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水底のくしゃみ

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けほっ、けほ──…。
冷たい空気が入ると呼吸が引きつり咳がでる。
咳の反動で喉が痛み、胸を押さえると息が詰まった。
「…かぜ………ひいたぁ──、…げほっ…!」
ふらふらと戻ってきた部屋のドアを開けて、琥珀はベッドに倒れ込んだ。
「(…つかれてたの…かなぁ………)」
午前中に小さな違和感をおぼえ、午後には寒気を、まずいと思った帰り際には熱を帯びただるさが加わっていた。
今日がデスクワークの一日で良かったと、ぼんやりと帰り支度を済ませれば、思いきりドアにぶつかった。
有馬が見ていたようだが、挨拶もちゃんとできたかどうか記憶はない。
全身が、だるくて、重い。このまま──、
「(…しんじゃったら…どうしよう………)」
冷静な頭であれば大袈裟と思える妄想も、身体と気持ちが弱っている琥珀にはリアルだった。
琥珀の住まう部屋は本局敷地内ではあるが、市民向けの部署の置かれた別棟の、さらに奥だ。
「(…おじいちゃん……)」
熱が上がってきたのだろうか。顔は熱いのに身体はどうしても寒く、掛け布団にしがみつくようにくるまった。
昔は琥珀が風邪をひいても、祖父か叔父が看病をしてくれた。そうではない時も丈が見舞いにきてくれた。
「(…たけにい……)」
しかし今、そばには誰もいない。
翌日、動けず、連絡もできずにいれば、誰か様子を見に来るだろうか…?
風邪っぽかったが、何日かすれば仕事に来るだろうと放っておかれるだろうか?
皆が見にきた時、動かない自分がベッドにいる。
じわりと浮かぶ不安に涙が零れた。
琥珀は視線だけで水を探す。
部屋の隅の冷蔵庫に、確かミネラルウォーターとアイスコーヒーが入っていた。
「(……とおい……)」
取りに起きるのも億劫だった。
自身の荒い呼吸を聞きながら目を閉じる。
けほけほと、さびしい咳が響く。

溜まっていた資料の整理がようやく終わって、丈は身体を伸ばした。
就業時間をやや過ぎた窓の外は暗い。
ぐぐぐ…と無言でバンザイの形に腕をあげたその時、背後でガサリと音がする。同時に、タケ、と呼ばれた。
「これ、琥珀に渡してくれ」
振り返ると有馬がいて、何かのついでの如くレジ袋を渡される。
しかし、ついでとしてやって来るには有馬のオフィスはフロアが違う。
「……。今日、琥珀に会う予定はありませんが」
有馬は琥珀と同じ班だ。明日の仕事では確実に顔を会わせるはずなのに、なぜ自分に頼むのか。
「急いで必要な物ですか?」
中を見ても?と訪ねると、有馬は、ああ、と答える。
白いレジ袋は局内にあるコンビニのものだ。
中に入っていたのは冷えペタとミネラルウォーター、そして琥珀が餓えを満たすための錠剤が数組。
「琥珀、風邪っぽかったから」
「風邪…ですか」
「いつもの眠そうなのとは別に、午前中から少しぼんやりしていた。あと、帰り際にも──…少し」
だから様子を見てきてほしいと有馬は言う。
「(琥珀が風邪…。子供の頃以来だな……)」
有馬の話からでは具合の程度まではわからない。
しかし実家で暮らしていた頃とは違い、琥珀の顔を見にいってやれるのは自分だけだ。
…本人が、部屋に人を呼ぶことを好まないために。
「──確かかはわからないけど。違うなら、それはそれで構わないし」
無言の丈に後押しをして、有馬は「お疲れ」とオフィスを出ていった。

「あっ、郡センパイっ!あんなところに平子上等が〜!」
「見えてるよ。…あとハイル。君の声、大きすぎ」
エレベーターホールで下の階層へのボタンを押した時だった。
ピンク色の髪と同様の明るい声と、嗜めるというか小言というか…を口にする二人組が、小走りにやって来た。
「間に合ってよかったぁ〜。平子上等、今からお帰りですよネ」
「実は、帰り際に琥珀に渡してほしいものがあるんですが…」
伊丙は達成感に満ちた表情で、郡は遠慮がちに、ガサリと音を立てる紙袋を見せる。
丈は既視感を覚えたが、とりあえず成り行きに任せようと思った。
どうした、と問うと郡が答える。
「風邪をひいた者には何が必要かと有馬さんから電話をもらったんです。詳しく様子を訊ねたら、琥珀が風邪っぽいと聞いたので…」
外から局へ戻る途中に自分たちも買ってきたのだと言う。
「冷えペタとぉ、あとはお水っ。飲み比べができるよーにぃ、ふふふ、違う種類で3本用意してみました〜」
「(…3本……)」
紙袋の持ち手が重さでピンと張っている。
「私は、病人が飲み比べをする余裕なんてないって言ったんですけど…。ハイルが聞かなくて」
「だってぇ。琥珀じゃ食べられるモノ、限られてるし。見た目が楽しくないですしぃ」
「お見舞いに楽しいとか要らないだろ」
呆れる郡と、反論したい伊丙が頬を膨らませる。
「いや……。郡も伊丙も、助かる」
感謝して袋を受け取ると、二つの頭が会釈をした。(こけしに似ているなと思った)
「いいえ、そんな。お疲れ様です、タケさん」
「ふふふ。琥珀によろしくですー」

