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静寂を焦がす焔

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仕事と私とどっちが大切?
わかったことを聞くなという男と、嘘でもいいから言葉が欲しい女。
互いを想いあっているくせにすれ違う、男と女の永遠の深淵だ。
琥珀はスーツの袖口を戻して腕時計を隠した。
古びて擦り切れた深紅の絨毯を見下ろして、自分を元気づけるように小さく息を吐く。
声に出して訊ねたわけじゃない。
声に出して返されたわけでもない。
ただ、今日。
琥珀と映画を観に来る予定が、先輩方の丈へのお誘いによって流れてしまった。
それだけのこと。
馴染みの街の商業ビルに入っているこの映画館には、今までに二人で来たこともある。
「(別に、映画館で観る時はおしゃべりしないし)」
コツン、コツン、と、足音が絨毯に吸い込まれる。
「(今日、観る映画だってシリアスなのだし)」
分厚い扉を潜り、ぽつりぽつりと、スクリーン前でレイトショーを待つ背中の一つに琥珀も加わる。
「(ただ、観たあとすぐに感想を話せる相手がいないだけで…)」
年季の入った座席を下ろして座ると小さく軋んだ。
なんとなく際立って耳に入る。
「…。」
左右ともに席は空だ。
琥珀は片側の席にバッグを置いて上着を乗せた。
上映のベルが鳴り、館内の灯りがゆっくりと落ちて、そして暗くなった。

人気の無いロビーは、黄ばんだ照明に照らされている。
エレベーターを降りた通路からロビーまで、フロアを覆う深紅の絨毯。人が通る部分は特に磨耗し、くすんだ光沢を放っている。
埃の揺れる低い天井。
つやを失った木製のカウンター。
色褪せたメニューを掲げる売店。
剥がれかけた上映予告の前でエトが立ち止まる。
「これこれ。これを観たかったんだよね」
端の巻いたポスターを華奢な指が押した。
都心から離れた街にある、ひなびた映画館だ。
「折角来たんだから、タタラさんも観てかない?」
「興味が無いって再三答えてる」
「一人だけ娯楽に預かるのも悪いと思ってさ。まあ、これも日本人の社交辞令ってヤツだよ」
「…面倒な民族だ」
パーカーのフードを下ろしたエトがチケット売り場のカウンターに向かう。
普段は顔を覆っている包帯は、喰種としての用事を済ませた後にほどいていた。
置物のように微動だにしない売り子に一人分の代金を渡す様子を、何とはなしにタタラは眺めた。
時代に取り残されたようなこの空間にいると生気すらも抜け落ちるのだろうか。
喰種でも認知できないしおれた存在に、タタラの内心に驚きと呆れが浮かぶ。
戻ってきたエトが訊ねる。
「あのカウンターのもぎり、どう思う?」
「…木乃伊の置物と思った」
「あの人も喰種だよ」
二度目の不覚に見舞われて、タタラの眉間の皺が深まる。
エトはいたずらが成功したような表情を浮かべた。
「私の趣味の仲間なんだ。でも餌にも興味が無い人だから、ほっといたげてね」
使えるモノは便利に使うエトだが趣味の繋がりは別らしい。
手に入らないモノならどうでもいい。
タタラもすぐに興味を無くした。
あの置物を除けば無人と呼べるロビーの、壁際に沿って置かれたソファーを見る。
「ここで寝てる。終わったら起こして」
「二時間ちょっとあるし、先に帰ってても良いよ。ああでも、ここで寝てる間に取れたらいいね」
「何」
「眉間の皺」
「………」
「アジトにいるとさ、誰かしらに話しかけられて、いつも面倒ギレしかかってるから。タタラさん」
「…ここに来ればアイツらの話から逃れられると思ったんだけど。思い違いか」
タタラは整った顔立ちをしているものの、表情にも視線にも常に冷たさを纏う。
それに対してこのような軽口を叩けるのは、アオギリの中でもエトぐらいだろう。
「ゴメンゴメン。映画館なんて久しぶりだからさー。浮かれてるみたいだよ」
「…。まあ、楽しんできたら」
古びた娯楽施設の内装にも、エトの浮かれる映画にも、興味を放棄したタタラは背を向けた。
「いい夢見てね?タタラさん」
軽い足音が遠ざかる。
