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touch










独特の異臭が鼻をつく。
あまり使われることのない古びた部室棟と呼ばれるこの校舎は、梅雨を前にして黴の匂いが充満していた。
近々取り壊されるという話だったが、それがいつなのか静雄は知らない。
部室棟は既に新築されており、すべての部活はそちらに移っていることを考えれば、取り壊しは間もなくなのかもしれなかった。
歩くたびに鳴る木造の廊下は夕暮れの迫ったこの時間に不気味に響いた。
ふと、昼休みに新羅の言っていた言葉を思い出す。

「あそこには幽霊が出るっていう噂だよ。」

静雄は幽霊という存在を信じてもいないし、かと言って否定するつもりもない。
ただ得体のしれないものに対する恐怖心や不安感はそれなりに持ち合わせていたので、背筋が少し寒い気がした。
Lの字を描く廊下を突き当たった場所が目的地だ。
静雄はそこの掃除を命じられていた。

「だいたい取り壊しが決まっている校舎を掃除するってのは非効率な話だよ。」

また新羅の言葉が脳裏を過った。
この半端な時期にクラスごとに掃除の当番が割り振られ放課後の20分を掃除にあてろという高校生には無茶な清掃強化週間命令がくだされた。
静雄のクラスの当番がこの旧部室棟のトイレ掃除だった。
朝のHRを時間いっぱい使っても、そこの掃除を買って出る班は現れなかったため、新羅が手を挙げた。

「だけど裏を返せば使っていないんだから、掃除したかどうかだって誰も確認を取れないだろう?というより取らないはずだ。つまり、僕たちの放課後は守られるってわけだよ。」

新羅ははじめから掃除に参加するつもりなどなかったらしく、悪びれた風もなくそう言うと、一目散に帰路へついてしまった。
静雄は残された教室で迷っていたが、教室の清掃を始めた女子たちの視線に負けて、席を立った。
鞄を持って、玄関で外履きに履き替えるが、足は旧部室棟へ向かっていた。
校庭では石拾いをしたりトンボをかける生徒の声が聞こえる。
裏庭でも草を取る生徒がいた。
それを見て、静雄の歩みは早くなる。


清掃週間に参加するつもりは静雄にも、今日の昼休みまではなかった。
新羅の言った通り、壊されることが決定している建物を掃除する無意味さも感じていたし、今までの感謝の気持ちでときれいごとを並べられても、だだの1度も足を踏み入れたことのない部室棟に、そんな気持ちも湧かなかった。
だから静雄は、新羅に倣ってさっさと帰宅する予定でいたのだ。
昼休み。
天気がよく、教室内は人の熱気で蒸し暑かった。
揺れる木々を見て、少しでも風のある屋上で食事をすることを決めたのは静雄だった。
数人のグループが屋上で昼食をとっていたが静雄の姿を見ると、そそくさと退散するグループもいくつかあった。
程よい日陰に陣取り、コンビニのビニール袋を漁る。
隣に座った新羅も弁当箱を喜々と広げる。

「そこ俺たちの予約席なんだけどなあ」

聞き覚えのあり過ぎる声に振り返ると、そこには臨也と門田がいた。
そんなシステムねえだろ、と門田が冷静につっこみを入れて、静雄の隣に腰かけた。

「うわあ、シズちゃんのお昼貧相!」

臨也が冷かしてくるのに、怒りを抑えてパンをかじった。
新羅は弁当の中身をしきりに自慢している。
ふたりのおかげで好きな菓子パンの味が少しもわからなかった。
静雄は早々に食事を切り上げ、貯水塔の影に向かう。

「静雄、もう予鈴なるよ?」

「いい。寝る。」

次の授業は体育だった。確かハンドボールをやると言っていた。
この暑さの中、体を動かすのも億劫だったが、力をうまく加減できない静雄がハンドボールに参加できるはずもなかった。
新羅はそれを理解しているのかしていないのか、了解と言って屋上を出て行った。
静雄はそれを確認すると目を閉じる。
風が気持ちよかった。
直接日差しを受けると何より暑いと思い日陰に寝転がったのに、段々と午後の太陽は移動を始める。
本鈴が鳴り、校庭で生徒の声が聞こえ始める。屋上に人の気配は既にない。
ついに、日差しは瞼を焼き始める。
静雄は微睡んでいちばん気持ちのいいときに水を差した太陽をうらめしく思ったが、今目を開けたくはなかった。
ふいに、横切るように影ができる。
痙攣していた瞼が落ち着きを取り戻す。

(誰…?)