だんだんと重みを増してきた荷物を持ち直す。
移動する階層ランプを見上げていると、内ポケットの携帯が振動した。
他の者もいる狭い空間で電話を受けるのも…と思い、1階に到着するのを待つことにする。
十数秒して電話は鳴り止み、1階を知らせる電子音が響く。
エレベーターのドアが開いた。
「…もう駅着いちゃったかな──…あっ!タケさん!」
もう誰が来ても驚かない心の準備が丈にはできている。
「………。琥珀が風邪をひいたらしくてな」
「あれっ、もう知ってたんですか。早いっすねー」
丈の心情はともかく、倉元は、さすがタケさん、と感心した様子だ。
「さっき宇井さんと電話で仕事のやり取りしてる時に教えてもらったんですけど……じゃあもしかして、被っちゃいました?」
やはり倉元もそれに関しての用件だったらしく、自身の手の中の袋と、丈の持ち物とを眺める。
「いや──…、有り難い」
「琥珀ちゃん、食べられるもの限られてるし、薬も……」
やや言いにくそうぽりぽりと頬をかく。
「よくわかんないんで、とりあえず使えそうなのだけ買ってみました」
ビニールの袋から飲料水や熱冷ましの文字が薄く透けて見えた。
「お大事に。あっ、あとー…ごゆっくりっ」
「………」
「はは、こんな時に何言ってんだって感じっすよね。でも風邪ひいてる時って、なんとなく心細くなるじゃないですか」
そんじゃ、失礼します──。
倉元がぺこりと頭を下げた。

心細くなるという倉元の言葉も頷ける、と丈は思った。
並ぶ蛍光灯は、点々と、離れ気味に廊下を薄暗く照らしている。
夜。人気のない建物内部は静かで、昼の様子を思い描けるぶん余計に淋しく感じる。
琥珀の部屋のドアをノックした。
返事はない。
ノブを回すと呆気なく開く。
鍵をかけ忘れているという無用心さに僅かばかりに眉をひそめ、けれど、毛布から覗く顔を見て、怒る気持ちもすぐに消えた。
「………。つらいのか、琥珀…」
眉を寄せ、浅く寝息を立てる乾いた唇に、丈は触れる。
琥珀の鞄は椅子ではなく床に。
毛布にくるまる寝姿はスーツを着たままだ。
泣いたのだろうか、涙の線が頬に残っている。
丈は皆から預かってきた荷物を静かに置いた。

