そっとかけた声にも、カサカサと音を立てるビニールにも、病床の篠原は応えない。
「赤くてキレーだったので今日はイチゴを買いました。篠原家のみなさんにプレゼントです」
布団の下から伸びる管、その先で繋がる機器がピッ…ピッ…と電子音を響かせる。
「……」
口許を覆うプラスチックが静かにくもり、また晴れる様を、什造は静かに眺めた。

昼食を終え、午後の業務に取りかかろうかという頃、什造は鈴屋班のデスクに顔を出した。
気づいた環水郎は、お帰りなさいと言いながら、あれ?と疑問符を浮かべた。
「ただいまですミズロー」
「鈴屋さんさっき、お見舞いに行ってきます〜ってイチゴ持ってきませんでした?」
水郎の指摘の通り、什造の腕には、明らかにイチゴではない果物──どう見ても桃が収まっている。
しかもむき出しで。
「篠原さん奥さんが持ってきた桃と交換こしたですよ」
病室で什造が最近のできごとを篠原に話していると、戻ってきた篠原の妻が勧めてくれたという。
果物は夫への見舞いの品だが、いつも病室を訪れた人と食べてしまうそうだ。
「局と近いので袋いらないですって断っちゃいました」
「エコロジーは地球、果ては宇宙も救うでしょう」
御影がデスクに飾ったミニ天体フィギュアを整えた。
半井も仕事に掛かっていた手を止める。
「局までは近くても先輩のお宅に持ち帰るには不便だろう。環、レジ袋か何か持って来い」
「あ、俺も買い物はテープ貼ってもらうんで袋ないです」
「この役立たずが」
「…」
半井は水郎のエコを吐き捨てると、自身のデスクの引き出しから丁寧にたたまれた袋を取り出した。
なんでそんなちまちま保管してるんですか…とは、報復を怖れた水郎は聞けなかった。
ところで鈴屋先輩、と半兵衛がさり気なく袋と桃の中間に立つ。
「その桃はおやつ用冷蔵庫にて保管されますか?」
袋を広げて流れるように桃をインしていく。
「んー小腹が空いたので一つ食べたいです」
「えーとじゃあお皿とフォークと、…桃ってどうやって剥くんですか?」
水郎が準備に取りかかる。
「さぁ〜?ミカンみたいに指でこう…ブスッ!と?」
「お、お待ちください鈴屋先輩、それは惨事の予感が…」
放っておくと桃に指を突っ込んで剥きかねない什造から半兵衛は桃を引き離した。
長身を生かして逃れる半兵衛と桃を手に入れたい什造の横で、半井が水郎を呼ぶ。
「環、先輩と一緒に桃を剥ける人間を探してこい」
「えっ、俺も行くんですか」
「先輩お一人だと桃を食べて満足したら、班の仕事を忘れて風船の如く巡回に旅立ってしまう」
「あ、ハイ…(すげー想像できる)」
お皿とフォークを戻す水郎に半井が畳み掛ける。
「いいか。お前のミッションは先輩に美味しい桃を召し上がって頂くことだ。良いな?間違っても桃への期待を裏切らせるなよ」
わかったらさっさと行け、と顎で指示された。
桃の美味しさに関しては俺の手腕とか関係ないんですけど──。
と水郎は考えたが、これも仕事だよなと了解した。
「ちなみに俺がレジ袋を常備してるのは、圧迫指導に堪えきれなかった後輩が戻した吐瀉物を受け止めるためだ」
などと耳元で半井に囁かれたため…ではない。

