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(4)

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明かり取りの窓が一つに、ベッドのみ置かれた部屋だ。照明は絞られていて薄暗い。
眠りから目を覚ました琥珀は、背中と腹部を暖める温度に気がついた。
椅子の背もたれにしては凹凸がある。いや、椅子ではなくベッドに座った状態で身を預けているのだ。
「(何に…?)」
寄り掛かる壁に手を当てて離れようとすると、不意にその手を掴まれる。
「寝過ぎだ…お前は」
降ってきた声も、琥珀を掴む手も、睡眠と覚醒の狭間で何度期待しただろう。
「ど…して──…、ど………」
その先の言葉が出てこない。
一言言葉を掛けたきり、人には表情の変化がないと言われる眼差しで、抱き抱えた琥珀を見下ろすのは、たった一人の幼馴染み。
ただその目が今は、感情が薄いながらも、どこか愛おしげな気配が宿っている気がした。
それもこれが琥珀の夢であり、願望の表れだからだろうか。
「…夢…でも、いい…」
「夢に、見えるか?」
「…幻でも、構わないの…」
「…ちゃんと現実だ」
「……もう、…っ、会えないって…思ってた……っ」
琥珀の目の奥はどうしようもなく熱くなり、喉が乾いてひりひり痛んだ。
会えないと思ったからこそ、喰種である自分もこれ以上見られないで済むと思った。
あの夜、マスクが最後まで保って良かったと、倒れる前に目にした丈の顔が、自分に失望し嫌悪する表情じゃなくて良かったと、安堵した。
人間として、妹のように接してもらった幸福な記憶だけを持っていけると思ったのに。
「お前がなかなか帰ってこないから心配した」
心配したなんて言わないで──。
もう決して訪れることのない日常を思うと、心が潰れて、壊れてしまう。
「もう…帰れない、」
全部が、溢れてしまう。
「…わたし、も……っ、ふぇ……」
涙で満たされた視界の向こうに丈がいる。
丈の鼓動が耳を打つ。
触れている場所のすべてから、丈の体温を感じる。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ、っ、うぅ…ぅ……ごめ、なさ、っ…」
「いい、琥珀」
「っ、…ぇっ…ごっ……な…さ、…っ、っ」
「謝らなくていい」
震えながら、ごめんなさい、と繰り返す琥珀を丈は強く抱き締めた。
「…っ………、ぅ……ぅっ…」
琥珀は頭を振って丈の胸を押し返そうとする。力の入らない指が、服の上を滑って落ちる。
「…離、……して…っ…」
「……駄目だ」
触れられる事を強く拒絶する琥珀の指。尚も抵抗して、弱々しく丈のスーツを引っ掻いた。
無駄だというのに諦めない、逃れようとする細い手を丈の手が再び捕まえる。
「わた、っ、私………ずっと、騙してた、…っ、……丈兄のこと…っ、」
丈から逃げられないと分かっても、せめてその視線からはと下を向く。
「気持ち…悪いでしょ…」
絞り出す声が静寂に響く。
「…怖いでしょ……っ、」
嗚咽と共に言葉が吐き出され、幾つもの大粒の涙が二人の間に落ちる。
「喰種なの………っ」
伝えたくなかった。
「わたしっ……人間じゃ、ないの…っ」
見られたくなかった。
憎まれる存在だから。
喰種として認識された自分に向けられる、恐怖の、憎悪の、嫌悪の、どの目に堪える自信もなかった。
消えて無くなってしまいたい。
望みが叶わないことを知りながらも、琥珀は身を縮める。
弱々しく藻掻く身体を受け止めながら丈は、この子供のように泣きじゃくる琥珀の、どこが恐ろしい存在なのだと思った。
「あの時も…泣いていたな」
あの夜、ぼろぼろの姿で倒れた琥珀。赫子のマスクが塵と消えて現れた顔は、埃で煤け、血と涙で濡れていた。
「何年お前と一緒にいたと思ってる」
丈が幼い頃から妹のように想ってきた琥珀は、喰種を逃がすために戦ったのだという。
他人を傷つけることを嫌う、この琥珀を──
「琥珀。俺が、お前を怖いと思ったことなんて一度もない」
これからも。
額を合わせて、涙でぐちゃぐちゃに濡れた頬を拭けば、琥珀の視線と交わった。
俯く顔を両の手のひらで包んで口づける。