誰かが太陽を遮ったということはわかったが、それでも静雄の瞼は持ち上がらなかった。
ふと、花のような甘い香りが漂う。

(この、匂い、)

その匂いの持ち主を静雄は知っていた。
香りの主は、静雄の額に指先を置いた。
それはとても優しい手つきだった。

(いざ、や、)

さらりと髪を掬っては、はらはらと散らす指先は優しく曖昧な足取りで頬へと落ちた。
微睡の中とは言え、負の感情が微塵も湧かないことに静雄は少し驚く。
それどころか、気持ちがいいとさえ思ってしまう自分に動揺した。
やがてすっぽりと頬を包まれて、親指で撫でられれば、浮上していた意識がまた眠りの中へ落ちていく。
最後の力で、瞼をうっすらと開くと、この暑さの中涼しい顔で学ランを羽織った臨也が、指先同様優しくほほ笑んでいた。

(きもち、わり)

心の中で悪態を吐くが、それとはまるで正反対の心地よさに逆らえず、臨也の真意をはかることもできずに静雄は睡魔の手に落ちた。

なぜこんなことをするのか。
なぜその手つきはやさしいのか。
なぜそんな顔をするのか。
なぜ自分はそれをもっとと欲しているのか。
モヤモヤとした疑問の渦は帰りのHRまで続いた。
このまま家に持ち帰っても解決するわけではないし、だからと言って臨也にぶつけたところでどうにもならないし、どうにかしかったわけでもない。
その頃には放課後20分の清掃の計画を立てるクラスメイトたちの声も聞こえ始め、静雄は後ろめたくなったのだった。
掃除もせずに帰ることと、臨也が寝ていると思い込んで触れてきたことを隠し見ていたことに。




そして辿り着いた軋んだ旧校舎のトイレの前。
少し先へ行けば2階へ続く階段が見える。
妙なところで律儀な自分の性格を少し呪った。
心の中のわだかまりはまだ渦を巻いていて、無心で掃除をすることで払えるかもしれないという希望も持っていた。
衣替えもまだだというのに、昼は蒸し暑い。
ブレザーはとっくに脱ぎ捨てていたので、静雄は白いワイシャツの袖をまくった。
長方形の中に男子用トイレが3つと個室が2つ。
入口には水道があり、その横に掃除用具が入った棚がある。
照明は機能していないのか、スイッチを入れても反応はなかった。
じっとりと淀んだ空気が重い。
汚れたタイルに一歩踏み出す。

カタンッ

個室から小さな物音が聞こえた。
無意識にビクッと肩を竦めて個室を見る。
使われてはいないが立ち入り禁止になっているわけでもないこの校舎に誰かが居てもおかしくはない。
使用中なら悪いと思い、いったん廊下に出て少し待ってみるものの、気配が動くことはなかった。
悪いとは思うが、ここの空気を長い時間吸うのも嫌だと静雄はまたトイレのタイルを踏んだ。
掃除用具の棚を開けてバケツとデッキブラシとホースを取り出す。
ホースを蛇口にはめて、バルブを捻る。
バケツに水が溜まる間に、窓を開け放した。

カタン

キュっとバルブを必要以上に強い力で締めると、また個室で音がする。
そろそろ出てくるのか、と水道を使えるようにホースを抜く。
それと同時にポケットに入れていた携帯が震えたのでまた廊下へ出る。
見知らぬ番号からの着信だった。

「はい」

『もしもしシズちゃん?』

「ああ?」

『ねえもしかして今、旧棟にいたりする?』

思わず力が入って握った携帯がみしりと音を立てた。
それは天敵からの電話だった。
どきっと心音が跳ねる。

「ってめえ、なんで番号知ってんだよ」

『いつだってそこらへんに携帯放り出してるシズちゃんが悪いよ。そんなことより旧棟にいるの?』

「掃除してんだよ」

正直にそう言えば、受話器の向こうの相手は隠しもせずに笑った。
誰のせいで、と静雄は思ったが口には出さない。

『清掃強化週間、律儀に守っちゃってるの?ぷは!真面目だねえシズちゃん』

「うるせえな、切るぞ」

『そんなこと確認せずに切ったらいいのに。ほんとシズちゃんって』

バカだよね、という言葉を聞かずに静雄は携帯の電源ボタンを強く押した。
後ろめたいなんてことを感じる必要はなかったかもしれないと静雄は少し後悔する。
廊下に放り投げた鞄の上に携帯も投げると、もう一度シャツの袖をたくし上げた。
窓の外からは校庭にいる生徒の声が小さく聞こえる。
もう部活が始まったのかもしれない。
静雄は時間を確認する前に携帯の電源を落としてしまったことを少し後悔しながら舌打ちをする。
臨也からの電話、進まない掃除、心のモヤモヤした霧が増したように感じる。
もう使用中の人間のことなど、どうでもいいように思えた。
棚から洗剤とトイレ用のブラシを取り出す。
洗剤を便器にかけてこするがしみついた汚れが落ちるとは到底思えない。
3つの小便器を洗い終えたが、結局汚れは落ちず、掃除前と変わらないように思えて新羅の言った通りだった、と静雄はまた舌打ちをした。
最後のひとつの水を流すと、流水音に紛れて個室から小さな声が聞こえる。
それはくすくすと笑っているようだった。
そこで静雄はひとつの可能性に気が付いた。
以前、臨也から聞いた話だった。
正確には、臨也が新羅に話していた内容を聞くとはなしに耳にしていた話だ。