ぺたん、ぺたん。
什造のスリッパが廊下と裸足の間で気の抜ける足音をさせている。
「何も考えずに出てきちゃいましたけど。当てはあるんですか?」
水郎が訊ねると、什造はすでに該当者を浮かべているらしく「そうですねぇ〜」とエレベーターへ向かった。
上階行きのボタンを押してしばし待つ。
え、上?と水郎の頭に疑問が沸くあいだにもエレベーターに運ばれて、什造はぺたりぺたり進むとS3のオフィスにひょっこり顔を覗かせた。
「琥珀〜、琥珀はいますか〜??」
かくれんぼでもしているのかという弛い呼びかけがオフィス中に響く。
こちらに向けられる捜査官たちの視線に水郎の体温があがる。
上等捜査官という肩書きも含めて華々しい功績をもつ什造だが、本人は奇抜というか何というか。
動きの読めない人だというのが環の抱く印象だ。
什造がもう一度声をかけようと大きく息を吸い込んだとき、「什造くん?」と部屋の奥で背伸びをする小柄な女性が見えた。
軽やかな足取りでやって来る。
「緊急のご用?」
「桃を剥いてください」
「…じゃ、なさそうかな…」
什造の唐突な行動にも慣れているようで、「今日のおやつは桃?とりあえず食堂に行こっか」と軽く笑って廊下へ出る。
什造は奇抜だが、彼の知人は常識人で良かったと水郎は思った。

昼時はやや過ぎたものの、食堂には休憩を過ごす局員の姿が多くある。
奥の席をキープすると、琥珀は待っててねと言い残してペティナイフを借りに行った。什造は「僕のナイフじゃダメです?」と訊ねたがやんわりと断られた。
小柄な背中がカウンターを覗き込む様子を遠目に見つつ、水郎がうーんと唸る。
「上にいたってことはあの人も有馬班…なんですよね」
什造の復帰に伴って編成された鈴屋班だが、水郎は支局から異動したため、本局の人間関係も勉強中だ。
それにしても琥珀のおっとりとした雰囲気は捜査官のイメージからは程遠い。
あんな人いたんだなぁと呟く。
「琥珀は式典にも出ませんからねぇ」
「え、どうして出ないんですか?嫌いとか?」
「サボりです」
「なるほど。学校の集会とかも面倒でしたもんねー」
「………」
「あ、戻ってきましたよ」
ナイフを濡れ布巾で包んで、皿に載せて持ってきた琥珀がテーブルに着く。
「お待たせしました。お話中だった?」
「とんでもないです…あ、俺、鈴屋班所属の環水郎っていいます、ミズローでも良いです」
「君塚琥珀です」
「琥珀、桃ーーー」
「はいはい」
お辞儀をする二人の間に什造がずいっと桃を出す。
琥珀は、食堂のスタッフさんに剥いてもっても良かったんじゃない?と桃にナイフを当てるが、什造はきっぱりと首を振った。
「琥珀が剥くとこみたいです」
「そう?」
ナイフを浅く皮に切り込ませて、親指で皮を押さえて引っ張るようにするりと剥く。
ちょうど食べごろ、と琥珀の薄桃色の唇が笑みをつくる。
「ところで什造君、この桃はどうしたの?」
「篠原さん奥さんに貰ったですよ」
「ナイフって言ったけど、サソリ、まだ使ってるの?」
「一番の相棒です。琥珀こそクインケ作らないですか?」
「汎用ので十分」
「まだ苦手です?」
什造はテーブルにやや身を乗り出して琥珀の手をじーっと眺め、琥珀はプレッシャーをものともせず、ぺろりと皮を剥いていく。
問いの答えのように口許に笑みをたたえ、続けて白い桃の身にナイフの刃を沈めた。
器用に削ぎ分けられてゆく桃の断片からは甘い香りが立ちのぼり、鼻腔をくすぐるそれを楽しむ間に、水郎はこっそりと二人を窺った。
アカデミーという段階を踏まずに入局した什造に同窓と呼べる存在はない。
同じ年に入局した者を同期といえなくもないが、本人の独特な性格ゆえに親しく話せる者と、そうでない者で分かれそうだ。
「クインケ作らなんですか…って、え、じゃあ最初に支給されたやつ、琥珀さんはずっと使ってるんですか」
「ミズローはバカにしてますが、あれも斬れ味は悪くないです」
「や、バカにしてるわけじゃないですけど。でも鈴屋さん──」
水郎の言葉の途中で、「桃が切り終わりましたよー」と手を拭いた琥珀が皿を寄越す。フォークを二つ添えて。
「わー。ありがとうです琥珀」
「ミズロー君もどうぞ」
「えっ?俺の…?でも琥珀さんは?」
「ううん。お構いなく」
「食べないなら僕がぜんぶ食べちゃいますよー」
「あっ、いや、食べます──」
什造は遠慮なく大きな欠片から狙っていく。
水郎も勧められれば遠慮しない主義なので、フォークで桃の一欠片を突き刺した。
瑞々しく滴る雫に気をつけ口に運べば、香りに違わない甘さが口内にじゅわりと染みた。
琥珀はというと、濡れ布巾でナイフを拭って丁寧に包んでいた。
包み終えると両の手のひらを鼻に寄せてみる。甘い匂いが移ったと顔を綻ばせた。
「琥珀さんは…苦手、なんですか。桃」
「この匂いは好き」
琥珀は大きな瞳を細める。
手のひらに興味を示した什造の鼻先に翳してやりながら、しばらく匂いが落ちないかもと、楽しそうににこにこしている。
什造の知り合いだからだろうか。
琥珀もやはり不思議な人だと水郎は思った。


