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(1)

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その日は、何ら変わりのない日常だった。
学校へ行き授業を受け、放課後は塾。高校三年の受験生というプレッシャーもあったが、推薦の話を担任と進めているため、心は軽かった。
それでも期末考査の手を抜くわけにはいかないので、これまでやってきたように、教科書と塾のテキストを交互に開く日々。
「(どこで間違えちゃったのかな──)」
琥珀の右目──赫眼が昏く光る。
隊列を組むのは戦闘服に身を包んだ捜査官。それらが放つ銃弾を躱しつつ、入れ替わりに迫るクインケの太刀を尾赫で弾く。
琥珀は上着を毎日持ち歩いていた。
万が一にも、何かの騒ぎに巻き込まれたときに戦うために。
逃げるために。
足がつかないようにと、一度使ったものは処分していた。最近は、捜査官らが自分にレートと呼ばれるランクをつけ、通称らしい呼び名も決めたらしかったが。
用意を持ち歩く習慣は変えていなかった。
人間に紛れて生活をしていても、やはり自分は喰種なのだから。
「(でも、それが裏目に出た──)」
塾の帰りに、追われている喰種を見た。
必死に逃げていた。
帰りを待っている者の名を呟き、ごめん、と。
もう駄目かもしれないと、息も切れ切れに地面に倒れた。
琥珀は制服の上から上着を羽織った。


──ポタリ、

羽赫からの棘を打ち終えた琥珀は、交差点の信号機にゆらりと降り立って眼下を睥睨する。
細くくゆる尾赫を気怠く太腿に絡ませたその姿は、まるで悪魔を彷彿とさせた。
先ほど追い立てるようにして逃がした、あの喰種は無事だろうか。
駄目かもしれないなどと泣き言を吐く余裕があるなら逃げてと、無理矢理にでも立たせた。
待っている人がいるのなら、走って、と。
それからすぐに相対した捜査員は、手練れだった。
琥珀が引き付けるうちに増援も現れ、あれよという間に近隣区画は封鎖され、琥珀は包囲された。
手際の良さに呆気に取られた。
もしかしてこれは──…。
まさかとは思ったが、確かめる術はない。
逃がした喰種も琥珀を釣るための餌だったのか、 はたまた運の悪い通りがかりだったのか。
気掛かりではあったが、今は自分が逃げることを考えなければ──…。

──ポタリ、

一時の静寂を裂くように、ブレーキ音を立てて更なる護送車が到着する。
乱れた隊列の防護盾には多数の破損、ひび割れて無惨なコンクリートにべったりと掠れる血痕、倒れて呻き声をあげている者。
クインケ、自動小銃、人間、人間、人間。
「(女の人もいるんだ…)」
プロテクターを装備している小柄な捜査官、ヘルメットから結わいた髪が覗いている。腕からは血を流し、仲間に体を支えられている。
「……いいなぁ」
ぽつり、唇から零れた。
自分がどんなに血を流しても、好きな人の腕に、あんな風に助け起こされることはないのだ。
こんな時まで恋愛事が過る頭に、自分の事ながら呆れた。

──ポタリ、

「…ばかだなぁ」
淋しい。
悲しい。
さびしい。
赫子のマスクの下で顔がくしゃりと歪む。
振り払う。
早く、家に帰ろう。帰って、お風呂に入って、明日の授業の支度をして。いつも通りの生活に戻ろう。
周りを囲んでいた捜査官は粗方散らせた。近接クインケ持ちの捜査官も、今は距離を取ってこちらを窺っている。

──ポタリ、

ばれたくない。
ばれるわけにはいかない。
今まで自分を守って、育ててくれた家族のために。
好きな人だっている。
"人"として生きていきたいと願う自分のためにも──
「帰らなきゃ…」

──ポタリ。

震える声に呼応して、足元の信号機から血が滴り落ちる。
琥珀のスカートから伸びる脚には無数の裂傷。背中と腹部には治癒が不完全で排出されずにいる銃弾の感触。腕も無事とは言い難い。
生きた人間を捕食しない琥珀の動きは悪くなる一方だ。
「失敗、しちゃったなぁ…」
他人なんて庇わないで、さっさと逃げればよかったのに。
殺して食べれば、逃げるだけの力を得られるのだろうか。
最後とは、こんなにも突然で呆気ないものなのだろうか。
「(もう、血も、力も、なくなっちゃった──)」
身体が重い。身体が重い。
腕が重い。脚が動かない。
それなのに何故だろう、感覚は研ぎ澄まされ、多くの雑音を拾って鼓膜が震える。
作戦、呻き、ひそひそ声。
機器の稼働音、エンジン、無数の衣擦れ、息遣い。
「(違う、ちがうの、私がききたいのはそんなのじゃない)」
こんな時に、いや、こんな時だからこそ声が聞きたかった。
「(丈兄の──こえ…)」
今もどこかで仕事をしているのだろうか。ここにいる捜査官のように戦っているのだろうか。自分のような、喰種と──…
その時、琥珀の脳を引っ掻くように、無線の通信音がザラリと鳴った。
──現場に有馬捜査官が到着、現場の捜査員は支援に切り替え、怪我人の救護を──
「──」
「──」
ひび割れたマスクの下で、赫眼から雫が落下した。
到着した護送車には恐らく数人。車内で革靴が床を踏み締めて移動する音。そこに混じって、聞き間違えることなどありえない、愛しい人の声を聞いた。
「(嗚呼、あぁ……あいたかったの。(みられたくなかった))」
心臓が跳ねる。
「(もう、ここでおわるのなら。(もっと一緒にいたかった))」
防護楯の後ろで停まった護送車の後部扉が解錠する。
降り立つのは白いコートに身を包んだ捜査官、二名。
喰種の成れの果て、クインケを納めたスーツケースを持った──
「──有馬さん…と、平子さん…ですね」
もはや失血でぼんやりとする頭の中で、琥珀は、琥珀に、ふしぎね、と囁いた。
──ひらこさん、なんて、はじめてよぶ──
「──タケ。お前の名前も知ってるらしいよ」
「…それは命を狙われる確率が上がったという事ですよね」
共喰いをする琥珀は、喰らった喰種の記憶を夢で"視る"ことがあった。
喰種との交流を持たない琥珀だったが、視た記憶から、喰種の世界の情報を得ることもあった。
"CCGの死神"と呼ばれる、喰種捜査官の噂。
琥珀が焦がれて待ち望んだ者の、平子丈のパートナーは有馬貴将。
死神だ。
「(しにがみはいるのにかみさまはいないの)」
逃げなければ。
逃げられるの?
逃げられないね。
もう琥珀の意識はすべてが融けて混ざっていた。
ふわり──。
信号機から自ら降りたのか、落下したのかも判断が着かなかった。
まるで羽根のように音も無く。
着地した琥珀は二人に向かって疾駆する。
生も死も、そこにしかなかった──。


160711
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