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「#幼馴染」のBL小説を読む
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(5)end.

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夢を、見ていたような気がする──。
目が覚めたらやっぱりひとりぼっちで。
けれど手首に残る赤い痕が、そうではなかったと囁いた。


とても、とても久しぶりに思考が晴れ渡っていた。
ベッドの淵に体をずらし、琥珀は冷たい床に両足をつけてゆっくりと身体を持ち上げる。
少しだけ、身体が軽いような気がした。
少しだけ、…いや、結構お腹も空いているようだった。
ぺたぺたと歩いて部屋のドアに手をかける。スライド式のドアは簡単に滑った。
誰もいない廊下。
白い、とばかり認識していた建物内には思ったよりも色があった。
病室扉の空色、案内板の銀色、階段の手すりは黒に近い深緑色。
廊下に窓が一つも見当たらないのはここが地下の階だかららしい。
ぺた、ぺた、と。
階段を上がって、灰色で"F1"と書かれた壁を見上げる。
くん、と呼吸をした折に、琥珀の鼻に外の空気が感じられた。この建物のロビーはすぐ近くだろうか。
窓のある明るい廊下を歩き、視界が開ける。
ビュッ…
「?」
不意に、腹に衝撃を受けて琥珀はよろめいた。
続いて脳天まで奔る感覚。
「ぁ、……っ、──っぁ"ッッッ!!!!!」
痛みなのか熱なのか、脳天を、思考を、すべてを赤く埋め尽くすそれが、理解と理性を越えそうになる。
限界まで開いた琥珀の瞳が、意思も感情も無視して周囲の光景を機械的に映して脳に送る。
紺色の人垣、有馬、クインケ、観葉植物は緑、ソファー、蛍光灯、青灰色の絨毯、私のひざ、赤いおなか──まあるい、あな、その、向こ、う、が──
「ぅっ、ぅぐ、ぅ…ぅ……っ」
床に膝を着いた琥珀は、開いた口と、開いた腹の穴から垂れる血を見た。
痛みで涙が溢れる左目、燃えるように熱い右目。
──考えてハ駄目。
──理解シテハ駄目。
──ここデ赫子ヲ解放シテハ駄目。
ダッテここニは、
「(丈、兄…)」
有馬の後ろに控える、彼がいた──


階段を上り、ロビーへ姿を現した琥珀の腹を有馬のクインケが撃ち抜いた。
クインケから変換された電磁熱による一撃は、容易に検査服と肉と骨を焼失させた。円形に腹から背中までを失った琥珀が、床に膝を着く。
項垂れるように頭が下がっているため、表情は見えない。
各々の装備を手に散開する捜査官。
その足音と衣擦れと、琥珀の荒い息遣いがロビーに響く。
憐れなその姿に丈の思考は瞬時に煮えた。
激情の震えを抑えるために拳を握ったのか、余りにも強く握った故に震えているのか──いや、そんなことはどちらでもよかった。
「…ここまでする必要が──」
「あるからやっている。タケ、下がれ」
体温を感じさせない声色で有馬が丈を制す。
有馬の視線も、丈の視線も、琥珀から一時も離れない。
有馬は静かに琥珀を観察している。
丈は堪えてはいたが、全身からは怒気が滲む。
二人の視線の交わる場所、琥珀は今もゼェハァと苦しげな呼吸を繰り返していた。
点滴を外されて飢餓状態となっているため、肉体の再生は殆ど行われていない。
赫子の羽根が広がりそうになっては、ぱらぱらと崩れて床に落ち、尻尾は蛇の如く不規則で不自然な緩急で這い、うねる。
不意に、ゴボッ、と黒い血の塊を吐く。
口許を押さえた指の合間から、掬いきれず、びちゃりと落ちた。
赫子がのたうつ。
最早見境など無かった。
既に形すら保てていない赫子は、己の流した血液すら餌として認識したらしく、僅かでも糧を得ようと琥珀の前の溜まりを啜った。
「有馬さんもう十分では──」
「まだだ」
丈の硬く急いた声を、有馬は平淡な一言で制す。
周囲を固める武装した捜査官が、琥珀との距離を詰めた。有馬の合図があればすぐにでも攻撃を仕掛けられる間合いとなる。
逆に言えば、琥珀からの攻撃もそうであった。
己の血液よりも好みであろう匂いを嗅ぎつけた赫子が、ぴくりと反応する。
形を崩して動物の血管のように、植物の根のように、青灰色の絨毯の上を脈打って細く広がり始める。
捜査官らの全身に緊張が走る。
よせ、と。
丈が前へ踏み出そうとした。しかし、
「──、め…」
琥珀から発した濁った音が、全ての者達の進行を縫い止める。
静寂と緊張で満たされるロビーに、赫子が引いてゆく微かな潮騒にも似た音が過る。
再び血を吐いた。
「…わた、っ………ころ、…さ、れ………、…?」
言葉の他にも、多くの思いがあるだろう。
けれど今、琥珀が声として形作れるのはこれが精一杯だった。
顔も、視線も、向けようとすること自体がとても苦痛だった。
──なぜあの夜殺さなかったの?
──どうして今になって殺すの?
──助かる道が無いのなら、なぜ?どうして?どうして。
けれど、もう。
「…どっちで、も…、いっか──…」
言葉を呟いたつもりだったが、きっと声にはなっていなかっただろう。
「も──…、いい──…」
琥珀から、自然と微笑みが零れた。
「(わたし、どうして、わらってるんだろう…)」
写真を撮る時に、ピースとか、チーズとか、声を掛けるのは。
母音の"い"を口にすると自然と笑みが浮かぶからだそうだ。
どうして今、こんなこと。
「(やだ、…そうまとう、って、いうの、かな…?)」
そういえば、丈とは写真をあまり撮らなかったな、などと脈絡もなく琥珀の頭に浮かぶ。
記憶の欠片が零れ出して戻らない。
友達なんかとは学校の行事や遊びに言った先で、はしゃいでたくさん撮ったけれど。
幼馴染みでは近すぎて。
一緒にいることが自然で。
「(ああ……でももう、おさななじみよりも、ちかづけ、たんだ)」
飢餓ゆえに再生が行われずに残っていた、手首の赤い痕が幸せだった。
再び、色と形を判別できなくなった視界では、それも見ることができなくて。
すぐそこに丈も居るというのに、もう見えない。
琥珀はとても残念に思った。
「(丈兄、)」
ああ、たけにい、って、

