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第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -



一番ほしかったもの(後)

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──…。
時計の秒針が進む音。
時おり重なる二つの呼吸。
衣擦れが静寂に混じる。
幾度かの果てののち、丈は気だるい身体を持ち上げた。
ほぼいつも、今日こそは欲を抑えようと心に決めるのだが、けれど自制できずにいる。
反省の気持ちは十分にある。
しかし丈を呼ぶ甘やかな声に、求めれば応じて抱きしてめくれる柔らかな肢体に、 誰が抗えるというのだろうか。
加えて今回は、琥珀の頭から他の一切を追い出して、自分のことで一杯にしてやろうという邪な気持ちも抱いていた。
「………」
ひっそりと息を溢して丈は布団を捲る。
隣でぼんやりと呼吸をする琥珀の瞳が丈を映した。
「…水を取ってくる」
少し前まで啼かされていたのだから余程疲れているだろう。
飲むか、と訪ねると、こくりと僅かに頭が動いた。
一緒に起きようとしたので、丈は琥珀の髪を撫でて静止する。
「待っていろ…」
「……りがと…」
ゆったりと撫でる丈の手が好きなのだと、琥珀はいつも言っていた。
心地好さげに瞳を細めて、そして閉じる。
もしからしたら戻った時には眠っているかもしれないと思いつつ、夜着を着直して丈は台所に立つ。
室内は薄闇に包まれている。
寝室から漏れる灯りと、カーテン越しの朧な街灯が頼りだ。
自身の喉の渇きを潤して琥珀の分をコップに注ぐ。
蛇口から流れ出る水の音。
聴こえる音といえばそれだけのはずだが、丈は外からの音を聞いた。
カタン…、と小さくベランダの方角から響く。
続けてまた、ガッ、と短く。
今度は太く強い音だ。
「………」
丈の頭に"泥棒"と浮かぶも、この部屋の階層はマンションの中程。わざわざ狙うには上からも下からも遠い。
コップを手に寝室へ戻り、琥珀の枕元に置きながら上着を羽織る。
「ん、…?なに…?」
「ここに居ろ」
ぼんやりと身体を起こす琥珀に短く答えて丈はベランダへ出る。
勘違いならそれで良い。ただ二度目の音は、注意深くガラスが割られた音のようにも聞こえた。
「──…」
手摺から頭を出して階下の様子を注視していると、夜着を整えた琥珀が隣に立つ。
何かあった?と視線で問われ、丈も下を示す。
「…これ…血のにおい…?」
「判るか?」
厭な予感ほどよく当たる。
「……新しい…血じゃない…乾いて…衣服に付着した…」
「…喰種の予想か」
「…9割くらい…」
「地上と上階、他に気配は?」
丈に促されて琥珀は目を閉じる。
音や匂いの欠片も漏らさぬように、感覚を研ぎ澄ませて周囲の気配を探る。それから首を振った。
「…たぶん単独」
「そうか。琥珀、局に通報を。俺は窓から侵入する。玄関からの援護を頼む」
「っ…待って、丈兄……他の人が来るまで待たない…?」
「時間がない」
性急な判断に琥珀が不安を抱くのもわかるが、下の部屋にはすでに喰種が侵入している。
自身が凶器でもある喰種が寝込みの人間を襲うのは造作もない。
クインケケースを手に丈が戻ると、携帯を手にした琥珀も不安を押し籠めた表情で頷いた。
狭い室内での戦いは丈のクインケには不利だが、機動性は琥珀に、判断力は丈に歩がある。
「先に行く」
喰種は恐らく一体。赫子は不明。よって正確な情況を捉えること。
それから住人の安否の確認、及び保護を行う。
琥珀が踏み込むまでに行うべきはこの二点。
丈兄、と琥珀が一度、呼び止めた。
「…絶対に呼んでね」
無言で琥珀に応え、丈はベランダの端から手摺を越えて下へ降りる。
残念ながら、予想通りガラスは割れていた。
