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花の綻ぶように

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──…

穏やかな声に呼ばれたような気がして丈は振り返った。
しかし目に映る光景に変化はない。
ざわざわと人の出入りの多い窓口カウンターと、その向こう側で事務に勤しむ市役所職員の姿。
天井から吊るされた、目的別に書き分けられたプレートが揺れる。
それらのあとに目に入る、小走りで丈の元へやって来る着崩れたスーツ姿の青年。
「平子さん早いですってっ。用事終わったらすぐ帰るんですか」
「…他に用もない」
「えーっ、お茶買ってくるとか」
「戻って飲めばいい」
「やー…なんていうか…そういうんじゃなくて…」
丈は心地好く冷房の効いた室内を眺めた。
丈よりも先輩にあたる年下の同僚は、ネクタイとシャツの首もとを緩める。
「ちょっとくらい涼んでから会社に帰っても怒られないですよ」
「車の冷房で涼めばいい」
「…真面目だなぁ」
自動ドアをくぐり、アスファルトに反射する光の強さに目を細める。
蝉の声こそ聴こえないものの、陽射しも気温も十分に気候を満たしている。
「ドア熱ぃ〜……平子さん、スーツ暑くないですか」
車の助手席に滑り込んだ青年は、脱いだジャケットを後部座席に放った。
座席脇に持参している団扇で顔をあおぎつつ、シートベルトを締める丈よりも先に、冷房のスイッチに手を伸ばす。
「慣れている」
「さすが元・捜査官」
「…」
このフレーズも事あるごとに丈に対して使われるものだが、いい加減に飽きてきた帰来がある。
しかし無視をするのも愛想がないと丈の脳裡に浮かぶ。
──愛想っ、
あと、世間話もっ──
丈には彼女の半分もできないだろうが…、そして彼女も丈が不得手だと知っているだろうが。
彼女はいつもそう言って、にこにこと丈を送り出す。
「…。捜査官だった頃はこの上に防刃コートも羽織っていた」
「げっ…!この暑さで?…捜査官って皆そんな我慢強い人たちなんすか」
「命を守るためだ」
「おおっ。ぼんやりした顔の平子さんもマジで真剣に戦ってたんですね。すげー。なんかこう、動画とか無いんすか平子さん〜」
「………」
青年が暑い暑いとやたらあおぐ団扇の風と、強く設定された冷房の風とが丈の顔を直撃して髪を揺らす。
少々寒いくらいだ。
しかし興奮気味に食いつかれたものの、丈はそれ以上は話を広げずに車の運転へ意識を向ける。
昔も今も、仕事仲間には恵まれるらしい。
丈が話さずとも相手が喋ってくれる。
隣の彼もまた、捜査官から転職した丈を相手に、はじめはおっかなびっくりという様子だったが、しかしペースに慣れてくると気安く仕事を教えてくれた。
上司には言えない愚痴なども織り混ぜながら。
それは丈に、生真面目だが酒が入るとやけに絡むおかっぱの後輩や、お喋りでやや面倒くさがりな糸目の部下を思い出させた。…一番の、尊敬していた上司は、丈と同じく口数の少ないタイプだったが。
そろそろ彼岸も近づいてきたと思考が流れたところで、丈の隣から「おっ」と声が漏れた。
あおいでいた手を止めて、窓の外を見ている。
「……どうした」
「や…歩道歩いてた女の人が可愛いかったなぁ〜と…」
「………」
「あー、じゃなくてっ。その、妊婦さんなんですかね…日傘差してましたけど赤い顔で…荷物も多くて大変そうだと思いまし──」
青年の言葉でミラーに視線を走らせた丈は、途端に車を歩道に寄せて停車させた。
「は?え??」
驚く青年を置いて車外へ出る。
平子さんっ──!?と困った声が丈の背中にぶつかるが、丈は構わず、歩道で傾げる日傘へと近づく。
片手には買い物袋を、もう片方の肩で日傘を押さえながら、風で乱れた前髪を直す小柄な女性。
足早に近づいてきた丈を目にして驚きの顔になる。
そしてやわらかく変化した。
「──琥珀、こんなところでどうした」
「検査の帰りにお買い物。丈さんこそどうしたの?お仕事中?もしかして会社の人も一緒?」
丈がやって来た方向へ琥珀が目を向けると、路肩に停まった車の窓に張りついてこちらを窺う顔が見える。
「…役所に用事があった。今は会社に戻るところだ」
「そうなの」
偶然の出会いが嬉しいのだろう。
琥珀は上気した顔でにこにこと笑う。
数ヵ月前から目立つようになってきた腹部に、もうひとつの体温を抱えて。
好んで履いていた靴も、今では踵のないものに履き替えられた。
それは少しだけ、丈から琥珀を遠くした。
「検査は聞いていたが…買い物までは聞いていない」
「そのための日傘。それに身体も動かさないと」
「こんな暑い日にわざわざしなくていい」
琥珀の手から買い物袋を取り上げ、日傘を持つ手で琥珀の背を押す。小柄な身体をぴたりと護るように。
「家まで送る」
「えっ?でも…丈さん勤務中じゃ──」
慌てる琥珀を促して車の後部席のドアを開くと、ばさりとスーツの上着が逃げた。
「何ですかー平子さん、知り合いだったんですか?それとも本当にナンパで──」
「家内だ」
「かない!?」
驚きのあまり発声練習のようになった声を無視して、丈は琥珀をシートに座らせる。
運転席に回って車を出した。
ゆるやかな運転と冷房の風音。
そこに丈以外の二人の緊張が混ざる。
「えっ、あー、えーと、平子さんにはいつもお世話になってます…?ああいや、勤務経験的には俺のが先輩なんすけども…」
「は、はいっこちらこそっ。丈さんが──あっ、ええと…、主人がいつも…お世話になっています…」
「………」
互いに言い慣れない口上に、ぎくしゃくと言葉がくっついていく。
赤信号で車が止まり、また少し車内が静かになる。
青年はちらちらと丈の左手やミラー越しの琥珀を眺め、琥珀はまた上がってしまった体温を戻すため、強風の吹き出す通風口に顔を向けた。
口では遠慮をしていたがやはり炎天下は堪えたらしく、心地良さそうに瞳を閉じる。
「琥珀、あまり冷やしすぎるな」
「ふふ。はぁい」
「あ、嫌じゃなかったら俺の上着、掛けてて良いですよ」
「ご親切に。ありがとうございます」
「あ〜も〜平子さんっ……奥さんとか先に言っておいてくださいよ。俺いろいろと本当に恥ずかしいし」
「ああ…会社に戻る前に、彼女を家に送っても良いだろうか」
「良いですけどね別に。外暑いし賛成ですよ俺だって。ただね、俺のセリフ完全スルーしましたよね」
ぐちぐちと悲しげな声を出す青年を余所に、しかし丈は早くも道の確認をしている。
後ろの席では上着をお腹に乗せた琥珀がくすくすと笑う。
「…さっきも言いましたけど。ちょっとくらい寄り道してから会社に帰っても怒られないですよ」
「助かる」
丈の短い返答に青年もため息をついた。

