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touch 2







ガタンッッ

一際大きな音が個室から鳴った。
個室の扉を殴っているような音だ。
静雄は踵を返した。
自分で蹴っ飛ばしてしまったバケツの音にも心臓が跳ねる。
ふわりと風が全身を撫でる。
キイと錆びた蝶番が音を立てて、個室の扉が僅かに開いた。

(な、なんで、)

静雄はトイレの入口に目線だけをうつした。
入口の扉はぴったりと閉まっていた。
中に引くタイプの扉を力任せに引っ張る。
背後でまたキイィと音がした。
外に出て、後ろ手で扉を閉じ廊下を見ると、そこには。

「シズちゃん?」

「……ッッッ!!!」

傾きかけた夕日に照らされた臨也が立っていた。

「どうしたの?」

静雄は咄嗟にらしくもない悲鳴を上げそうになって両手で口をおさえた。
便器掃除をした手だったと考える余裕はまだない。

「顔、真っ青。」

臨也が静雄に近づく。
臨也は珍しく、不可解だという表情を隠していない。

「震えてるの?」

シズちゃん?と訝しんで臨也が手を伸ばした。
その手は静雄の肩にかけられる。
静雄の体が冷えていたのか臨也の手は意外にも温かかった。
肩先からじんわりと熱が広がると、静雄はやっと口をおさえていた手をはずし、勢いよく臨也の手を取る。
そのまま廊下を横切り、臨也を押しやって窓際に押し付けた。

「ちょ、何シズちゃん」

「うるせえ」


臨也の腕をつかんでいる静雄の手はまだ少し震えていた。
それに気づいた静雄は慌てて臨也をつかんでいた手を離す。

「どうしちゃったのシズちゃん。お掃除は終わったわけ?」

尋常じゃない静雄を不審そうに臨也が見る。
静雄は黙ったまま手のひらを見た。汗で湿っていて未だにカタカタと震えている。

「顔真っ青だよ。汗も。何かあったの?」

臨也が汗で額に張り付いた金色の髪を梳いた。
普段なら殴り飛ばすその行為を静雄は目を閉じて受け入れる。
目を開ければ、さっきまでの西日も影を潜めたように薄暗い。
また悪寒がして、背後にある男子トイレの扉を振り返った。

「臨也、」

「なに?」

「ここで、なんかやってんだろ、てめえ」

「え?ああ、情報屋のこと?やってるよ。ここの元手芸部の部室でね。」

「手芸部?トイレじゃねえのか。」

「トイレなわけないじゃない。俺は見ての通り潔癖だよ?そんな薄汚いところ使わないよ。」

それを聞いて、よくよく考えてみればその通りだと静雄は妙に納得した。
それじゃあ、やっぱり、あそこにいたのは。

「ここ、なんか、出るだろ」

静雄はまたちらりと目線を背後に移す。
臨也はきょとんと瞬きをすると、口角を歪めた。

「なんかって、まさか幽霊とでも言うつもり?ちょっとシズちゃん、もしかして幽霊が怖くてそんな真っ青な顔して俺に縋り付いてきたの?」

「縋り付いてなんかねえだろ」

縋り付いてきたじゃない、と臨也は静雄の手を取る。

「こんな震えた手でさあ」

つかまれた手は、まだ微かに震えていた。手汗が気持ち悪い。
静雄は言葉に詰まる。

「そんなんじゃねえ、けど、さっき」

静雄は話し出した。手は臨也に繋がれたまま。
誰かに吐き出して、そんなはずないそれは夢だと否定してもらいたかったのかもしれない。
臨也は珍しく横やりを入れずおとなしく静雄の話を聞いていた。

「だから、なんか気味悪くなって、」

さっきまで冷や汗をかいて震えるほどだった体験が、話してみればなんとも安っぽい話に聞こえて静雄の胸は少し軽くなる。
ただの、気のせいだったのかもしれない。そんな風に考えることができた。
臨也のおかげ、とまでは言わないが、こいつが来て良かったと少しだけ思う。

「シズちゃんが怖がる姿を間近で見たかったな。ね、今度お化け屋敷にでも行こうか?」

「誰が行くか」

「ハハ!もっとシズちゃんを怖がらせてあげたいんだけど、そんなシズちゃんに、いいこと教えてあげる。」

なんだよ、と静雄は幾分バツが悪いように顔を逸らした。

「ひとつめ。この男子トイレの個室の上に換気扇がついてただろう?壊れて回らないんだけど風が吹けば外のファンは回る。それが案外うるさくてね、カタカタと音がする。」

「え、」

「ふたつめ。風の音が隙間を抜けるときに鳴る音は人の呼吸音に大昔から間違えられて、怪談にも多く採用されてるし、立てつけの悪いただでさえ古い旧校舎を風が通れば扉が少しくらい開くのも不思議じゃない。」