解錠された窓は開けられており、フローリングには靴跡が薄らと見える。
ゆるくはためくカーテンの隙間から街灯の明かりが注ぐ。割れたガラス片が光る。
「………」
不意に寝室から物音を聞き、丈は壁越しに近づいた。
室内の間取りは丈の部屋と同じだ。
開かれた扉の端から寝室を窺うと二つの影が見える。
ベッドに横になる女の左手を、屈んだ男が自身の手を絡めるように持ち上げている。
一見、恋人にするような触れ方だが漏れ聞こえる声は異様に過ぎた。
「……違う…、──じゃない…、──は、…違う… 」
呟きを溢す男の声。
「…ひっ……ぅぅ」
その合間に短く震える女の呼吸が重なる。
繰り返されるそれは、引き攣るように不規則だ。
「…どこに…彼女は………違う…違う…」
「……や、め………っ…」
「…違う……違う…違う、違う、ちがう──…」
「いっ…!い、たぃ、ぃ……っ!」
其処に籠められる力は尋常なものではないのだろう。
女の呼吸が呻き声となり、男の背に赤黒い赫子の瘤が膨れてゆく。
丈は即座に入り口から離れた。
クインケケースの留め金を指で弾く。
カチリと音が鳴った。
小さな音だ。しかし呻く女と襲う男、二人しかいないはずの室内に確実に響いた。
女の悲鳴が止んで啜り泣きと息遣いに変わる。
男が立ち上がる気配がした。
一歩、二歩、靴音が入り口に近づく。
丈が身を潜めるリビングへ、ゆっくりと影が落ち、薄闇に男の輪郭が現れた瞬間。
メタリックグレーのクインケケースが男の即頭部を捉え、鈍い手応えと音を丈に伝える。
「が──ッ…!!?」
ケースを振り抜くと同時に開き、丈はクインケを手に納める。鋭く、外に待機している琥珀を呼ぶ。
「琥珀──!」
「──っ!! 」
潰れた右眼から血を流し、残った赤黒い左眼に憎しみを宿して丈を睨む。
太刀の如く分厚い赫子を大きく横薙ぎに振るう。
丈は受け流しつつ斜め後方へと下がった。
男の背後で玄関が開き、廊下に踏み込んだ琥珀の瞳が男を確認。
赫子を広げて鋭く棘を放つ。
「ぐっ──!」
狙いは全て突き刺さり、男の背から腹へ、あるいは肩、太腿を貫通した。
男の注意が逸れた瞬間に、丈も下から斬り上げる。
「ゥアアァッ──…!!」
横腹を中心近くまで深く割かれて男はよろめく。
大量の血をフローリングに撒き散らしながら、不安定に足を踏み出す。
しかし向かう先にいるのは、致命傷を与えた丈ではなく琥珀だ。
「琥珀──」
「……っ、」
傷の程度は男の治癒力を越えた。
肉体はもう再生することも儘ならず、状態は明白だ。
それでも身体を引き摺って琥珀に近づこうとする。
「──ぁ、…あ、……」
身体を血に染めた男の手が伸びる。
丈は動こうとしたが、琥珀が視線で伝えた。
死に際だというのに琥珀へ近づこうとする動きは、何かに執着する強い意思を感じる。
「は…っ……ぁ、う、ぅぅぅ………っ、」
伸ばされた男の指は何かを掴んでいた。
銀色に光るリングだ。
「──…、──…」
「…?」
伸ばされた手が琥珀に届くことはなく、男は崩れ落ちるように倒れた。
短く微かな呼吸が一度、二度。そして途切れる。
力の抜けた手の中からリングが落ちて琥珀の足元に転がった。
拾い上げた内側には刻印がされている。
数ヵ月前の日付と、男の名前だろうか。
そして──


警戒灯が闇夜に明滅する。
CCGからやって来た数台の車両がマンション前に停車している。
被害女性を乗せた救急車がゆっくりと発車していく様子を、琥珀の瞳が追いかけた。
「被害者は腕を強く掴まれたそうですが様子を見た限り、骨にも異常は無さそうです」
捜査官や鑑識の者たちの間を縫ってやって来た宇井が、丈と琥珀に告げる。
この後、精密検査と聴取も行われるのだろう。
「お前の班が追いかけていた喰種か」
「みたいですね…。まさか身内が遭遇するとは思いませんでした」
夜中の呼び出しなどあまり楽しいものではない。
しかし担当事件の容疑者駆逐の一報であれば、眠気も覚めるというものだ。