名前を呼ぶ声に琥珀はうっすらと瞳を開いた。
前髪がよけられて、代わりに冷たいものが触れる。
「──起きたか」
横を向いて眠る琥珀と同じ目線に、丈がいる。
ベッド脇に膝をついているのだろうか。不器用そうに、琥珀の額に貼った冷えペタを整えている。
「…な、ん──…、…」
嗄れた声を喉に詰まらせるとペットボトルが差し出された。
「……ありがと。………あれ?」
しかし自分が買うものではない味と、見覚えのないラベルに手を止めた。
「伊丙からの見舞いだ」
ハイルちゃん?と視線で問う。
少し眠ったおかげで身体は楽になったようだが、まだ状況がつかめない。
「郡からも。あと有馬さんと、倉元からだ──…」
丈は、がさがさと紙袋やビニール袋を持ちあげて中身を見せてくれた。
それぞれが買ってきたといういくつもの冷えペタに、ハイルの飲み比べセットを含む飲料水。
琥珀用の錠剤に、汗拭きシートと缶コーヒー。
「ぁ──…、これ、…みんなが…?」
「心配していた」
水を飲んで潤してもまだ声は嗄れている。
それでも、じんわりと何かが湧きあがり、琥珀はゆっくりと身体を起こした。
緩慢な動きで求めるように手を伸ばす。
「…重たいぞ」
「…ん……」
丈が袋を渡してやると、抱えるように抱きしめた。
乾いた咳がこほこほと出たが、頬がゆるむ。
一つ一つを手に取っては眺めて袋に戻した。ぜんぶを見終わると、もういいか、と丈が袋を床へ下ろす。
「これだけあったら…大丈夫そう」
スーツを着ていたことを思い出した琥珀を、丈が手伝って脱がせる。
「………。冷えペタが曲がってしまったな」
「平気。おでこ、冷たくて…きもちいい………」
上着を脱いで、しかし身体に残る寒気のために身震いをした。
ベッドに腰を下ろした丈が毛布ごと琥珀を包む。
「…悪いな…」
「…?」
「皆が揃えてくれたから、俺は渡すものがなくなってしまった」
毛布を引き寄せながらぽつりと声が降ってくる。
顔をあげると丈のあごに鼻先が触れた。
曲がった冷えペタを気にしているのか、丈の指がまた撫でた。
丈の首元に、琥珀は顔を寄せる。
「…みんなのお見舞いがあって、」
丈は平熱なのだろうが、その温度も心地好い。
「丈兄が、きてくれたの………とっても、うれしい…」
「…。」
「安心。したよ…?」
互いの隙間を埋めるように身体をくっつけて、丈に抱きついた。その肩にあごを乗っける。
琥珀が部屋に人を呼ぶことはほとんどない。
この部屋は借りているだけで、自分の部屋ではないからだ。
普段ならこんな簡素な場所に丈を呼びたくない。
ただ今日だけは違った。
「今はね…丈兄がいてくれることが…いちばん、心強い…」
「……倉元が、風邪の時は心細くなると言っていた」
「うん…。本当にそんな気分」
「…。そのわりには、部屋の鍵をかけ忘れていたな」
「あ、あれ…?そうだった?」
琥珀は部屋に帰ってきた時の様子を思い出そうとしたが、熱のピークだったために記憶があやふやだ。
確かに、かけないでベッドに倒れた…ような気もする。
向き合った丈はなんとなく怒っているようにも見えて、琥珀は誤魔化し笑いをした。
「………」
「……えへへ…」
途端に──、強く身体を抱き寄せられる。
驚く琥珀に丈はかまわない。
今度は丈が、琥珀の首筋に顔をうずめ、べろりと舌を這わせた。
「んっ…、ひゃん……!」
次に、ぬるい舌は緩急をつけて耳をねぶる。かぷりと優しく何度も噛まれて、熱い呼吸が耳朶を震わせた。
ぞくぞくと背筋から腰を撫で上げるような、悪寒とはまた違う波が琥珀を責める。
「だ、だっ、だめっ!……風邪うつっちゃう、から…っ」
「口にしなければ伝染らない」
「…そ、そうなの…?」
「…さあな」
「………」
丈は琥珀の耳許に吐息の感触を残して呆気なく身体を離す。
また熱のあがってしまった顔で睨む琥珀をほったらかしにして、寝間着はどこだと丈が訊く。袋からも汗拭きシートを取り出した。
「着替えて休め。眠るまでは傍にいる………。どうした」
「………べつに…」
「…期待したか?」
「…!!しっ…してませんっ…!」
「そうか」
しれっとした様子で袋の中身を琥珀の手が届く場所に置いていく。
けれど内心は、鍵の件でもやっとしていたのだろう。
その後、一人でできるという琥珀を押し切った丈は、琥珀にシャツを脱がせると、腕や背中を汗拭きシートで拭いていった。
(ブラの肩紐をずらして拭かれたところで、琥珀は全力で首を振った)
食事代わりの錠剤も自分で飲めると断ったが、口を「あーん」と開けるように言われて結局世話をさせられた。
全部が終わった時、琥珀はぐったりしていた。
「…風邪のつらさより……つかれた気がするの……」
「眠れそうか」
「………。」
頬まで毛布にうずまった琥珀の視線は気にも留めない。
甲斐甲斐しく身の回りのことを片してゆく丈を見ながら、しかし琥珀は安心感に包まれていた。
"栄養"を摂ったために身体がじんわりとあたたまり、うとうとと目蓋が重くなる。
いつも部屋に戻ってきても、寂しいばかりで、琥珀はすぐに眠ってしまう。
だからどんな仕事でも、できるだけ多く引き受けていた。小さな雑用でも、なんでも。
けれど今は、疲れて眠りに落ちるのがもったいない。
「……丈兄」
「ん」
がさがさとゴミを片付けていた丈を呼ぶ。
「…手……つないで…?」
丈がベッドの傍に椅子を持ってきて座る。
「ああ…」
「私が…眠るまで……いい…?」
「大丈夫だ」
ちゃんと繋いでいると答える静かな声。
少し骨張った大きな手を、琥珀は両手で頬に寄せた。
丈の匂いを感じていたいのに夢の誘惑はそれを上回る。
ものの数分と持たずに眠りに落ちた琥珀の額を、丈の手が、ずれた冷えペタごと優しく撫でた。


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