あの言葉の通りなら、これから二時間は静かに過ごせそうだ。
クッションの潰れたソファーに浅く腰掛けて、タタラはそのまま、少し遠い背凭れに寄りかかる。
だらりと身体の力も抜いて、後頭部も預ければ天井が目に入った。
埃が混じる空気をゆっくりと肺に吸い込む。
こんな状況で襲われでもしたら、
「(簡単に死ねる)」
これまでに積み上げてきたものが消える。
己の命も、痛みも、無念も、怨みもすべて。
古びた天井は重力に反して埃がうっすらと付いている。黄色く変色した光源に包まれて。
老いさらばえて、弾力を失った老人の皮膚を思い出した。
幼い頃、骨張った手で撫でられた記憶だ。
タタラは瞳の動きだけで自身の手の甲を見る。
元々の肌色の薄さもあるだろうが、夜に生きる喰種は日に焼けるという機会もない。
そして、自分はあんな骨と皮になるまで生きないだろうとも思った。
「…。」
想像のつかない老いをタタラが頭から捨てた時、絨毯を踏む小さな足音を聞いた。
一つ前の上映回の客だろう。化粧室のある通路から小柄な女が姿を現す。
その女──。
君塚琥珀が、タタラを目に入れた瞬間からの変化を、どう表現するのが正しいのだろう。
ふわふわと間の抜けた様子でロビーに足を踏み入れて、しかし、理解した途端に緊張感の針をぴりりと立てた。
まるで小さな針鼠だ。
琥珀はタタラを中心に、取れる距離の限界を探る。
顔は向けながらも目は決して合わせずに、ゆっくりと迂回して出口を目指そうとした。
「ヒトを猛獣を見るみたいな目で見るなよ」
「…自分を猛獣じゃないって思っているの…?」
「お前は違うわけ?」
二人の声が短く響く。
それ以外の音は、擦り切れた絨毯に吸い込まれてしまったように静かだ。
琥珀の瞳が一瞬だけ、ちらりとエレベーターを見る。
「おい」
こっちを向けと言わんばかりの声が低く刺さり、琥珀は視線を戻した。
どのみち、このまま帰らせてはもらえないだろう。
肩にかけたバッグを持ち直すと、しぶしぶ、タタラの座るソファーへと歩いた。
「良い子だ」
座るように促される。
しかし琥珀が大きく一人分ほどの間を空けて座ると、即座に「遠い」とやり直しを食らった。
不本意な顔をして20センチばかり近づいて座り直すと、赤い瞳がやっと満足気に細められた。
琥珀は頼るようにバッグを抱えた。
本当は頭を抱えたかった。
自分はただ映画を観たかっただけなのに。
一緒に来てほしかった丈は来られず、けれど映画の内容は良質で、後は帰って丈にメールを送ろうと文面を考えていたのに。飲み会はどうだった?今日は残念だったけど、また今度、一緒に映画を観に行きたいな。と。
立ち直ったはずなのに、琥珀はより深い谷底に落下する気持ちになっている。
本当に、どうしてこんなところにアオギリの幹部が。
コクリア襲撃以来、アオギリの資料が大量に追加されて、目を通した琥珀は眩暈がした。
タタラは中国系組織の生残りの、SS〜の大物だ。
「どうしてこんなところにアオギリ幹部がとか思ってる?」
「………。映画、もう始まってますけど」
「連れが観てる」
「あなたは観ないの?」
「興味無い」
「…良い映画なのに」
素っ気ない返答に、今度は違う理由で琥珀は眉を寄せる。
タタラにとって映画の感想などどうでもいい。
二時間の静寂は逃したようだが、これはこれで良い暇潰しが落ちてきたものだ。
タタラがゆったりとした(むしろ堕落した)座り方をしているのに対して、琥珀は浅く座って背筋もぴんと伸ばしている。
緊張と警戒が見てとれるその様子は、真面目、という琥珀の当初の印象にあまりにも似合いすぎていて笑ってしまう。
「…なに?」
タタラを拒絶するように顎をそらしていたはずなのに、琥珀はタタラの気配に聡く反応して、振り返る。
「別に。お前は仕事帰り?」
「…どうして」
「スーツが私服とか普通はいわない」
「…。あなたは…前とは印象が違うのね」
「連れが此処に寄り道したがったから、付き合いでこうなった」
今日はその付き合いを考えて"人間のような"服装をしている。
生活の違う喰種と人間とでは好む服装も違う。赫子の扱い易さと顔を隠すことの二点は、喰種にとって優先順位が高い。