玄関の前で車が停まると、きゅぅんと一声、犬の鳴き声が聞こえた。
「犬飼ってるんですか?」
青年の問いに琥珀は笑顔で答えた。
後部座席から丈が買い物袋と日傘を引き出す。
「よろしかったらお茶でもいかがですか?」
「あ、ぜひ──」
「いや、もう戻る」
「…また今度…」
萎れる青年を放って、丈が玄関の前に立つ。
擦りガラスの填まった古風な引き戸の内側では、犬の影が落ち着かない様子で動いている。
「………」
「丈さん?」
丈と共に琥珀が玄関の前に立つことなど、幼少の頃からを思えば数えきれない。
穏やかな日中の陽射しの元。
眩しい西陽に包まれる夕刻。
街灯の灯る真夜中だったこともある。
いつも祖父母の気配がして、丈と琥珀は迎え入れられた。
しかしもう、彼らはいない。
祖父と祖母を手の届かない場所へ送り出した今、琥珀を迎える家は少しばかり広い。
「丈兄」
動きを止めてしまった丈の手を琥珀が取る。
買い物袋と日傘を、丈の指から剥がすようにして自身の腕に掛ける。
祖母の日傘に守られていた白い腕は、重たい買い物袋もしっかりと支えた。
「ね。晩ごはん何食べたい?」
唐突な問いかけに丈が答えられずにいると、面白いものを見たというように瞳を瞬かせる。
「丈兄のごはん。作って、三人で待ってるから」
「…三人?」
「あっ。正しくは二人と一匹ね」
琥珀の指が、琥珀自身と、丸みを帯びた腹部を撫で、そして玄関の影をゆったりと瞳に映す。
「私ね、これから買ってきたものを片付けて、お風呂を洗って、洗濯物も取り込んで。こう見えてけっこう忙しいの」
琥珀の心に賛同するように、玄関の内側からもガラスを叩いて催促する前足が見える。
寂しくなんてないからね?この子たちがいるんだもの。
言葉の他にそう伝えて、丈の手のひらをもう一人に添えた。

