×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -



フィラメントの明滅

.
おなか すいてきちゃった ──

「(もうちょっとだけ、がまん──)」
塾の授業は間もなく終わる。
空腹のわびしさを訴えるお腹に手を当て、琥珀は薄暗い窓の外に目を向けた。
家に帰れば"食事"がある。
祖父と叔父は仕事で遅くなるから、今日は一人の晩ごはんだ。
窓に映る自身の顔に雑居ビルの看板が重なる。
事務所、ネイルサロン、歯科クリニック、飲食店──
上から順番に追って行き、一番下のコンビニをそおっと覗き込んだとき授業が終わった。
「琥珀ー、めっちゃよそ見ぃ〜」
「なに見てたのー?」
「ん〜と…コンビニ?」
なにそれ、と笑う友人たちに、お腹すいちゃってと正直に返事をしてしまい後悔する。
「食い気かよっ。今日はイケメン講師だったってのにアンタって子はっ」
「琥珀は"お兄ちゃん"ひとすじ=年齢だもんね〜」
「ひどっ…!それってフォローじゃないからっ」
あと年よりは短いもん、と自身もまた、挽回になり得るのかわからない言い訳をする。
机に広げていたノートと筆箱を、目立たない程度に手早く鞄へ入れながら。
「羨んでんですぅー。だって、歳上で?公務員で?夏休みも遊びに行っちゃったりとかさ。それ彼氏でしょ。認メロ」
「や…うっ…でもそれはっ、保護者みたいな…感じだし」
面白がってじりじりと迫る友人から、琥珀もまた間合いを取る。
ひとの色恋はいつだって美味しいつまみだ。
離れた席の友達もやって来て話題に参加する。
「追及の必要あり…ってコトでマック寄ってく人!」
「はいっ!」
「賛成〜」
「あっ…私、ちょっと今日は……」
ノリ良く上がる手のひらに、しかし琥珀は参加せず、ぎゅっと結んだ。
「ごめん…。塾終わったら、早く帰っておいでって…言われてるから」
家族からの言い付けは、ない。
琥珀自身が体調を考えて決めた。
このような言葉で誤魔化して誘いを断るのもはじめてではない。
ゆえに、なら仕方ないね、と友人たちの引きは早い。
また今度ね、と。
めいめいに抱える鞄に揃いで付けられた飾りが揺れる。
それは彼女たちが一緒に遊びに行った店で配っていた何かの記念品らしい。…その時かぎりの思い出だ。
「家のルールはみんなあるし。気にしないでさ」
「ん。…ありがと」
小さな痛みをもたらす。

