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微熱

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「(行ってしまうの──)」
ブラインドの外から薄っすらと光が射し込む頃、その背中は光を遮る。
琥珀を起こさないように、静かに布団を捲って出てゆく背中。
部屋を出るときには起こしてねと、眠りにつく前に琥珀は必ずお願いする。
けれどそれが果たされたことはまだない。
丈の体温と引き替えに侵入する明け方の冷気。
スリッパを探す衣擦れの音に紛れて、琥珀は手を伸ばした。
昼間は隊の子どもたちを諌め、"黒山羊"の喰種たちと言葉を交わし、諸々の準備を進めている。…戦う為の。
丈が静かに忙しく動く中、琥珀は時折、指先で引き留めることがあった。
ひと息よりも短い時間、声無く丈にせがむ。
望みを伝えた琥珀の心臓は、触れた指から伝播するように、その時が訪れるまでほんのりと熱を帯びた鼓動を刻む。
皆の寝静まった深い夜に、丈が扉をくぐるまで。
やってきた丈は琥珀の布団へ静かに入る。
幼子のような行為を口にするには照れくさく、琥珀は頭を押し付けるように胸元に縋る。
そうすると丈は、腰を抱き寄せ、髪に手を差し入れて、琥珀を包み込んでくれるのだ。
数時間、互いの身体を寄せ合って眠り、丈はまた部屋に戻っていく。
「(起こしてねって、いったのに…)」
間もなく部屋から消えてしまうその背中が惜しくて、琥珀は体温が透けるその布地を、指の裏側で撫ぜた。
行ってしまうことが寂しい。
もっと抱き締めていてほしい。
もう少し、自分だけを見ていてほしい。
「………」
「…まだ…眠っていられるぞ」
「ん…」
眠ることが好きな琥珀のために、丈は掴まえた琥珀の手を布団の中へと戻す。
けれど。
琥珀を優先してくれる丈の思いやりも優しさも。
ぼくとつした喋り方も見下ろす眠たげな一重も──。
「(もっと──もっと私を欲しがって)」
自分が欲しがるのと同じくらい、丈にも惜しんでほしかった。
本当の気持ちはやはり言えないまま、出ていく背中を見送る。


琥珀の隣はいつも誰かで塞がっている。
琥珀が手伝う喫茶店の者たちや、彼らの知り合いである喰種たち。
つい先ほども、店では情報交換が行われていた。
店の端からやり取りを聞く横顔は楽しげで、彼らの話も、何もかもが興味を惹くと琥珀は口にしていた。
確かに、と。
丈は手元のアイスコーヒーへと視線を落とす。
喰種としての琥珀が遠慮をせずに話せる相手は、これまでに唯の一人もいなかった。
人間の社会に馴染もうとしてきた琥珀にとっては恐らく初めてなのだ。
このように話ができる環境は。
「………」
今現在。
店のキッチンを借りて、何かを作る琥珀の背中。
その隣には、あまり背丈の変わらない士皇が手元を覗き込み、反対側から夕乍が容器を手渡す。
「…琥珀、プリンって作るのに時間かかる?」
「ええとね、これからオーブンで蒸し焼きにして、粗熱を冷まして、それから冷蔵庫でしっかり冷やして。それで完成」
「えっ。じゃあいつ食べられるの、これ」
「だってこれ、明日のおやつだもん」
士皇は、もう美味しそうな匂いがしてるのにと、たまご色を容れた型を恨めしげに見つめ、夕乍は無言で壁の時計を見上げた。
「琥珀。オーブンは40分だよ」
丈と並んでカウンター席に座る理界がレシピを伝える係だ。
「はーい」
返事をした琥珀の姿がカウンターの下に消えた。
オーブンをセットして立ち上がると、今度は後片付けをはじめる。助手二人の手伝いのもと、洗い場へ伏せられる視線。
すべてを終えるのはいつだろうか。
微笑みのかたちに閉じる琥珀の唇。
店内に残る甘い匂い。
琥珀も苦手とするはずの匂い。
演技が下手で不器用な琥珀が、人間の中で生きていくために身につけた、唯一演じられる嘘。
視線を感じたのか、ふと、琥珀の瞳がこちらへ向く。
それは、結露した水滴が音もなく合わさるくらいの静かな変化。
ふっくらとした琥珀の頬が。
ほんのりと色づく。
「──それ…、私もひとくち…飲みたいな」
逃れ、誤魔化す瞳が、熱を孕んで手元を游ぐ。
「とっておいてね」
その熱は、丈の抱いたどんな心配の影も、手のひらに乗せた氷のように溶かしてしまう。
だから──、
「…飲み終わる前にそれが済んだらな」
独占したい。
求めてほしい。
たまに触れてくる遠慮がちな指先。
それだけではまるで足りない。
この密やかな望みのために琥珀の好物を選んだ願いと打算に。
丈はいつも、自分自身に呆れている。


170808
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