──遅くなってしまってごめんなさい──
そう、祖父と祖母に謝る琥珀を覚えている。
人間と喰種とでは子を成せる確率も低く、俺たちもあえて触れることはしないでいた。
まさか本当に子を授かるとは。
琥珀にとっても、もちろん俺にとっても、その現実は幸運であり幸福な出来事だった。
ただ、琥珀の身体に命が宿ったとわかった時には俺の祖父も祖母も高齢であり、すでに二人の身体の調子もかんばしくなかった。
床に臥せる祖母に伝えた琥珀は、困惑と申し訳なさで深く、深く俯いた。
静かに見守っていた祖父は、幼子にするように琥珀の頭を優しく手を置き、祖母は穏やかな声で琥珀に伝えた。
──私たちは、ひ孫と一緒に暮らしているのね──

「──どこで出逢ったんです?」
「…ん?」
会社帰りの助手席で、丈は窓から視線を移した。
緩やかに街灯の灯が通り過ぎ、対向車のライトに目を細める。
「やっぱり捜査官ってモテるんですね」
「……あれは幼馴染みだ」
ぼそりと答えると、運転席の青年からは狡いだの何歳差だの狙いすぎだのと不平不満が山となって返ってくる。
「頼れる捜査官で、可愛い奥さんもいて。なんだって葬儀屋なんかに転職したんですか」
「…。心配をかけたくなかった」
「──…、なるほど」
しかし丈の言葉を静かに聞き届けると、それより深くは訊ねなかった。
給料はまぁまぁですけどと繕うように言葉を足してウィンカーを跳ねあげる。
数年前の騒動で喰種への認識は大きく変化した。CCGも、喰種も、一般の市民さえも。
そしてその騒動の収束を最後に、丈も琥珀も関わることをやめたのだ。
カチ、カチ、と短い間隔でライトの点灯を報せる音が車内に響く。
鼓動よりも早いそれを丈は無意識に数えていた。
琥珀の胎内でも、もうひとつの命が育っている。
残念ながら男には感じることのできない感覚だが、それを抱いて琥珀は愛おしげに瞳を伏せる。
些細なことでも笑い、よく泣いて、ときどき怒り、子供のように拗ねては丈の袖を小さく掴む…丈が妹のように可愛がり、そして大人になった琥珀。
彼女はいつしか母の表情を浮かべるようになった。
「──平子さん、この辺で良いですか?」
「…ああ」
自宅近くの通りで車は停車し、丈は礼を言ってドアを開けた。
それに比べて自分は…果たして何者かになれただろうかと、ぼんやり思う。琥珀と出逢ったその時から何も変われていないような気もする。
それを琥珀に伝えれば、彼女はきっと笑うだろうが。
じーっと悩んでると思ったら、丈兄、そんなこと考えてたの?と。
「(ああ。そんなことを、いつも考えている…)」
凡庸で平凡と自己評価を下す丈を、琥珀はいつも全力で首を振り、やわらかく掬いあげる。
それは丈だけに留まらない。
丈の家族もまた、最後に浮かべていた表情は穏やかであったのだから。
彼女の存在は。
琥珀は。
出逢ったあの日から、この先の日々へ続く丈の幸せだ。
立ち並ぶ家の窓から明かりが零れる。
自宅へ向かおうとすると、車の窓が開き「平子さん」と声をかけられた。
「お子さん、おめでとうございます」
丈は短く感謝を伝えて青年の運転する車を見送った。

心地好い夜風が頬を撫で、ふわりと夕餉の匂いが漂う。
玄関前に立ち、上着から取り出した鍵を挿し込むと、耳聡く聴きつけた犬の足音が扉の向こうから響く。
それを追いかけてくる琥珀の足音。
「──お帰りなさいっ」
顔を見るよりも早く届いた声に心がほどける。
引き戸を開けると、主人の帰りに甘えて鼻を鳴らす愛犬と、それを必死に押さえる琥珀がそこにいた。


180722
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