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明烏

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黒い体液。
治癒しかけた傷口から、まだ時折に滲む。
血とは異なるそれを、滲むたびにタオルで拭き取り、タオルが黒く染まりきると屑籠へ。
屑籠が一杯になると、中身を棄てに部屋を出る──。
黒く汚れたタオルを誰かに見られたくなくて、外へ出る時間帯は自然と真夜中に落ち着いた。
仲間たちとは合流したその日以来、ほとんど顔を合わせていない。
…やつれた顔を見せたくない。
「(あと何度、棄てに行けば…)」
陽の下で会えるのだろう。
懐かしい彼らに。
毎日、同じ時間にドアの外から声がした。
今は「:re」の店長になった彼女の声だ。
直接顔を会わせていないせいか、以前よりも優しいような気がした。
黒髪の、肩肘を張っていた昔の姿が浮かんだ。
その次に、髪を染めて、見知らぬ客となった琲世をもてなしてくれた今の姿が目蓋に浮かぶ。
「(トーカちゃんや……、四方さんは…どんな目で僕を見るだろう)」
…みんなに心配をかけたくない。
そもそも、今こうして食事とタオルだけを求めること自体が身体の不調を伝えるようなものだ。
けれど彼らは何も言わない。
自分を思ってくれているからこそ、何も言わずにいてくれる。
「(せめて…頻度が減ったら……ちゃんと言おう…)」
もう大丈夫だよと。
姿を見せて、自分の口で伝えようと部屋の暗闇に願う。
寝起きする室内の、唯一の光源としているスタンドを消して、カネキはベッドから立ち上がった。
時計の針は深夜の3時を回った。
この時間なら誰にも見咎められずにゴミを棄てられる。
薄いビニール製の袋が…、
「(音を、立てないように──…)」
それだけを気にして暗い廊下に足を踏み出す。
闇に浮かぶ廊下の輪郭と、並ぶドアを見分けながら階段へ向かう。
喰種の眼は人間よりも夜目も利くのだろうか。
昔よりも視えるように思うのは、自分の気のせいだろうか。
視界からの情報が少ないせいで思考ばかりがよく回る。自分はいつから夜の闇を怖れなくなったのだろうと。
自分も、ほとんどの子供がそうであるように、暗闇を怖がっていた。幼い頃の話だけれど。…そして今は違うものを怖れている。
手元の袋が壁にぶつかった。
「……っ…」
考え事。
鈍った身体。
不注意で立ててしまった音に苛立つ。
暗闇よりも、この姿を見られることのほうが今は──
「──カネキ君?」
背後からかけられた声はカネキの闇に温度を宿した。
全身が剥き出しの心臓になったように鼓動を感じているのに、しかし身体はぴくりとも動かなかった。
怖いからだ。
この袋。
顔や手に残ってはいないだろうか?
黒い汚れが。
それを見られたくないから。
自分を呼んだのは女性の声だった。カネキ君、と。その呼び方も、おっとりとした声色からもトーカではない。多少の違和感を覚えるが…これは、
「(琥珀さん──?)」
彼女は上階から降りてきたらしい。自分の後ろ、やや高い位置から降ってきた声。いつまでも答えず振り向きもしないのは不自然だ。袋を隠す場所もない。でも彼女にもきっと視えているのだろう。
どうやって…誤魔化したら──
階段を、一段降りる足音がした。
「…私も下へ行くところなの。明かりは──…点けなくても平気ね?」
カネキの横を降りながら琥珀の密やかな声が、行こう、と誘う。
「…ぁ……」
伴立つわけでもないのに置いていかれるように感じてしまい、カネキはつい、琥珀の背中を追って階段を降りた。
地下へ降りながら、どちらも無言だった。
到着したのは地下倉庫のダストボックス。
蓋を開けて押さえる琥珀に促されて、カネキは持ってきた袋を中へと押し込む。
夜中に棄てていることを…この様子では、彼女も知っていたのだろう。
ぎくしゃくとゴミを押していると、琥珀の腕が伸びて手伝う。
琥珀さん、と口を開きかけて飲み込んだ。
その横顔は目的を果たすために真剣だった。
袋を更に奥深くへ沈めようと奮闘し、小柄な身体がダストボックスに入ってしまわないかとカネキは心配になった。
そのうちに、他のゴミ袋も持ち上げて重ねて、袋はすっかり隠れてしまった。
琥珀の身体を引っ張るように起こし、ダストボックスの蓋も閉めると、どちらともなく息を吐く。