臨也の言うことはすべてが最もだった。
何も不思議はない。ただあの雰囲気にのまれていただけだ。
静雄は急に恥ずかしくなった。

「みっつめ。旧校舎に幽霊が出るっていう噂。あれは元々この学校に存在していた話だけどイジメだの自殺だのっていう尾ひれをつけて広めたのは俺。この校舎に近づかせないようにしたくてね。それまでは噂と言っても一部の教師くらいしか知らないような小さな話だったんだよ。」

ニヤリ、と笑う臨也と目が合った。
静雄は自分の顔が耳まで赤くなるのがわかった。

「シーズちゃん、なんてかわいいんだろうね。そんな話に惑わされて真っ青になっちゃってさあ。あの顔、写真でも撮っておけば良かったねえ」

「臨也、てめえ」

「まぁまぁシズちゃん、良かったじゃない。何事もなくってさ。ちなみに元ネタの噂では、幽霊は女の子だって話だよ。間違ってもきったない男子トイレには出ないから、安心しなよ。」

今にも殴り掛かりそうな静雄を制して臨也は続ける。

「それに、幻想だとしてもそんな恐怖を払拭してあげたのは他でもなく俺でしょう?」

原因の一端も臨也にあるのだが、静雄はそれもそうかと納得してしまい準備した拳から力を抜いた。
そして今の今まで臨也に手を握られていたことに気付く。
気が付いたのに、静雄は振りほどこうとも思わなかった。
手の震えはいつの間にかおさまっていた。
臨也に心配されたり、髪を梳かれたり、手を握られても、嫌悪を感じない。怒りも湧かない。
これが恐怖のなせる技だとしたら、この手を乱暴に解こうとしない今も静雄は何かに恐怖していることになる。

「シズちゃん?」

急に黙ったまま俯いた静雄を覗き込むように臨也が見た。
手をつないでいるのとは逆の手で静雄の頬に触れる。
汗で冷えていた頬に、やっぱり臨也の手は温かった。

「さっきも思った。」

徐に静雄は口を開く。
何に怖がってるというんだ。目の前にいるのは、折原臨也だ。

「てめえに、てめえとふたりっきりのときに、静かに触られても、別に、むかつかなかった。」

「…へえ、」

臨也は頬から、手を耳の方へ移動させ金糸を掬って耳にかける。

「なんだよこれ。」

「え?」

「なんなんだよ。むかついたり、むかつかなかったり。」

「知らないよそんなシズちゃんの感情の機微なんて」
静雄は臨也の言葉をぜんぶ聞かないうちに、繋いでいた手を振りほどくとすぐに手首をつかんだ。
臨也は驚いたように静雄を見る。
静雄は勢いよく振り返ると臨也の手を引き進んだ。
ぴたりと閉められた男子トイレの扉へと。

「ちょっとシズちゃん!」

日はほとんど暮れてしまい、外は夜に近い。
静雄は取っ手に手をかけ、ぐんと中へ押した。
シンとまるで異空間のように音を吸い込む長方形の部屋。
床にはさっき静雄が転がしたデッキブラシとバケツがそのままある。
窓も開け放したまま、風がほのかに流れた。
扉を固定して、臨也の手を引っ張り中に引きずり込む。

「なんなの、いったい…」

照明の機能しない夜の男子トイレは、夕暮れ時よりもいっそう不気味さが増す。
窓の外から聞こえる生徒の声がまだ救いのように思えた。

「開ける。」

「は?」

「このドア、」

静雄と臨也は件の個室の前に立った。

「だからシズちゃん、君が体験したのはぜんぶ幻だったんだよ。すべて自然現象。ここを開けたって、なんにもないんだ。」

「そんなことはわかってんだよ。」

静雄にも、なぜこんなことをしようと思ったのかわからなかった。
ただ、はっきりさせたいと思った。
ファンが風で回って音を立てることも、隙間風が笑い声に聞こえることも、立てつけの悪い扉が自然に開閉することも理解できた。
それなのに、この扉を開ければ何かがはっきりすると静雄は思った。

「開けるのなんて簡単なんだ。」

「は?」

「ただ引きゃあいいんだろ。だけどそれまでうじうじ考えるから怖くなる。」

「何言ってるのシズちゃん」

「知りたくないのに、知らなきゃ進めねえんだよ。」

なんの話、と臨也が言い終わる前に静雄は扉に手のひらをあてた。
キィィと耳を裂く音が小さく鳴る。
ふわりと耳元で風が渦を巻いたような気がした。
臨也と繋いだ手は、お互いの汗で少し滑る。
ぎゅっと握りなおして静雄は、扉にあてた手に力を入れた。

「そこにあるんだから、知らないふりなんか、できねえ」

静雄は小さな低い声でそう言うと、バンと扉を押し開けた。

「…はは、」

臨也が力なく笑った。
扉の中には、なんの変哲もないただの便器が鎮座していた。
「だから言ったじゃない。なんにもないって。」

臨也は笑っている。
いつもの嫌らしい笑みではない。大笑いをこらえているような、どちらかと言えば無邪気な笑みだ。
つられて、静雄も笑ってしまった。

「その割には、てめえも緊張してたんじゃねえか」

ぐいっと、繋いだ手を眼前に持ち上げる。
臨也の指先は白くなるほど静雄の肌に食い込んでいた。
ばかばかしくなって、臨也はその手を自ら解いた。
いとも簡単に離れた手は、急に冷たくなっていく。
それがさびしいなんて、この薄気味悪い旧校舎のせいだとお互いに思い込む。