琥珀の唇にゆっくりと重ね、角度を変えて優しく食む。
「…ん、…ぅ…」
琥珀の唇から吐息が漏れる。
それすらも逃すまいと舌を挿し入れたところで、琥珀が苦しげに丈の胸を叩いた。
丈は舌を抜きつつ、ついでにぺろりと琥珀の唇を舐めて離れる。
それでも物足りないと見下ろすと、琥珀は涙目のまま真っ赤になって唇を噛んだ。
「…こんな……こんな、突然ずるい…」
「突然じゃなければ良いのか」
「そ、そういう意味じゃ──」
ない、と慌てる琥珀に丈は再び口づける。
今度は琥珀も苦しくないように、浅く、繰り返して感触を楽しむ。
唇で涙の跡をなぞり、目元にキスをし、その動きを追いかけて自然と上を向いた琥珀を迎える。
涙が止まり、琥珀が丈の仕草におずおずと応えられるようになった頃、ようやく丈は琥珀を解放した。
体の奥が甘く疼く。
火照った頬を手のひらで押さえた琥珀が、上目遣いに丈を見る。
「…キス、なんて………。私…丈兄を食べちゃうかもしれないんだよ…?」
丈は琥珀の背に回していた左腕をゆっくりと腰に移動させる。右手で、頬を隠す琥珀の手を取ると、その手首に口づけを落として赤い痕をつける。
食べてしまいたいのはこちらだというのに。
「キス以上の事をしたい。…今だって必死に我慢している」
廊下の警備は邪魔だなと、真顔でとんでもないことを言い放つ。
琥珀は一瞬、丈の言葉を理解できず、それから一気にその意味が込み上げてきて、丈の胸に頭を押し付けた。
少し寝ていた間に丈に何が起こったのだろう。こんなにもアグレッシブな性格だったっけ、と。
「琥珀」
「……っ…!」
頭の上から名前を呼ばれたが、頭を押し付けたまま、ぶんぶんと強く振る。
恥ずかしくて顔を上げられない。
「………」
しばらくはこちらを向いてもらえそうにない。
悟った丈は、赤い耳の見え隠れする髪を黙って梳いた。
さらさらと指から逃れていく。
琥珀の体温を感じながら思う。
琥珀こそ、怖くはなかったのだろうか。喰種を殺す自分を。
CCGなど喰種の天敵でしかないのだ。傍にいて良いことなどあるはずがない。
「(まあ…俺は有馬さんのように無駄に鋭くはないからな)」
捜査官として、あまり脅威と思われていなかっただけかもしれないが…。
琥珀が丈と離れる機会はいつでもあった。丈が捜査官となった時、アカデミーに入った時、それよりも前にも。
幼馴染みなどという関係を捨てて、いつだって離れられただろうに。
髪を掬って、まだ赤く染まったままの耳にかけてやる。
同じように赤い顔をした琥珀。やっと、遠慮がちに丈へと向けられた。
自惚れても、いいのか?
「琥珀」
「…なに?」
「好きだ。昔から、ずっと。……お前を離したくない」
琥珀の瞳が驚く。
柔らかい頬に、泣き腫らしたその目許に、丈は手のひらを添える。
自分を兄のように慕い、いつだって名前を呼べば、花のように笑う琥珀を、ずっと愛しく思っていた。あぁ、もっと早く、
「もっと早くこうしていれば…お前を──」
守ってやれたかもしれない。
続けようとした丈の言葉は、しかし、琥珀からのキスで遮られた。
それは唇を沿わせるだけの、恐る恐る触れたような微かな口づけだった。
琥珀が静かに微笑む。
「…私も、丈兄が好き」
かすれた声が耳を打つ。
でも、と。
「その先は、言っちゃ駄目」
「琥珀──」
「丈兄は捜査官なんだから。……これ以上私に優しくしたら、怒られちゃう」
大きな瞳が水をたたえる。
「私ね、今、幸せだよ。…とっても…幸せ…。だって──」
──好きな人に、抱き締めてもらったんだもん──
ぽろぽろと涙を零して泣き笑いを浮かべる琥珀は、離したらその途端に、夜の空気に溶けて消えてしまいそうだった。
丈は、一欠片たりとも何処へも逃さないように、琥珀を腕の中に閉じ込めた。
月明かりの落ちる病室を、静寂が積もり、満たしていく。


(丈兄、私ね……捜査官に、なろうと思う。
家族のこともあるけど。
一番の理由はね……
私、丈兄の傍に居たい)

(琥珀……俺は、お前に生きてほしい。
……お前の手を血で汚すことになる。
これは俺の勝手な願いだ。
それでも……
俺はお前を、二度と失いたくない)


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