タイミングが合ってしまいカネキが視線を向けると、それもまた、ぴたりと合った。
声を出さないで琥珀がくすりと笑った。
悪戯を成功させた共犯者のような、小さな高揚感がカネキの胸に灯る。
冷ややかな恐怖はもうなかった。

「──夜のね、散歩をしていたの」
倉庫のドアを、手を当てながら静かに閉めて琥珀は言った。
廊下は相変わらず暗く、しかしどちらも灯りのスイッチには手を伸ばさないまま階段を上りはじめる。
「色々あったから、頭の整理と……ちょっとだけ、息抜きしたくなって」
コツ、コツ、と。
琥珀のゆっくりとした歩調にカネキも合わせる。
気掛かりのものを棄てられたせいか、それとも身を潜めねばという意識を止めたせいか、身体も軽くなったような気がした。
「平子さんにも言ってないんですか?」
「うん。……。言わないと、やっぱりだめかな…?」
「あ…、ええと……」
逆に聞き返されて言葉に詰まる。
真夜中の、それも女性の一人歩きなんて心配するに決まっている。
けれど今の自分の状態を振り返ると、人に何かを言える立場でもない。
カネキが黙っていると琥珀の苦笑が落ちてきた。
「やっぱり、危ないよね。……うん…」
自分で自分に言い聞かせるように、ゆったりと言葉を噛みしめる。
「夜の散歩は…昔もしてたんだけど。不用心だものね」
「そうですね。特に、今は…」
「うん。だから、これからはもっと回数を減らすようにするわ」
「あ、はい…。(減らすだけなのか…)」
きりりと心を入れ換えたようで、実はあまり変わらない琥珀の決心にカネキの肩が落ちる。
散歩を止めるという選択肢はないらしい。けれど、自分だって同じようなものだ。
ひとに言えないことも、言いたくないことも、独りになりたい時も…頼れないことも。誰にだってある。
「だからね、カネキ君──」
琥珀の歩みが止まって振り返る。
「このことは…丈さんにはどうか秘密にしておいてください」
お願いしますっ、と手を合わせた。
「えっ、そんな……。大丈夫ですよ、僕は…言いつけたりしませんから」
拝む琥珀にカネキは慌てて手を振る。
「本当に…?」
「本当に。…でも平子さんにばれると、そんなに困るんですか?」
今度は琥珀が聞き返されて、もじもじと決まりの悪い顔になる。
「えっと…丈さんは、その……意外と心配性だからって…前に言われたことがあって」
言いにくそうに、しかし自分の主張も引けないために困り顔で眉を寄せた。
「丈さんに……じーって…無言で…怒られちゃいそうだから…」
「………」
叱られる姿を想像したのか、琥珀は言い終わるにつれて声も小さく、しゅんとなった。
二人は幼馴染みだと聞いている。兄妹に似た彼らの関係は、今も刷り込みのように意識にあるのだろう。
琥珀にも子供みたいな面があるんだなと思い、カネキは笑いを零す。
「琥珀さんも、平子さんには弱いんですね……あ…」
先ほど覚えた違和感を、ふっと思い出して言葉が途切れる。
「?」
以前の琥珀は丈のことを平子上等と…または兄と呼んでいたはずだ。
自分のことも、カネキではなく琲世、と。
今、自分たちが立っているのは局ではなく、シャトーでもない。
真夜中の闇に満たされた階段。
あたたかな記憶の日々が泡のように消えていく。
「ひとつ、聞いてもいいですか…」
無意識に腕を触っていた。
斬り落とされて、繋げた腕の境い目。
「琥珀さんが…僕のことを"カネキ"って呼ぶのは……平子さんが僕をそう呼ぶから、ですか…?」
今ここで、琥珀にそれを聞いたところで何が戻るわけでもない。
"佐々木琲世"は捨ててしまった。もう誰も認識しないだろう。レート付きの喰種として追われ、書面に掲げられる以外には。
自分は"カネキケン"という喰種。
人間であった"金木研"も抹消された。そう、
「(僕は"カネキケン"…、それがあるじゃないか──)」
本当にそう思う──?
頭の隅に、ささくれを引っ張るような不快感。
"カネキ"は本当に、みんなに迎えてもらえるだろうか。
見下ろす両腕は黒ずんで肌の色をしていない。
周囲の暗闇に同化したように輪郭だってあやふやだ。
腕どころか、自分のすべてが闇に浸食されていくような覚束無さに囚われる。
今、手を掛けている手摺りの感触も、足を置く床も。
視ている琥珀の姿も、その周りの暗がりも。
果たして本物?
本当に…この世界に存在している?
この真っ暗な世界に、本当に自分を迎えてくれる彼らはいるのだろうか──…?