「ほんとに、シズちゃんの行動は予測できない。」

「そうかよ」

静雄は、ひんやりとした手で、デッキブラシとバケツを拾うと掃除ロッカーの中に押し込めた。
臨也が入口の扉を引いて廊下へ出る。

「もうすっかり夜だ。」

静雄も後に続いてトイレを出た。
扉が閉まる直前に、あの個室を見るが、それはやっぱりただの個室だった。

「さみい」

「当たり前だよ、シズちゃんブレザーどうしたの?」

「教室」

「取りに行く?」
「行かねえ」

放り投げてあった鞄を拾い上げて、臨也と静雄は肩を並べて廊下を歩いた。

「そういや、なんで電話してきたんだ」

「ああ、見えたんだよたまたま。シズちゃんがこの校舎に入ってく姿が。公式の取り壊しの前に君に壊されたら嫌だなと思って追いかけたの。」

「ふうん」

「そしたら掃除してるなんて、ほんとシズちゃん真面目だねえ」

旧校舎の玄関にさしかかって、臨也が足を止めた。
ふわりと花の香りが舞う。
臨也の指先がまた静雄の頬に触れた。

「今日のシズちゃんは、触っても、怒らないんだね。」

頬を滑った臨也の手は静雄の耳の後ろを撫で上げた。
静雄は嫌悪を感じない。怒りも湧かなかったが、それを不思議にも思わなかった。
得体のしれないものは、わからないから怖くなる。
一握りの勇気を持ってドアを開けてしまえば、何を難しがっていたのかわからなくなるくらい単純な答えしか待っていないのだ。
静雄はそっと目を閉じた。

「別に、てめえのその手つきは嫌いじゃねえ」

口元をゆるめてそう言った静雄に臨也は瞠目するが、すぐに平静を取り戻して笑った。「奇遇だね、俺もシズちゃんのこと、嫌いじゃないよ。」

鼻先が触れ合うくらいまでぐいと顔を近づかせた臨也が小さな声でそう言った。
静雄は目を開けて、その整った顔を見た。
嫌らしいいつもの歪んだ笑みをしているのかと思ったそれは、予想を裏切って穏やかな泣き笑いのような表情をしていた。
そして自分も大差ない表情をしているんだろうと思って再び目を閉じた。
静かに、触れたのか触れてないのかも曖昧な感触が唇を通る。
それがキスだなんて、おこがましい程の拙さだった。
次に静雄が目を開けると、周りは夕闇に包まれていた。
臨也は既に玄関を出て笑っている。

「ほらシズちゃん、早くしなよ。」

静雄はそれに従って、敷居をまたぐ。
今日は散々な一日だった。
バタンと大仰な音が鳴って玄関の観音開きの扉は閉じた。
臨也がかがんで、ガチャンと古びた鍵をかけた。

「鍵なんて、なんでてめえが持ってんだ」

「なんでって、シズちゃんこそ、そういえばどうやって入ったの?ここの鍵は俺しか持ってないはずなんだけど。」

「…ふつーに、開いてた」

「だって教師騙して唯一の鍵を預かってるの俺なんだよ。閉め忘れるはずないし。」

さあ、っと生ぬるい風がふたりの間を通り抜けた。
静雄はぞわりと肌が粟立つのを隠すように腕をさすった。

「わ、忘れてたんだろ。それかもう一個鍵があったとか、」

「そんなはずないよ。ここの掃除もするから開けておけって教師に言われたんだけど、新羅が当番になったって聞いたから開ける必要ないなって、そのまま今日はここに来なかったし、」

「うるせえ、もういい帰る。」

臨也はまだ考えるように首を捻っていたが、静雄はここにこれ以上留まるのが嫌で歩き出す。

「待ってよシズちゃん、」

大股で歩く静雄に追いついた臨也が、静雄の襟元に目をやるとそこには髪の毛がついていた。
人差し指と親指でつまみあげると、真っ黒なそれは臨也の髪の3倍ほどの長さがあった。
ひらりと、それを放すと、そういえば男子トイレの真上は女子トイレだったなあと思い出した。
風に乗った長い漆黒の髪は、すぐに闇に紛れて見えなくなる。
ちらりとそびえる旧校舎を見上げると、二階の窓が開いているように見えた。
なびく黒く長い髪も。

「ふふ、」

「何笑ってんだよ気持ちわりい」

「いやあ、今日の俺は、幽霊にさえ感謝したい気分だよ。」

「なんだそれ」

臨也は持っていた小さな鍵を裏庭の池に投げ入れた。
ぽちゃんと音がして鍵は沈む。
新しい隠れ家を探さないとなあ。
そんなことを考えながら、臨也は静雄のとなりに肩を並べた。











凍えるブルー

















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