──悪いねぇ、と声が脳裏に蘇る。
毎日毎日おっさんと二人でメシを食うってのも味気無いと思ってなぁ──。
篠原が頭を掻き、琥珀が応えていた。
これは確かファミレスに行った時の記憶だ。
琥珀の前にはアイスコーヒー。篠原はハンバーグの載ったプレートと大盛のライス。最後に運ばれてきたのが嵩高いグラスに盛られた什造のパフェだった。
「まさかと思うけど什造くん…それ晩メシ?」
「はい」
何が問題かわからないという気持ちで、だめです?と訊き返すと、篠原は困ったようにうーんと唸った。
「好きなものを食べるのも構わんけどなぁ…肉とか米とか、そういうのも食わないと大きくなれないぞ」
諭されて、少し考える。
対面席から見える篠原の逞しい身体を上から順番に辿りながら、「僕がモリモリ食べても」とパフェスプーンをくるりと回す。
「篠原さん体型になることはないと思います」
「…変なところで冷静ね、お前は」
篠原のナイフとフォークを操る肩がカクッと落ちた。
この思い出は、何も知らなかった頃の自分だ。
篠原が自分に気をかけていてくれたことも、彼と過ごした時間が満ち足りたものだったことも。
大切で、他のなにものにも代えがたい時間だったことが、今ならわかる。
なんでこんな記憶を思い出しているのかと什造は考えながら、しかしファミレス側の自分は銀色のスプーンを感慨もなくパフェに差し込んだ。
生クリームのデコレーションから顔を覗かせる果実やゼリー、コーンフレーク。
頂を飾る白桃の香がほんのりと混じる。
記憶とは不思議なもので、些細なきっかけで蘇る。
どれほど大切にしていても子細を完璧に目蓋の裏に留めておくことはできないし、反対に深く心に刻まれていなかった事柄が、たった今、目の前にある現実のように浮かぶこともある。
琥珀の剥いた桃の香が。篠原に貰ったあの果実が。
そんなきっかけになったのだろう。
「パフェ、旨いかい?」
「はい」
「俺もデザートに頼むかなぁ」
呆れながらも親しみの籠った彼の声だ。