「現時点での手がかりは被害女性の証言と赫子のタイプですが……恐らく同一と見て間違いないでしょう」
現場となった室内の確認は富良と班員が行っている。
交わされる言葉を、琥珀はどこか遠い話のように聞いていた。
丈と琥珀は被害者として扱われている。
怪我もないため救急車ではなく局の移送車の後部に座らされ、肩に毛布を掛けられた。
夜風はぬるい。
しかし指先は冷えたままだ。
暗い廊下で喰種の手から落ちた指輪を思い出す。
男の指には小さすぎる指輪の、内側に彫られていた日付けと名前。
死に際の男は、うわごとのようにその名を呟いていた。
「喰種は…死んだパートナーを探していたんでしょうか」
無意識に自身の左手を擦る琥珀へ、宇井も視線を向ける。
「指輪の刻印には気になることがあります。別の班の記録ですが…。確か近隣区域の捜査中に、男女二人組の喰種を発見し、女は駆逐。男は逃走したと」
「………」
「ただの偶然かもしれませんが…もしかしたら──」
「郡──」
躊躇いながらも情報の断片を繋ぎ合わせていく宇井を、丈がやんわりと遮る。
「続きは明日、時間を取ろう」
「──…、そうですね…」
宇井は丈に「お疲れ様です」と目礼をし、琥珀にも視線を遣って、捜査の輪の中へと戻っていく。
深夜とはいえ住民も騒ぎに起き出してきたようだ。
部屋の窓の明りが少しずつ増え、ベランダへ出て見おろす者もいる。
局員が戻ってきたら丈と琥珀も部屋に帰れるはずだが、残念ながらその気配はまだない。
琥珀は口を閉ざしたままで、やや離れた場所のコンクリートを見ている。
「…落ち込んでいるのか」
同じ場所へ目を向けながら丈が訊ねると、琥珀の身体が視界の隅でぴくりと揺れる。
死んだ喰種が求めていたものは宇井の言う通り、先に死んだ恋人だったのかもしれない。
死を受け止められずに心は壊れ、指輪を嵌めるべき指を──その人を、ずっと探していたのだろうか。
「……少し、息が苦しくなっちゃった…」
「………」
「…それだけ…」
ぽつり、言葉は空気となる。
忙しなく動く捜査官や、静かに光り続ける灯の中で、肩を落とす琥珀だけが立ち消えてしまいそうに頼りない。
「……喰種は…幸せには──」
琥珀の呟きは辺りの音に紛れた。
あの指輪の意味は、恋人か、家族か。…それともこれから家族になろうとしていたのか。
本人でなければわからない。
「………」
丈は手を伸ばし、毛布を握る琥珀の手に重ねた。
身体がまたぴくりと揺れる。
言葉は無いものの、琥珀の視線はコンクリートから離れた。落ち着かない様子で周りを窺う。
誰かに何かを言われはしないか。
心配をしているようだったが、丈は動かなかった。
「………。みんな、お仕事してるよ……」
包み込んだ冷たい手に温度が伝わるのを感じる。
「俺たちは非番だ」
「──…」
少しして、琥珀の指が、丈の指におずおずと絡まる。
「……。からかわれちゃいますよー………平子上等…」
黄白色の街灯と赤色の警告灯の光に彩られて、丈に告げる琥珀の横顔。
困ったようにも、微笑んでいるようにも見えた。
「…それも悪くない」
琥珀は喰種だが、喰種の世界を知らない。
人間に紛れて生きてきたが、結局は喰種だ。人間にはなれない。
人間と喰種の狭間で、どちらの世界をも目にし、その空気に触れる琥珀は、時折どちらからも一番遠い場所にいるような顔をする。
だからこそ、丈は琥珀の手を掴まえる。
「あ…」
ふと漏らした琥珀の声に丈が顔をあげると、マンションから局員が引き上げてくる姿が見えた。
遠目であるために、二人の様子に気がついた者はあまりいない。
しかしその内の二人ばかりと目が合った。
意味深な笑みを浮かべる富良と呆れ顔の宇井だ。
丈と琥珀は、もれなく知らないふりをした。


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