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プチ怪談

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人の姿が無い廊下。
それだけで、どうしてこんなにも不気味さを感じてしまうのか。
琥珀はふるっと身を震わせる。
昨晩、ベッドに転がって軽いノリで観はじめた動画が、実は急展開のホラーものだったことに気がついたのは、悲鳴と共に携帯を投げ落とした後だった。
仕事中には記憶の欠片も思い出さなかったのに。
この、夜の気だるさに包まれて、肌を撫でる空気の流れを感じた瞬間。
この、規則正しく照明が並ぶ、無人無音の廊下の違和感に心をおののかせた瞬間。
それはすうっと琥珀の心を包み込む。
四角く長い空間に無機質に並ぶドア。
薄らと開いた一つから黒い影がこちらを見ている…。
なんてことが起こったら──、
「琥珀?」
「っひゃぃ…ッ!?」
隣に立つ宇井が呆れたように琥珀を見下ろしていた。
「何、その声。…早く書類を運ぼう。捜査に参加できなかった分、他の仕事は済ませるよってさっき言ったろ」
琥珀の心拍数は上昇著しい。しかしそんなことは露知らず、宇井は怪訝な表情だ。
首筋なかばの長さで真っ直ぐに切り揃えられた黒髪が揺れる。その艶、まるで日本人形。
またホラーワードを浮かべてしまった琥珀は慌てて顔にくしゃりと力を込め、頭から着物の人形を追い出した。
困り顔をこらえてファイルを強く抱き締める。
資料室から持ち出したファイルはデータに落とされる以前のものだ。早く整理をしてほしいと宇井はぼやいていた。
「…。百面相」
「ぁ、うぇっ…はいっ……?」
「さっきから変だよ、琥珀。鼻息が荒いっていうか、…あと距離も近い」
宇井に指摘をされて琥珀はしぶしぶ半歩下がった。
確かに普段よりもだいぶ近くを歩いていた気はする。
たまに宇井にぶつかっては、「何?」「な、なんでもないです…」のやり取りも三遍ほど繰り返したような気もする。
しかし今の琥珀にとって半歩ですら重要だった。
階段で下を向いたときや、目を横に逸らした間に宇井がいなくなってしまったらどうしようという恐怖が、琥珀の頭にこびりついて離れないのだ。
もちろんそんな恐怖は琥珀の心の中だけのもの。
宇井には普段通りの思考が詰まっていて、見ている景色だって何の変哲もない局の廊下だ。
カチッ …と、どこからか空調の切り替わる音が響く。
琥珀の身体がぎくりと動いた。
それを目にした宇井も、ふと廊下の先へ視線を向ける。
たった今、周りの静けさに気がついたというように。
「捜査っていっても…こんな夜間の仕事じゃ、局で会えるのも最低限の人間だけだし」
静かだな…と。
琥珀に話しかけるような、または独り言のような呟きが廊下に吸い込まれる。
現在行われている捜査には有馬と、丈を含む班員たちが当たっていた。
宇井と琥珀は関連資料の掘り出しのための居残りだ。
再び宇井が歩き出して、琥珀も慌てて横に並んだ。
わずかたりとも遅れてはならない。ぶつからないで離れない位置を必死に調節しながら。
そんな中、宇井が「あっ」と大きめな声を出す。
案の定「ひっ…!」と驚いた琥珀はよろめいて宇井にぶつかり、スーツにしがみついた。
「…もしかして、怖いの?琥珀」
「そ、そんなことは…」
「………」
「………」
「わっ!」
「ぎゃーーッ!」
宇井が場違いな大声を出して、また悲鳴。
「や…、も……っ!!!」
身を捩った琥珀が激しく暴れ、体当たりするようにぶつかった。
結果、宇井がごほっと胸を詰まらせた。
「…なんていうか、…"キャー"とかじゃないのか……」
「必死なときに!そんな可愛いの出ませんよ!!」
「…ごめん」
宇井は呼吸を整え、琥珀は怖さやら怒りやらのごちゃ混ぜになった唸りを漏らして頬を膨らませる。
本当のところ心臓のばくばくの方がひどかったのだが、琥珀は怒るふりをした。
そうでもしなければ廊下はやはり静かすぎる。
空元気のように騒いでいる限りは、忍び寄る心細さも怖い妄想も、遠退くような気がしたのだ。
唇を引き締めたまま目的の部屋に差し掛かる。
琥珀は心臓ごと押さえるようにファイルを抱き締め、宇井がドアを押し開けた。
室内の灯りが点いている──。
そう思った瞬間、赤く汚れた手がぬっとドアを掴んだ。
「うわあっ…!」
「きゃあっ──!!」
