月明かりに照らされる夜の公園に、青い閃光が走る。空間を切り裂くような固い音と共に、浮かびあがる緑色の液状の物体が弾けた。地面に飛び散った液体は、まるで鉄板で熱されたように蒸気になり空中へと消え失せる。
 静寂が空間を支配すると、博臣は詰めていた息をほぅ、とゆっくり吐き出して額の汗を拭った。
 半妖である秋人が名瀬の監視下について早数か月。雪に覆われていた街も一変し、すっかり夏の陽気に移っていた。背中の傷も、痕は残ったもののすっかり塞がっている。
 つけた本人である秋人は博臣と顔を合わせると気まずそうな表情を浮かべるが、博臣は大して気にしていなかった。異界士として仕事をしていれば当然命の危険に晒される。そんな中で怪我の一つや二つ負うことだってあるし、死にそうな思いをすることだって多少なりともある。
 名瀬家に生まれ、異界士として生きることを選んだ以上「普通」のこととして受け入れているつもりだ。かと言って、どんな言葉を掛けたところで秋人が怪我のことを昇華させることはないだろう。それは時間が解決するか、秋人本人が決着をつけることだ。
 それにもどかしさを感じないと言えば嘘になるが、気にしなくていいというのが我儘だということもわかっている博臣には傷の事に触れないくらいしかできなかった。
 ぎゅう、と手を握りしめる。
 異界士として討伐に出るようになってから、博臣の胸中にはもどかしさばかりが生まれていた。
 尊敬する姉である泉も、溺愛する妹の美月も、もっと他にも色んなものを守れると思っていた。
 だが、経験を積めば積むほど、壁は高く、目標は遠くなっていくように感じる。
 もどかしくてたまらない。
 守りたいものが守れない、手を伸ばしても届かない。
 それが、たまらなく悔しい。
 博臣の檻は一級品とは言われているものの、妖夢化した秋人にあっさりと破られたうえに瀕死の重傷まで負った。名瀬の十八番である凍結界も白昼夢も使えない。
 泉には反対されたが、やはり一度名瀬を出るべきだろうか。
 そう思ったとき、目の前でポコポコと音を立てて緑色の泡が浮かぶ。先ほどの妖夢だ。
 仕留めたと思ったが、どうやら違ったらしい。蒸気になった後気体のまま集合し、再び個体へと戻ったようだ。
 そしてそのまま泡が眼前に迫ってくる。目を潰すつもりなのだろう。
 しまった、と心の中で舌打ちをして手を翳すと、博臣の視界を横切るように銀色の閃光が走った。
 閃光によって弾けた泡を包み込むようにして檻を張り、空間を収縮させ消滅させる。ばちん、と青い光が粒子となって散るのを認めると、先ほどの銀色が走った方向へ体ごと反転させる。


「どうも」


 眼鏡の男が人の好さそうな笑顔を浮かべて立っていた。右手に握られた拳銃が月明かりを受けて鈍く光る。先ほど妖夢を貫いたのは銃弾だったようだ。
 もう用済みだと言わんばかりに銃を収める男を見つめる。流れるような所作に、相当武器の扱いに慣れていることが伺えた。
 人の好さそうな笑顔に対しレンズ越しの瞳はじっとりと、まるで品定めでもするように冷徹な光を宿していた。
 ぞわ、と背筋を嫌な汗が伝うのを感じながら、右手に握ったストールを握りしめる。名瀬の管轄に見知らぬ異界士がいるというのが何を意味するのか、博臣はわかっていた。
 厳しい視線を向ける博臣を見て、男は困ったように笑った。

「そんな怖い顔しないでくださいよ。僕はちょっとご挨拶に伺っただけですから」

 両手を挙げてひらひらと振る。まるで緊張感のない様子に戸惑いを隠しながら、男の意図を探ろうと睨みつける。名瀬の管轄内でわざわざ夜に接触を図る相手を警戒しない方が嘘だ。
 異界士は妖夢を討伐するのが仕事だが、妖夢を敵とする異界士同士が皆仲良しこよしで手を取り合って生活しているわけではない。権力のある家系を面白く思わない人間というのはどの界隈にも必ず存在し、そういった者に足をすくわれ潰された有力者たちの存在を博臣も知っている。そして、名瀬がその標的になる可能性があることも。
 一方、まだ17歳になったばかりだろう少年がしっかりと異界士の顔で睨みつけてくる姿に男は舌を巻いていた。流石に泉ほどの冷徹さはないが、男がどう動いてもすぐに対処できるように隙を見せない姿は流石と言える。
 いいな、と男は思った。