ふらふらと眩暈のように身体が揺れる。
傾いてしまう前に、琥珀の手がカネキの腕を強く支えた。
カネキはふらつきながらも身動ぎをした。
「…すみません…。離してください……琥珀さん……」
この白い手も汚してしまう。
「血が……黒い体液が、流れて…止まらないんです……」
「…。」
「…さっきのゴミも、それを拭いた……」
「まだ離せない。…カネキ君、今、離したら、階段から落っこちちゃう」
琥珀の瞳が真っ直ぐにカネキを見つめる。
「(ああ──…)」
さっきとおなじ目だ、とカネキの頭に浮かんだ。
地下のごみ置き場では横顔だったけれど。琥珀の真剣な眼差しを、今はちゃんと正面から見ている。
「血なんて出てない、カネキ君。黒い…体液も。こんなに暗いんだもの、わからないわ…」
落ち着かせるように静かな声で伝え、カネキをゆっくりと階段に座らせた。
琥珀自身もその正面の、一段低い場所に膝をつく。
カネキ君。と。
呼ぶというより、読むように、ぽつりと唇が動いた。
「…私が呼びかたを変えたのは、丈さんや有馬さんにつられたせいもあるかもだけど…」
でもね、と続ける。
「本局で最後にあなたと話したときに思ったの。…琲世君、変わったなって──」
──あなたはいつもQsのメンバーのことを心配してた。
彼らがちゃんと、捜査官として周囲に馴染めるか。
班だけでなく他の捜査官とも組んで動けるか。…自分のことよりも、周りの心配をたくさんしてた。
でも…いつからかな。あなたの中に違うひとが見えた。
…最後に会ったあなたはコクリアに囚われている子を助けたいって言ったよね?規則に反してでも。局と敵対することになっても。
それを聞いたときは驚いたけれど。…そっか、って思ったの。
だって、あなた自身が"自分のために"したいことを見つけたんだもの──…
「それはきっと、"カネキケン"を思い出したからだね」
暗闇の中、琥珀の手が確かめるようにカネキの手に重ねられる。
「私が知り合ったのは"琲世君"だったけど、カネキ君とも話をしたい。だから、そんな意味を籠めての"カネキ君"」
やや自信がなさそうに琥珀は笑う。
カネキは微かに肺を震わせて呼吸した。
琥珀の握る手に、その振動が伝わっていないだろうか。
「…。琲世だったりカネキだったり……名前が不安定で…めんどくさいって、思わないですか…?」
「職場経験が、きっと人よりも豊富なのね」
「腕とか脚とかも…切断して、また、くっつけたりとかしてるんですけど」
「…人生経験が、人よりもちょっと豊富なのね」
ぱたりと落ちた滴の音も、聴こえてしまわなかっただろうか。
「ちょっと雑ですね…」
「…ふふ」
カネキの視線よりも低い位置で頭が揺れる。
黒くなって少しざらりとした手触りの自分の手。
しかし落下した滴のあたたかさも、琥珀の手のぬくもりも確かに感じた。
俯くカネキに、焦らなくていいんじゃないかな、と琥珀は言う。
「トーカちゃんも四方さんも、寝たいだけ寝かせておこうって言っていたわ」
「そうですか…」
「起きてきたら、がっつり働いてもらうからって」
「あはは…がっつりかぁ…」
「あと月山君?ていう人も。待ちきれなくなったら自分がモーニングコールをしに行くよ、って」
「回復次第すぐ起きます」
即刻止めるように伝えてもらえますか。と。
カネキは極めて強く、琥珀に返す。
月山は派手好きのために、止める人間がいなければ本気で起こしに来るだろう。
彼のテンションは病み上がりには正直重い。
「…もう少ししたら、ちゃんと顔を出します。…あと少し…怪我が良くなったら…」
「うん。みんなにも、伝えておくね」
「──…」
カネキの頭の中には、たくさんの感謝の言葉と言い訳が浮かんで、そして通り過ぎていった。
けれど、どれだけ言葉を使っても物足りない。
店の仲間たちにも、琥珀にも、気持ちを伝えるには足りない。
「…とても久し振りで…僕が琲世だった間にも、色んなことがありすぎて……お互いに、みんな、変わってしまったところも沢山あるんじゃないかって不安な気持ちも、あります…。でも──」
考えて、迷って、カネキは自分の願いを口にする。
「僕も、みんなに会いたい──…」
誰かのためではない。
自分のために。
それでもやはり、こんなに自分本意でもいいのだろうかと頭に過って、ちらと窺うように琥珀を見る。
すぐに、夜目が利く性質で良かったと思った。
琥珀は微笑んでいた。
みんな待ってるよ、と穏やかな声でカネキに伝える。
「コクリアから逃げるときにね。何回も。何回も。トーカちゃん、君のことを振り返って、ずっと気にしてたんだよ」
気づかなかった──?
暗闇の中に浮かんだ言葉が、目には見えない花の香のようにふわりと漂う。
自分は今、心底情けない顔をしていたのだとカネキは思った。
琥珀の手が励ますように、しっかりしなさいと言うように、カネキの頬を優しく強く包み込む。
「みんな、君のこと待ってる」


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