地下などを棲み処とする喰種なら、また事情も変わるだろうが、生きていく上で人間との付き合いは必要だ。
鼻先まで埋めるコートの襟をタタラは指で下げた。
吸い込む空気も涼しくなる。
マスクもせずに他人に顔を晒すのは久し振りだ。
喰種に関わりたいなどという人間の交渉相手に禄な者はいない。今日の相手も、勿論その手の人間たちだ。
そんな相手に顔を晒すことはしない。
ただ。今は。
血生臭い仕事を終えてきて。少しばかり気も抜けて。息苦しい襟元を弛めたい気になった。
思わぬタイミングで、平和呆けた琥珀の顔を見たせいかもしれない。
しかしタタラの感慨に琥珀は露ほども気がつかない。
代わりに疑問を返す。
「寄り道…?」
「仕事帰りの。内容も教えてやろうか」
「…。結構です」
「"白鳩"の仕事の役に立つかもしれないのに」
「………。深いことは…知りたくない」
琥珀の視線がタタラから逸らされる。
どこか後ろめたさを宿す目だ。
コクリアでタタラを含む喰種を逃した負い目もあるのだろう。
琥珀が有馬の部下で、ある捜査官と恋仲であることも調べさせてわかった。
人間の混じる半喰種は能力への期待も高く、希少価値もある。
その琥珀を、有馬が何らかの思惑があって生かしているのか、それとも只のクインケとしているのか。そこまでは聞いていない。
…しかし有馬の部下にちょっかいを出すのは得策でないことは確かだ。
「(…手出不可)」
退屈ではあるが仕方ない。
精々、からかって気を紛らわせることにタタラは決めた。
邪魔な襟を下げたため、建物に籠る匂いに混じって、腹を底から撫で上げるような、琥珀の芳ばしく甘い匂いを感じる。
「知りたくないとか言っても、命令されれば殺すんだろ。なら情報は貰っておいた方が利口」
「……身の丈に合わない情報なんて、持っていても邪魔なだけよ」
「有効に使える頭が無いってこと?」
「…そう思うならそれでいいわ」
琥珀は、これ以上は関わりたくないと言わんばかりにそっぽを向く。
しかしタタラは挑発を続ける。
「ああそれとも、お前に無いのは場合は度胸の方か」
再び、琥珀の瞳がじろりとタタラを睨む。
琥珀はもともと甘い顔立ちをしている。
それが今は、警戒心や苛立ち、幾らかの怯えに歪みながらも、タタラを批難するために口許を強く引き結んでいる。
前回とは違い、この場に邪魔者はない。
己にのみ注がれる焦げ茶の瞳は、タタラに愉悦を与えた。
「喰種の見た目を利用すれば騙し討ちも簡単。その手柄で、男でも何でも、引っ張りあげてやれば良い」
琥珀はその捜査官の為に戦っているらしい。
戦う理由は人各々だ。勝手にすればいい。
その反面、阿呆だなとも思う。
喰種なら喰種とつるんでいれば良いものを。
その男にこだわる為に琥珀は逃げず、CCGに首輪を嵌められているのだ。
「…そんな助けは必要ないわ。私が何かをしなくても、あの人は優秀な捜査官です」
浅く息を吸う琥珀に対して、タタラのものには嘲笑が混じる。
「人間なんて首を折ればすぐ死ぬよ」
小枝を折るようなもの。
愉快だと細まる深紅の瞳も、それを容易く成し得るタタラの言葉も、光景をまざまざと琥珀の頭に想像させる。
言葉を打ち消すように、琥珀はタタラの襟を掴んでいた。
「私が死なせない…!」
「繋がれた犬に出来ることなんて無い」
「──っ…」
琥珀が強く掴もうと、タタラの身体は揺らぎもしない。
当然の如く言い返されて言葉すら詰まらせる。
しかし琥珀も引かなかった。
白い喉をこくりと上下させて、自分を落ち着かせるように静かに息を吸い込んだ。
「…生きることも死ぬことも、私のそれは管理されてる。…でもこの選択を私は悔やんでいないわ」
触れるほどに近く、香りが濃くなる。
当の本人は気がついているのだろうか。
「首輪なんて千切って逃げることだって出来る。でもそれじゃ…私ひとりで生きたって……」
タタラの知らぬその男への想いを吐き出す時、本来は穏やかである琥珀の瞳の底に、焔が灯る。
タタラの抱く焔にも似た。
逆光の仄暗さの中でちろちろと煌めく瞳は、まるで篝火だ。
「あなただって、そうなんでしょう──…?」
囁きのように名を呼ばれた。
古ぼけた天井の照明が記憶の中の薄曇りと重なる。
昼か、それとも夜だろうか。