"い" の おと だ ── 、

丈を呼ぶ時、琥珀はいつだって幸せなのだ。


するすると琥珀へ戻る赫子の動きが停止し、戻りきれずに塵となる。
ざらついた呼吸音が静になり、床に俯いて座ったままの琥珀は動かない。
そうだな…。と有馬が頷く。
「十分だ」
有馬の言葉と丈が足を踏み出したのは、果たしてどちらが先だったか。
駆け寄ったからといって、丈が琥珀にできることなど何もなく、この一週間で琥珀の──"喰種"の扱いに馴れた医療スタッフが行う処置を眺めるのが精々。
これから暫くは、再び治療室のガラス越しの日々に逆戻りとなる。
強く握り、締め過ぎた丈の手の中からは血が滲み、ぽたりと落ちて絨毯を汚した。
けれどそれを欲する喰種は、ここにはいない。


「追い詰められた時。生死に直面した時に、"あれ"が取る行動を確認する必要があった。
"あれ"が捜査官となったとして。
それまで背中を会わせて戦っていたのに、赫子を保つ力が尽きたからといって喰われる危険があったんじゃ、いくら上位の捜査官でもたまったものではないから。
ギリギリまで追い込んで、試す必要があった」
これは実験の一つだから。
この結果が彼女の全てを保証するわけじゃないけど。
あとは上の判断だ、と、喰種対策課のオフィスに戻ってきた有馬は言う。
「タケ、怒ってるね」
「………怒りがないと言えば嘘になります。ただ…喰種に…捜査官の身分を与えるのは異例です。出来得る限りの想定と対策を行うのは、仕方のないことでしょう」
うん。と有馬が頷く。
「やっぱり、とても怒っているな」
「…………。苛立っています」
当たり前でしょう、と、こちらはやや抑えた声色ではあったが、やはり刺々しい。
丈の珍しい様子に有馬は少しだけ目許を緩めた。
この慇懃な部下が、ここまで怒りを露にするとは。
むしろ有馬でなければ、あの時間をよく最後まで堪え切ったと、丈への賞賛が出るところだろう。
あの喰種の少女が、彼のどれ程大切な存在なのかということが、如何に鈍い人間だろうと分かる。
自分にはこんなに執着できるものがあるだろうかと、有馬は考えて、すぐに諦めた。
遺書の一つも満足に完成させられない自分には持ち得ないものだ。
すでに有馬の頭の中では午後から仕事の流れが組み立てられてゆく。
予想外に琥珀の抵抗もなく、負傷者も出さず、予定よりも早く事が済んだのは僥倖だ。──何せ、抵抗あるいは暴走するようならば処分と指示をされていた。
思考の途中で、デスクを挟んで目の前に立つ丈が口を開いた。
暫くの間、局の仮眠室を借りたい、と。
特に断る理由もなく、有馬も好きにしたらいいと答えた。
丈は礼と、一礼をして退室する。
ギシ、と椅子の背もたれが鳴る。
デスクの抽斗の一番上に収まる調査表。
"君塚 琥珀"
顔写真と経歴。
Sレート"喰種"ナイトメアの調査報告。
今後の管理について──…。
有馬は抽斗から纏められた書類を取り出すと、処理済みのトレーに放り、次の案件を手に取った。


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