バサバサバサッと大きく音を立てて琥珀の手からファイルが落ち、挟んであった資料が床に広がる。
「──郡、琥珀も。お帰り」
「ぇ…、あれ…?有馬さん、タケさんも──…」
落ちる資料に気を取られて、それから宇井が見渡した室内にはテーブルを囲む数名の捜査官。
加えて有馬と丈の姿もある。
廊下よりもやや明るい照明の下、コートや上着を椅子に掛けて寛いだ様子の面々が二人を迎える。
「み、皆さん…いつの間に戻っていたんですか…?」
「少し前に。ところで琥珀は平気?さっきもすごい声が聞こえたけど」
有馬が視線を向けた先では琥珀がぺたりと座り込んでいた。
丈が近づいて屈み込むと、困り顔でぱくぱくと唇を動かす。顔が赤い。
「…ひ…ひらこ、いっと……」
「…。腰が抜けたのか」
「何したの、郡」
「えーと……からかいすぎました…」
郡は反省を込めて書類を拾ってファイルに戻すと、テーブルに置いた。
琥珀は足腰にまったく力が入らない。
奥で談笑する捜査官たちに「作戦中はシャキッとしてるのになぁ」と苦笑されて、耳まで赤くなった顔を手で覆った。
「…す、すみませ………自分でも…困ってます…」
「…そんなに驚いたのか」
「郡がねちっこく苛めたんじゃない?」
「私はよくある程度の脅かししかしてませんよっ…」
立てない琥珀を椅子まで運ぼうと丈が背中を貸す。
しかし琥珀はおんぶされるのは恥ずかしいと首を振る。
「それに最後のは私じゃないですし──」
丈が顔を隠す手を外させると、琥珀は仕方なく背中にくっついた。
「あんな赤い手が出てきたら誰だってびっくりします」
「赤い手?」
琥珀の身体を背中に引っ掛けたその時。
丈は視界の端に一枚、取り忘れられている書類を見つけた。腕を伸ばしてぎりぎり届くかどうかという距離だ。
「今、ドアを開けてくれた手ですよ」
取れるだろうかと試してみるも届かない。
一旦諦めようとした丈に、男の手が伸びて書類をすっと拾って寄越した。
「…、どうも」
助かりますと受け取って顔を向ける。
しかしそこには誰もおらず、丈の手の中でA4の紙がへたりと折れた。
「今日は負傷者はいないよ」
「え?でも真っ赤で…てっきり、手当ての…途中かと…」
「………。」
「…ひ、平子一等…?」
襟元に顔を埋めていた琥珀が、一向に立ちあがろうとしない丈に、どうしたの…?と訊ねる。
「あぁ──…、いや…」
琥珀を背負って立ち、なんでもないと答えた。
片手で支えながら反対の手でテーブルに乗るファイルを開く。
A4用紙の端にも赤い何かが擦れた痕を見つけたが、丈は何も言わずにページを綴じた。
「その…琥珀も見たろう?何ていうか…さっきの……」
「えっ?…わ、私は…郡さんの声にびっくりして…腰が…」
琥珀は何も見ていないとこわごわ答える。
「え──…と………」
誰ともなく言葉を控え、室内の空気は湿り気を帯びたように重たくなる。
「み、見間違い…ですよね…?郡さん…」
「だよ、ね。うん、…見間違いだと思う、きっとそうだ」
「郡、つかれてるのかもしれないね」
「そうですね……えっ、ちょっと有馬さん、それどっちの意味ですか」
「明確にした方がいいならするけど」
「うっ、いや、やっぱりいいです…!」
私は疲れていたんです!と宇井は改めて断言する。
言葉の勢いに押されるように室内に満ちていた空気も戻る。
その何かの正体を明らかにしようとも、心を落ち着かせる結果が絶対に得られないであろうことはわかった。
流れるように、諸々の業務は明日へ繰り越されることに決まり解散となった。

「──で?琥珀はタケさんの家に泊まったと?」
「そういう郡さんだってっ。飲み明かして有馬さんをおうちに泊まらせたって聞きましたけど?」
朝の挨拶を交わしながら廊下を歩く二人は身軽だ。
「男と女じゃだいぶ違う」
「もうっ。私だって怖くてそれどころじゃなかったですよっ」
「いてっ──」
拗ねたように琥珀が跳ねてぶつかり、宇井はよろめいた振りをした。
この日の仕事で、残念ながら宇井と琥珀が運んできた資料の一部は必要がないことが判明し、何冊かのファイルは資料室へと返却してきた。
「…そいつは失礼。さぁ、今日は僕らも局外だから、気持ち切り替えて仕事しよう」
「はぁい」
「外の任務でほっとするなんて変な感じだよ」
「やっとって感じです」
「やっと出られた」
「は?」
「えっ?」


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