アウトサイダーより哀をこめて
名瀬泉。異界士の間で知らないものはいない、空間を制御する檻の使い手である名門名瀬家の長女。若くして統括の座に就き、異界士としての能力も申し分ない。統括になる前に査問官にならないか協会から声が掛かったが、それを断り現在に至る。
そうして泉が蹴ったその査問官の肩書を与えられたのが藤真弥勒だ。言霊の異能を持つ彼もまた異界士として優秀なのだが、周囲の目は厳しかった。名瀬泉の代わり。彼女よりも劣る、未熟者。
もし泉が査問官の道を今後選ぶことがあれば、藤真は今の立場を追われることになる。あくまで藤真は空いた穴を埋めるために据えられたスペアでしかない。それが、彼の精神を少しずつ蝕んだ。
泉が査問官になることを選ばなかったのは、彼女の弟の博臣が年齢もそうだが、精神的にもまだ未熟であることが原因ではないかと噂されている。それは、返せば博臣が名瀬を継ぐのに十分な器であると判断されたら泉が統括を降り、査問官となるかもしれないということだった。
いつ捨てられるかわからない不安を常に抱きながら職を全うする日々。そんなのが続いたある日、ふと藤真の心の内に一つの感情が沸き上がった。
居場所が欲しい。
強く、そう思った。
それは、名瀬が半妖討伐に向かった日のことだった。
お気に入りのバナナオレを啜りながら、眼下で行われる子供同士のやり取りをじっとりと見つめる。初めこそ好戦的な様子を見せていたが、どうやら保護する方向で話がまとまりそうな流れを見て藤真は眉根を寄せた。
一度仕留め損ねた半妖、神原秋人の報告は藤真も協会から受けていた。そして、あの名瀬が討伐に向かったから観察してこいと指示を受けこうして訪れたのだが、まさか大した戦闘もせずに保護という結論に達するとは思わなかったのだ。
「ぬるいなぁ」
見下ろす瞳には冷たい光だけが宿る。藤真は妖夢を快く思っていなかった。そして、人間も好きではなかった。
ことあるごとに泉と比較され、全てを無為にされる。藤真弥勒という存在は認められず、名瀬泉の代わりとして申し分ないように努め続けなければならない。どれだけ努力を重ねても、足りない分を妖夢で補っても、協会は藤真ではなく泉を欲した。
それから一気に世界が色褪せて見え、虚ろな感情と妖夢だけが藤真の中に残った。身体に巣食う妖夢は泉と同じものなのに、泉のように必要としてもらえないもどかしさが生傷のようにいつまでも痛む日々。
無意識に力がこもった手が容器を潰し、まだ残っていた中身が零れて藤真の手袋を汚した。ポタポタと落ちる液体を鬱陶しそうに拭う。
「妖夢なんて、人間を食らうだけの化け物なのに……」
呟く声音には、憎悪が滲んでいた。異界士だった自分は誰にも受け入れられなかったのに、半妖が名瀬に受け容れられようとしている光景に奥歯を噛み締める。
そこからは、あっという間だった。感情が突き動かすままに、藤真は妖夢の力で秋人を襲い、半妖の部分が目覚めた秋人によって名瀬の異界士たちは皆怪我を負い、博臣は瀕死の重傷を負った。
一連の流れを見て藤真がまず最初に思ったのは、秋人の半妖の部分についてだった。
災厄にして最悪の妖夢。過去にも一度観測され確かに討伐された境界の彼方ではないか、と。
協会が立てた仮説だったが、今回の観測でその説が濃厚であると藤真は結論付けた。
そして、もう一つ。
名瀬がこの事をきっかけになにか画策するだろうと藤真はいやに確信めいて思った。
名瀬の末妹である美月が秋人へ向かって投げたものが「呪われた血」を含んだカプセルだと報告を受けた泉の表情を藤真は見逃さなかった。
呪われた血というのは、血を操る異能を持った者のことだ。触れるだけで内部に侵食し、あらゆるものを死へ追いやる能力。異界士の間でも異端とされ、その力の強大さから忌み嫌われてきた一族である。全滅すら有り得たあの状況で秋人が沈静化したのは美月の投げたそのカプセルのおかげだ。
結局誰も秋人を責めることはせず、最初に美月が提案した通り「保護する」という方向で収束した。皆ボロボロになり、一人は殺されかけたというのに、だ。
藤真は混乱のまま、深緑色の眼鏡を指で押し上げる。
妖夢は人を餌にした存在。そこから何も生まない、何も救わない、何の糧になることもない。強いて言うなら、異界士という職業を支えるだけのもの。
実際、妖夢に親しい者を奪われた異界士も少なくない。それを、許すというのか。
信じられない気持ちで見下ろしながら、惑乱する中で一つ沸き上がった感情が藤真の中に残った。濁流の中に小さく光る砂金のようなそれに、縋るように意識を向ける。
「………そうか、彼なら、もしかしたら」
色褪せていた世界に彩りが戻る。
朝焼けに光る空、鼻をつく済んだ空気、眼下で交わされる賑やかな会話。
その中で、まだ癒えない傷に顔を歪める少年をじぃっと見つめる。藤真にとって、ただ一つの砂金になるかもしれない存在。
両腕を大きく広げ、自身を掻き抱くように強く抱きしめる。今までずっと絶望の淵にいたと思っていたのに、あるいはそこから永遠に離れることなどないと思っていたのに。
それが覆るかもしれないと知った藤真の口角が、自然と吊り上がる。
ぽっと灯った、恐らくは希望と名付けるべきものをうっとりと見つめた。今まで否定され受け入れられなかった存在が、許され、受け容れられるかもしれない。
そう思ったら、興奮せずにいられなかった。ずっと求めていたものに手が届く場所にある。それは、身を焼き尽くすかと思うほどに甘美で魅力的だった。
だから、藤真は思わなかった。まさかこれが、長い螺旋迷宮の入り口になるかもしれないだなんて。
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