路地裏から見上げた狭く煙る空。
こちらを覗き込む深紅の瞳。
自分と同じその瞳は、信頼であり、憧憬であり、自身の一部だった。
永遠に、自分の傍に在り続けるものだと思っていたのだ。
永遠に喪失して、自分の一部などではなかったと知った。
眩暈に見舞われ、タタラは瞳に力を籠める。
一瞬か、それとも何秒もこうしているのか不明瞭な感覚から無理矢理に醒めた。
目の前には唇を引き結んだ琥珀がいる。
情けない顔のくせに、手は未だに襟を掴んだまま。
木製のカウンターに居るはずの置物も、二人が揉めようと、沈黙したきり気配がない。
「…その顔、止めろ」
「──んきゅっ…!」
タタラは琥珀の顔を押して退かせる。
いつしか甘ったるい香りも薄まり、元の古ぼけた映画館の空気に包まれていた。
琥珀に突き返された手でタタラは眉間を揉む。
スクリーンからは銃声のような音が漏れ聞こえる。だが上映の終了時刻はまだ先だ。
「…帰れ」
「は?」
「考えてみれば俺は寝るためにここに座ってる。お前のせいでそれが全然ちっとも出来てない」
「…しっ、な──…!」
そんなの知らないっ、と憤慨した琥珀が立ち上がる。
よろめきながらバッグも掴む。
「………」
勢いよく立ったものの、琥珀はまだ何か言いたげにタタラを見下ろす。
「何」
「──…、目的は果たせそうなの…」
何のと訊ねずとも分かる。その為にわざわざ日本まできたのだ。
復讐に背を向ける選択もある。
全て忘れて違う組織を作る選択も。
人間に限らず、喰種だって死ぬのは同じだ。
だがそんな慰めの言葉に何の意味がある?
タタラが永遠に失ったのは己の一部なんかではなかった。殆どの、全てだった。
兄も。
仲間も。
自分を形づくる彼らを無くして、代わりに埋めたのが憎悪の焔だ。
復讐心を糧にして喰種の容れ物を動かしている。
自分の魂が望むものは唯一つ。
「知りたいか」
「──…」

目を閉じてから暫くの時間が経った。
とさっと軽い音がして、タタラが目を開けると、隣に座ったエトの瞳がこちらを見ていた。
深いソファーの背凭れにぴたりと背中をつけており、小柄な身体ゆえに両脚は完全に浮いていた。
「お待たせ。ほんとに待っててくれたんだ」
映画は十分に楽しめたのか、伸びきった脚をぱたぱたと動かす。
その後ろで、カウンターにいた置物喰種が箒と塵取を手にスクリーンに向かう。
「…客はエトだけか」
「前の回も数人だったみたいだよ」
「やる意味あるの?」
「ファンはいるのさぁ。それにスクリーンは迫力あるし。今度はタタラさんも一緒に観ようよ、何か別のやつをさ」
大して弾みのつかないソファーを揺らしてエトが立ち上がる。
「…中国語のなら付き合う」
「じゃあ探しておくね。一人でじっくり観るのも良いけど、やっぱり観賞後には話したくなるんだよね」
「ふーん」
興奮の冷めやらぬエトは、同時に、次の計画を廻らせながら、楽しみだなぁと手を合わせた。
エレベーターに向かう軽い足取り。
それについて行きながら、タタラはふと、琥珀が姿を見せた瞬間を思い出した。
通路から現れた琥珀を見て間抜けな面だと思ったが、今のエトと同じ状態だったのかと納得する。
今頃は、男に電話でもしているのだろうか。
──知りたいか、と。
タタラの問いに琥珀は少しの間、沈黙していた。
まっすぐにタタラの瞳を見下ろして、口を開いた。
「──…、あなたは、あなたの兄と同じくらい……、それよりも危険な喰種だって聞いたわ」
会ったことのない焔の面影を探っていたのかもしれない。
「戦うことは…いつも怖い……。でも失うことの方が、私にはもっと怖い…」
復讐を咎めることはせず、ただ、再び相見えるなら戦うと。琥珀は静かな声で答えた。
タタラの視界の隅で、エレベーターのボタンが明かりを灯す。
「あ、タタラさん」
深紅の絨毯に爪先足で立ちながらエトが振り返る。
「良い夢は見られた?」
「………。まぁね」
「そう。なら良かった」
ふわりと漂う匂いを覆うようにエトがパーカーのフードを被り、タタラもまたコートの襟を引き上げた。


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