夜の空気ごと、什造はその匂いを吸い込んだ。
「桃、取れちゃいましたか」
首元にそおっとガーゼを貼る琥珀の瞳が笑った。
桃の香りに代わって辺りに漂うのは、救急セットに染み付いた薬品独特の停滞した匂いだ。
現場に停められた車の陰で手当が行われている。
「すみません…!俺、鈴屋さんが怪我してたなんて気づきませんでしたっ…」
水郎が頭を下げると、什造は「平気ですよー」と答えた。
喰種襲撃の現場となった区画ではすでに事後処理が始まっている。
突然舞い込んだ事件であれば、動ける班が当たることになっている。
しかしこの日は連絡に行き違いがあったのか、鈴屋班が急行してみると、ほぼ同時に有馬班が到着していた。
瞬く間の乱戦ののちに対象は速やかに制圧された。
喰種の戦力を考えて出来る限りの対応を行うのは賛成だが、それにしてもとんだ戦力過多だと半井はぼやいていた。
「大きい声を出すと半井にばれちゃいます」
什造は、しー、と水郎を静かにさせる。病み上がりに頑張りすぎました、とも。
すみませんっとまた謝る水郎に琥珀が向き直った。
「ミズロー君も手をみせてね」
傷口に擦れた血を水で流しはじめると、俯き加減になった顔をすぐ近くで見ることになる。
こうしていると先ほど目にした光景も嘘だったのではないかと水郎には思えた。
「クインケ作らないって…そういう意味だったんですね」
琥珀の瞳が水郎をちらと捉えてまた戻る。
長い睫毛に縁取られた焦げ茶色の瞳だ。今は。
「さっき苦手って言ったのも──」
喰種からしたら抵抗感があるってことですか──。
とは。さすがに口に出すことが憚られて止めた。
琥珀が半喰種だったということには水郎も驚いた。
しかし琥珀がCCGに身を置くことを上が認めているのだから、自分のようなヒラ捜査官が口を挟むことではない。
什造も黙って見ているが、失礼なことを口にすれば「ミズローは心が狭い人です」くらいの批難はされそうな気がした。
ただ、水郎の手を取る琥珀の手は白くてやわらかくて。袖から見え隠れする手首も乱暴にしたら折れてしまいそうに華奢で。…実際は丈夫なのだろうが。
クインケを弾かれてから解放した赤黒い右眼は、暗い夜の闇の中できらきらと煌めき、仲間の背中を忠実に守っていた。
じんじんと熱を持つ傷口をガーゼで覆って琥珀の手が静かに留める。
自分で作ってしまった微妙な沈黙を繕うように、「た、確かに桃の匂いは取れちゃいましたけどっ」と水郎は口を開いた。
琥珀が顔をあげると、ますます距離が近くなる。
睫毛の震えもわかるほどの今、そういえば女の子とこんなに接近したのはいつ以来だっけと思考も逸れてなんだか脈も早まった。
「琥珀さん、良い匂いがします」
「ミズロー、近い」
什造にぺしっと頭をはたかれる。
救急セットを仕舞う琥珀に「治療が必要?」と訊ねられた水郎は、つい延長をお願いしそうになったが堪えた。
そろそろ撤収する頃合いだ。
時間も時間なので報告書などの作成も明日に回されるだろう。
そうなると後は帰るだけなのだが。
「琥珀、このあと一緒にご飯食べませんか?」
仕事の緊張から解放されて、什造と同じタイミングで空腹を思い出してしまった水郎は畏れ多いことにまっすぐ手を挙げていた。
「俺もご一緒してもいいですかっ」
新人。怖いもの知らず。というか空気読め。むしろ死ね。などなど。
自分の服音声(たまに半井の声)が流れてきた。
けれど一度挙げてしまった手を、什造と琥珀の大きな瞳からこっそり下げるミッションは不可能だ。
これはまた什造にぺしっとされるの待ちかもしれない…。
水郎が思っていると、意外にも二人の返事はあっさり過ぎるほどあっさりしていた。


数時間後。本局から程近いファミレスに鈴屋班の5名と琥珀の姿があった。
琥珀が注文したのはドリンクバーのコーヒーのみだったが、それに敢えて話を振るものもおらず、水郎はちょっとだけ悔しい思いをした。


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