「最近は旧棟を使ってるんだよ。けっこう需要が多くてね。あそこなら人目につかないし、便利だったんだけど。」

「残念だったね。君の悪行のせいじゃないのかい?旧棟取り壊しの件は。」

「人聞きの悪い。善行だよ、俺のしていることは。欲しい情報を与えてそれに伴う謝礼をもらってるだけじゃないか。」

臨也がおかしな商売を密かに行っていることは知っていた。
興味もないし、あんなとことん性根の歪んだやつから流れる情報なんてものに金を払う人間の気がしれないと思っていた。
取引の場所が旧棟、さらにさっきかかってきた臨也からの不審な電話。
もしかして、この個室にこもっているのは臨也なのではないか。
静雄はそう思うと、今すぐにでもこの個室の扉を蹴り壊したい衝動に駆られる。
それを奥歯を噛んで抑えると、なみなみと溜まったバケツをひっくり返した。
ばしゃん、とタイルに弾けた水が流れて、あっという間に床一面を濡らす。

カタタン

個室の主は慌てているだろうか。
だいたい掃除をはじめて15分は経過している中、未だ出てこないだけでも怪しい。
時折聞こえる物音や小さな声は、とてもじゃないが用を足しているとは思えない。
臨也だったとしたら扉を壊して引きずり出してやるところだが、臨也じゃなくても水を流すくらいのことは許されるだろう。
開けた窓の外を見ると、既に太陽は沈み始めているのか、赤い影ができている。
バルブを捻って水を止めた。
個室から音はしない。
デッキブラシを取って、タイルを撫でた。
しゃりと予想したより大きな音が鳴る。

(臨也なら、)

臨也ならじっとしているはずがないのだ。
ビデオでも回して静雄の掃除シーンを撮影しているならまだしも。
この状況下で静かにしていることなんて、あの男にはできないと断言できるほどには静雄は臨也のことを知っていた。

(たとえば、)

たとえばこの個室の中にいるのはなんの罪もない生徒もしくは教師だったとして、布ずれの音ひとつさせずにこもっている理由はいったいなんだ。
ここの掃除をしているのが静雄であることは、さっきの電話でもしかしたらわかったかもしれない。
だから出るに出られなくなって、中で震えているというのなら話はわかる。

(笑い声、)

しかし、さっき聞こえた微かな笑い声。くすくすとせせら笑う声。
その声を思い出したところで静雄の背筋に悪寒が走った。

「あそこには幽霊が出るって噂だよ。」

新羅の言葉がよみがえる。

「だからみんな近づきたがらないし、取り壊しもその騒ぎがあったからなんじゃないかな。」

新羅は興味もないような素振りで話していた。

「いじめを苦にして、あそこで自殺したとかなんとか。眉唾だけどね、火のないところに煙は立たないから。確か、場所は、」

無意識にデッキブラシから手を離していた。
カツーンという甲高い音で我に返る。
まさか。
その一言を脳内で発するのがやっとだった。
窓の外から生ぬるい風が頬を撫でた。
一瞬で手首から肩まで粟立つ。

ガタン

さっきより大きな音が個室から響いた。
知らず静雄は一歩後ずさる。
外はまだ明るいのに、照明のつかない室内は黴臭い雰囲気も相まって暗い。

(そうだ臨也なら、わかる)

臨也にだけ発揮される第六感は、嗅覚を刺激する。
臨也があくどいことを考えて静雄のそばに居ればかならずにおう。
それが校舎の古ぼけた匂いとトイレのアンモニア臭で麻痺していない限り、臨也がいれば静雄にはわかるはずなのだ。

(なら、これは、)

ここにいるのは誰だっていうんだ。

クスクス

個室からまた笑い声が漏れる。
その音は、脳に直接届くように震えた。
ガンと音がする。
不恰好に反応して音がした背後を振り返ると、自分の踵が空っぽになったバケツにぶつかっていた。
無意識に後退したいたことに気付く。
つう、と冷や汗が額を流れた。




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