嘘をつくのは昔から得意ではない。
先ほどの言い訳もだいぶぎくしゃくしていたが、今の暮らしを守るために必要な嘘だ。
「…なに、食べてるのかなぁ」
駅へ向かう商店街を歩きながら琥珀は取り出した携帯でメニューを探す。
期間限定のデザートか、お腹が減ったからサイドメニューをシェアして食べてるのかも…。
惜しく思うほどに想像は膨らみ、ため息となって唇を抜けた。
喰種は人間の食べ物を受け付けない。呑み込むことはできるが、空腹時に、相容れないものを"食べるふり"するのは苦痛だ。
「…せめて空きっ腹じゃなかったらなぁ…」
ぽつり。
呟いたとき琥珀はふと、ある匂いを嗅ぎとった。
鉄の粒子が散りばめられたような空気の流れ。
それは路地から抜け、琥珀の頬を撫で、鼻の奥、そして喉へ。舌に絡まり唾液がじわりと涌き、滲み、最後に腹をきゅるりと鳴らした。
「んっ…」
恥ずかしい、と慌ててお腹を押さえ、誰にも聞かれていないかと周りを伺う。
当然ながら道行く人々は気づいていない。
けれど、琥珀の…喰種の空腹をそそるはっきりとした匂いは、不穏な予感でもある。
「──…」
匂いは次第に濃くなり、路地の前で琥珀が立ち尽くしていると、遠くから複数の声と足音が聞こえてきた。
──連絡を受けたのはこの奥の建物かね──
──周囲への規制を行います。三人は残り、現場へは私と──
スーツに揃いの白いコートを羽織った数名が通行人の合間を縫うようにやってくる。
口早に状況の確認し合いながら。
手には銀鼠色のケースを携えて。
その姿は刑事のようでありながら似て非なる。
彼らが追うのは人間ではない… ──喰種だ。
冷たい手が背を這うように、琥珀の背筋がザワリと波打ち、携帯を握る手が汗で湿る。
数名から成る白いコートの集団は、駅へと向かう人の流れに反して異様に映る。
彼らの背後には近隣署から呼ばれた警察官も続く。
只事ではない様子に通行人の足が止まりはじめた。
「済まないね。君も出張の支度で忙しいだろう」
死びとのように落ち窪んだ目の目立つ男が口を開くと、隣に並んだ長身の男が穏やかに返した。
「独り身ですので大した支度もありませんよ」
「帰ってきたら家族を持つことをお勧めするよ。特に子供には癒される」
「最後に惚気られてしまいましたね。私はもうしばらくは仕事が恋人でしょう。──ああ、それ以上入れないようにお願いします」
彼らがこれから行うことは命の危険そのものだというのに。彼らにとっては日常なのだろう。
気負いのない様子で"仕事"に取りかかる。
足を止める野次馬に、彼らの指示で立ち止まらないよう規制をかける警官たち。
ざわざわと周囲に人が留まり騒がしくなる。
そんな中、琥珀は頭上から落ちてきた砂埃に気がつく。
──アイツを置いていくなんて……ちくしょうっ…──
──"白鳩"が集まりすぎた…もう諦めろ──
共に落ちてきた逃亡者らの声は喧噪に混じり、人々の耳には届かず掻き消された。
再びぱらぱらと埃が落ちて警察官の帽子に積もる。
人垣に紛れて琥珀はうつ向いた。
早くこの場から立ち去りたかった。
きっとあの奥で誰かが深い傷を負ったのだ(あるいは命までも…)。鼓動は速くなるばかりで、呼吸も何だか苦しい。しかし急いで離れれば目立ってしまう。
頭上の喰種はばれていない。
琥珀とて、ただの通りすがりの女子高生だ。
大人しくしていれば誰も気づかない。…はずなのに、
「君、──」
携帯を握る手が揺れる。
野次馬に押されてよろめく肩を掴まれる。
顔をあげると先ほどの喰種捜査官が琥珀を窺っている。
髪を撫でつけた、優しげな風貌の男だ。
「君は学生ですか。顔色が優れませんが…、先ほどから此処に?」
「っ…騒ぎにおどろいて……。立ち止まってたら……押されて…出られなくなっちゃって……」
「…。野次馬たちにも困ったものですね…。そこ、道を開けて──」
早く家に帰りなさい。そう言って琥珀の背を優しく押すと、あとは警察官に任せて自身も踵を返す。
人垣を掻き分けるようにして、琥珀は言葉に甘えて急いでその場から離れる。
「………」
「どうかしたのかね?」
「いえ。責任を持たないギャラリーは厄介だと思いまして」
「ふむ。見物料として餌役にでもなってくれれば歓迎するんだが」
「…私がいない場所でのブラックな発言は自粛してくださいね、真戸さん。中国からではフォローできませんよ」
「小姑が居なくなるようで寂しいものだ」

早歩きから、いつしか駆け足になっていた。
いつも使う駅は何となく怖くて、隣の駅まで走ってしまった。
体力が続かずに途中で歩いて、また走った。
誰かが追いかけてくるのではないか、自分の痕跡が知られてしまうのではないかと、むやみな不安に駆られた。
「(…誰も追いかけてなんかこないし……だって私は普通の高校生だもん──)」
喰種だなんて家族以外の誰も知らない。
誰にもばれてなんかない。
でも。
いつか自分も正体がばれてしまったら──。
ようやく整ってきた自身の呼吸を聞きながら、人の流れる改札を見る。
仕事帰りの男性や女性、部活の一式を背負った学生に老人。当たり前の日々に溶け込むように、鞄を持ち直した琥珀も改札を抜ける。
喰種捜査官という非日常の出現に沸く人々はどこにもおらず、ただ電車の到着を待つ列に加わり、向い側のホームを眺めた。
ネオンやビルの看板にかぶさる夜空は黒い。
頭上の闇を越えていった彼らのように、…自分は果たして逃げられるだろうか。
御守りのようにずっと握り締めていた携帯電話が電子音を響かせ、琥珀にメッセージの着信を報せた。
友人たちからのメッセージが次々に表示される。
限定メニューが美味しかったことや、来週食べに行こうという誘いの言葉。
ついでに、自分たちだけ太るのがくやしいとなぜか怒られて、くすりと笑いが零れた。
返事を打つ間もなく重ねられていくメッセージは、夜一色に暗く塗られた琥珀の心を明るく浮かびあがらせる。
ホームに次の電車を告げるアナウンスが響く。
電車の到着までの合間に琥珀は返信を打った。
来週かならず空ける!と。
やって来た電車から乗客が降り、入れ替わるようにホームから人が乗り込んでゆく。
ドア横に滑り込んで琥珀は手摺に凭れかかった。
いつまで続けられるとも確証のない、この日常が好きだ。手離したくない。…ずっと、いつまでも、
「(…続いたらいいな…)」
銀鼠色のドアがゆっくりと閉じる。
琥珀はほっと息を吐いた。


180803
[ 7/227 ]
[もどる]