貴方と為らば
.
聞いたか
なにを?
"黒い子供たち"
ただのうわさ…でしょう?
…
会話の続きは不自然に途切れた。
洗濯の終わった衣類を持って丈の部屋に戻ってきた琥珀は、それらをたたむ手を止めた。
床に置かれたままの鞄。
クローゼットに掛かる少ない衣類。
文机に並ぶ日用品。
私物はあるものの殺風景なものだ。
たとえるなら、出張か、旅行か。
ベッドに座ったまま、ゆるりと視線を廻らせる。
生活感の希薄なこの部屋に、自分たちは結局どれほどの日々を暮らしたのだろう。
「他区の拠点が襲撃された」
丈の言葉が静かに空気を震わせる。
「…ここも安全とは言えない。俺たちも部屋へ移る」
"部屋"とは前々から管理していた場所のことだ。
有馬と丈が計画を立てた頃から…0番隊の拠点として使えるようにと用意しておいた。
「…お店のみんなは…?」
反応のように口からこぼれた声は膜がかかったように遠い。
どこかまだ、事実として自分に馴染んでいないのだろう。
「8区のアジトに移ると」
8区のアジト、と。
聞いた言葉をぽつりと呟いてみた。
そうしてやっと頭の中に現実が染み渡っていく。
互いに取り合える連絡も最低限になるだろう。
落ち着ける見通しが付くまでは、今よりも更に身を潜めることになるだろう。
「…そう…」
落ち着けるかどうかも、確証はない。
「暫くは様子を見ることになる」
「……うん」
"黒山羊"と"ピエロマスク"の衝突の後、CCGは、"隻眼の王"を名乗っていた佐々木琲世の捕縛、及び処分を行ったこと公表した。
その頃から"彼ら"のうわさを聞くようになった。
喰種を殺して回る"黒い子供たち"。
喰種捜査官に混じって、あるいは、彼らだけで行動を取る。
CCGの新たな手札である彼らの特徴は、黒い制服を着た"子供"であること。
「襲撃された拠点への捜査の手は及んでいなかったはずだ…」
そして鼻が利きすぎるということ。
「……」
普通の捜査官と違って、外見だけの誤魔化しは効かない。喰種にとって接近すること自体が危険に繋がる。
ベッドに座る琥珀の前に、丈が立つ。
手を止めていた琥珀から服を取り上げた。
まだ、たたみ終わっていないのに──。
柔らかな布地が指から離れてゆき、つられるように琥珀は瞳を向けた。
静かな声が降ってくる。
「お前も仕度をするんだ」
「………」
このまま黙していたら丈は琥珀の手も取るだろうか。
それとも琥珀を置いて自身の仕度をはじめるだろうか。
「タケさーん、準備できたよー」
ドアが開いて士皇が顔を出した。
上着を羽織ってリュックを肩に引っ掛けている。
手にはクインケケースを入れた大きなバッグも下げて。
武器を納めるそのケースは、子供が持つには不釣り合いな外見をしているから。
「理界と夕乍と、下で待て」
「はぁーい」
まるで遊びにでも出掛けるような返事をして士皇の姿が引く。
開け放されたままのドアから廊下の冷気が流れ込む。
混ざりゆく空気は、この部屋がすでに外の世界と同じ温度なのだと伝えるようだ。
他区の拠点が襲撃された例はこれまでに無かった。
彼らは喰種の気配に敏い。
匂いの残るこの店もじきに見つけるだろう。
「私も…お店のみんなと──」
琥珀がドアから視線を戻すと、丈の手によって簡単に折られたシャツが目に入る。
上手く纏まらないな、と丈が呟いた。
琥珀はくすりと笑うと左右の手のひらを見せて、もう一度シャツを引き取った。
膝の上いっぱいに広げて皺を伸ばす。
裾までを丁寧に整えてから折ってゆく。
仮初めでも穏やかな日々。その余韻を、ひとつひとつたたんでいく。
そんな行為のように思えた。
「──お前の仕度が整ったら」
襟を整えていた指が止まる。
「五人でここを出る。いいな、琥珀」
シャツを両手に乗せたまま瞳をあげると、くしゃりと頭を撫でられた。
隊の子供たちと一緒にいる時間が増えたせいだろうか。最近の丈は琥珀の頭もよく撫でる。
「…隊にはお前が必要だ」
琥珀は目許をほころばせる。
少し子供の扱いに戻されてしまった気もするけれど。
仮初めの平穏でも、先の見えない日々でも、誰かの視線を気にすることなく互いに触れることのできる、この時こそが幸福だ。
「…それから……」
口ごもった丈に琥珀は首を傾げる。
「丈さん、それから?」
「………なんでもない」
「………」
「………」
必要なのは隊にだけ?と。
琥珀がしつこく訊ねると、ぺちっとおでこを弾かれた。
住居との離別は経験してきた。
今が昔と違うのは、こんなにも静かに、密やかに居場所を追われるということ。
静かで密やかでありながらも、丈の手が確かに琥珀と繋がっているということ。
180208
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