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楽園は目の前に

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「苦労をかけるな」
「うん?」
回る洗濯機のガラス戸を覗き込んでいた琥珀が振り返る。
喫茶店の地下にはいくつか部屋がある。
この部屋には洗濯機が数台置かれていた。
他の洗濯機は待機中。ここにいるのは丈と琥珀の二人だけだ。
プールサイドに置かれているような、プラスチックの座面の長椅子に丈は座っていた。
ゴウン、ゴウン──…、
低く響く洗濯機の稼働音。
琥珀の頭には、いつか観たドラマか何かのワンシーンが浮かんでいた。
苦労をかけるな、と。
会社から帰宅した夫がネクタイを外しながら妻に言うのだ。
そこで確か、妻はこう返す。
「──気にしないで」
琥珀は丈の前に立つ。
ここはテレビ画面に映っていたようなリビングでないし、二人も人間同士の夫婦でもない。
「私はずっと局にいたから。家がないのが普通の感覚になっちゃったから、平気」
喰種でありながら捜査官として生きてきた日々。
それは、残り時間を隠されたカウントダウンだった。
解放された今、琥珀の言葉はふわりと身軽で、それまで琥珀を取り巻いていた諦念の陰も、憑き物が落ちたように消え去っていた。
「…私よりも、丈兄…丈さんのことの方が心配。…今はまだ、何も変化はないけど…」
琥珀が口ごもる。
「CCGが、お咎め無しで済ませるはずがない」
言いにくそうにしていたものを丈が引き継ぐと、琥珀は小さく顎を引いた。
「うん…」
丈の話になると琥珀の表情は途端に曇る。
「…私のことなら…覚悟はできていたけれど。丈さんが局を離れることは、考えもしなかったから…」
「………」
琥珀が丈から聞かされたことは二つ。
一つは、丈は今後、0番隊と共にカネキを助けるということ。
もう一つは、有馬の命は、元々長くはなかったということ。
「(有馬さんは、カネキ君に用があるって言っていた。自分のわがままを…押し付けるだけだから──…)」
──だからお前は何も考えなくていい──
有馬は自身の命の終わる時を知っていた。
だから望みを果たすために、丈に0番隊を託して、琥珀を局の外へ逃がしたのだ。
有馬がどのような病を患っていたのか訊ねても、丈は答えなかった。
琥珀はひっそりと息を吐いた。
有馬の近くにいながら何も知らなかった自分に。
皆に守られていたことも知らずに、ただ生きていた自分に。
琥珀と同じように、床に視線を落とした丈が口を開く。
「本当は…」
「…?」
「守ってやりたかった。…お前を」
洗濯機の音に重なって、丈の声が響く。
「…お前を安全な場所に連れていってやりたかった。…どんな戦いからも、遠いところへ」
喰種である限り、それが不可能だということは互いにわかっている。
けれど果たせない願いでも琥珀には十分だった。
十分に、想ってもらって、生きてきた。だから、
「遠いところになんて連れていかないで」
顔をあげた丈の頬を、琥珀は両の手で挟む。
密やかに一つの願いが咲く。
今度は自分が丈を助けたい。
「丈さんに、こうやって触れられる場所。ここがいちばん、私が幸せな場所なの」
「それが…お前の望みなら」
見上げる丈に琥珀がにこりと応えた。
「………」
「………」
「…たまに間違えるな。呼び方」
「やっぱり…気づいてた…?」

洗濯機が止まって乾燥も済ませた。
紙袋にまとめた衣類を、あとは部屋に持って帰るだけだった。
しかし丈と琥珀は部屋のある階を通過して、さらに上へと階段を上っていた。
琥珀曰く、
「洗濯機が終わったら、次はお日さまに当たらないと。お洗濯した気にならなくて」
だそうだ。
コツ、コツ、コツ──…、
右手は前を行く琥珀の左手と繋がれて。
左手は乾いた洗濯物の入った紙袋を抱えて。
一段一段、短い音を立てて上る琥珀の靴を、丈は見る。
付き合いはじめた頃、というのだろうか。
あの頃からだと思う。琥珀が特にヒールのある靴を選ぶようになったのは。
「琥珀」
「なぁに?」
「いつも思っていたんだが」
「うん」
「踵の高い靴は、歩きにくくないのか?」
慣れない頃にはふらついていた記憶すらある。
スーツを着ている時なら、丈にも履く理由が分かる。
しかし琥珀は普段からヒールのある靴を好んで履いている。…流石にもう転ぶことはないようだが。
「……。理由、知りたい?」
「ああ」
琥珀が階段の途中で立ち止まり、丈も一段下で足を止めた。
二人きりの空間で琥珀の瞳が丈を見下ろす。
手を繋いだまま、一段降りて丈に並ぶ。
今度は丈が、琥珀を見下ろす距離になる。
靴を脱ぐとまた離れる。
「ね?」
はい、おしまい。
琥珀が、右足の爪先を伸ばして靴に滑り込ませた。
マニキュアの塗られた爪が黒いストッキングに薄く透けて丈の目を惹く。
次に左足。
片足だけ靴を履いた不安定な状態のため、繋いだ手に力が入る。
「ちょっとだけ、支えててね…」
「大丈夫だ」
ちゃんと支えていると丈が答え、琥珀は細い足首を動かして、足を靴に馴染ませた。
琥珀の頭が少し、近くなる。
「納得した」
「人には言ったことないけど。…本当はね、少しだけコンプレックス」
「誰にも言わないでおく」
「うん」
こくりと頭を動かした琥珀が先に階段に足を乗せ、丈も続く。
「もう少しでいいから、身長、欲しかったなぁ」
「今のままで丁度良い」
「本当に?」
「ああ」
そう…かなぁ、と、満更でもない様子の声が、華奢な背を越えて落ちてくる。
細い背中。
この背中を、敵の只中に一人で残したことがある。任務の現場で。何度も。何度も。
作戦だから仕方が無かった。
そう言ってしまうのは簡単だ。
けれど、作戦を無視して引き返したいという思いが、丈の中にはずっとあった。
走り、戻って、この手を掴んで逃げたかった。
今だってそう思っている。
琥珀を戦いから引き離して、何の危険も、心配も無い場所へ。
しかし琥珀は、丈が一緒でなければ絶対に首を縦には振らないだろう。
そして琥珀一人を逃がした場合にどうなるかは、先日の件で実証済みだ。
丈はひっそりと息を吐く。
無謀で真っ直ぐすぎる琥珀。
この琥珀を、自分はどうしようもなく愛しているのだ。
非常灯が灯る飾り気のない階段を、ゆっくりと上る。
「もうすぐ屋上だね」
期待に満ちた琥珀の声が丈を現実に引き戻す。
「外、晴れてると思う?」
一階の喫茶店で食事は済ませた。
冬の朝は薄暗い。
窓の外を行く人々はコートの襟を合わせて歩いていた。
「どうだろうな」
「もう。丈さんってば投げやり」
「…晴れていたら、お前の好きな日向ぼっこをすればいいし、もし曇っていたら」
「……曇ってたら?」
「暖かな部屋に戻って、一緒に洗濯物をたためばいい」
「…私の部屋で?…それとも丈さんの部屋で?」
「琥珀はどっちがいい?」
「………。ドアを開けたら、考えようかな」
最上段の狭い踊り場に琥珀が立ち、その一段下に丈が立つ。
ドアに手をかけた琥珀が丈を見下ろす。
なんだかちょっと、どきどきする、と。
晴れていても、そうでなくても、負けの無い賭け事。
それもそのはず。
互いの手が繋がれている限り、此処こそが──


170609
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