「僕は異界士協会の藤真弥勒と言います。名瀬博臣くんですよね。お噂はかねがね」
「……異界士協会」

すらすらと淀みなく流れるように喋る藤真に対し、協会の名を出されて博臣が警戒の色を濃くした。
 前に一度、姉である泉に「異界士協会に気をつけろ」と言われたことを思い出す。協会が名瀬を良く思っていないことは知っている。それこそ、嫌というほどに。
 泉は以前査問官の座を蹴り、結果的に名瀬が協会の顔に泥を塗ることになった。
 査問官は誰でもなれるわけではなく、協会側から能力を鑑みて選抜される。異界士としては大変名誉なことだ。それが断られたとあっては、協会側は当然面白くないだろう。
 そして、その原因となったのは他でもない博臣だ。泉は何も言わなかったが、博臣はそう思っている。周囲の異界士も思っているだろう。
 実際、一度名瀬家で雇っている異界士たちが噂しているのを耳にしたことがあった。感情を優先させる博臣が不安要素だから、泉は統括の座を空けられなかった、と。
 自分の甘さがそのまま弱さになっていることを博臣はよくわかっていた。人型妖夢の命乞いに対して迷い、隙をつかれて殺されかけたのは記憶に新しい。
 だから秋人や美月に対して厳しい態度を取ってしまったのだが、それも今となっては言い訳だ。
 沈む気持ちを振り切るように、藤真を見つめ返す。

「なぜ協会の方がわざわざこんな時間に?それに、名瀬に挨拶に来たのであれば反対方向ですが」
「あぁ、いえ。僕が挨拶したかったのは博臣くんなので」
「俺に……?」

 藤真の言葉を受けて博臣は少しばかり動揺した。協会として挨拶するのであれば、統括を務める泉の元へ向かうのが筋だろう。当然、藤真だってそれはわかっている。
 であるならば、わざわざ博臣を訪ねた理由があるということだ。名瀬の管轄に踏み入れるためではない、別の理由が。
 藤真の思惑はなにか考えれば考えるほど、悪い予想しか浮かばなかった。
 張り詰めた空気を割くように、藤真が軽やかに笑う。

「少しお話ししたかっただけですよ。名瀬と協会としてではなく、僕と博臣くんとしてね」

だから、あんまり警戒されると困っちゃいます、と情けなく眉を下げて藤真は言った。
 藤真の様子に、今度は博臣が困った。今まで出会った大人の異界士の中でもだいぶ異質な空気を纏っている。
 博臣が会ってきた異界士は皆、泉と比較するような視線を向けるか、あるいは名瀬の坊ちゃんということで蔑むような視線を向けてくるか、取り入るために媚びた視線を向けてくるか、そのどれかだった。そういった相手には事務的に淡々と相手をすれば、あとは仕事の成果が全て解決する。
 だが、藤真の視線はそのどれとも違った。初めてのことに、博臣はどう対処するべきか迷い目を逸らす。
 誤魔化すように緩慢な動きでストールを巻きなおし息をつく。冷え性である博臣には晒される肌の面積が減ることは大事なことだった。
 その姿を見て、そういえば異能の代償で体が冷えると言っていたな、と藤真は思い出し顔をしかめた。それだけ彼の能力が高いということなのだが、それはつまり何にしても無償で手に入るものなどないということだ。あまり、気分のいい話ではない。
 気分は良くないが、世界は一方的な搾取では上手く回らないことを短くない人生で藤真は嫌というほど実感している。だからこそ、自分が今手に入れたいと思っているものにもそれ相応の対価を支払うべきだろうと思っている。
 思っているからこそ、藤真は今こうして博臣の前に現れた。

「ここで立ち話もなんですし、良ければ僕の家に招待しますよ。どうです?」
「出会って間もない人の家においそれと向かうほど無防備に見えるんですか?」
「おや、これは失礼。出来れば他の人には聞かれたくなかったもので」
「聞かれたら困るような話なのか。なら尚更お断りだ」
「うーん、そうではなく。半妖のことについてちょっとした意見交換をしたかったんです」
「は……」

半妖、という単語に博臣は目を見開いた。
 過剰ともとれる反応だが、半妖というのは「存在しない」といわれるほど珍しい。世の中にごろごろといるわけではないし、今のところ一人しか認められていない現状では自ずと浮かぶ人物は絞られる。
 神原秋人だ。彼しかいない。
 そうなると、なるほど確かに泉よりも自分の方が話し相手として妥当か、と納得した。同じ学校に通い監視している博臣の方が、泉よりも自然と詳しくなる。と言っても、何か特別な情報など持っていないのだが。
 警戒心を解こうとしない博臣に、居心地悪そうに藤真が眼鏡を押し上げる。それを見て、思いついたように「あぁ」と博臣は漏らした。

「あれは、眼鏡が好きですよ」
「え? 眼鏡?」
「よかったですね。藤真さん、眼鏡じゃないですか」

全く「よかった」と思っていない調子でそう続ける博臣に、藤真は思わず苦笑した。博臣の監視対象である秋人は眼鏡好きだが、もっと言えば彼が好むのは「眼鏡の美少女」だ。藤真は少女ではなく三十路の男である。恐らくは対象外だろう。
 もし秋人がこの場にいたなら元気にツッコミを入れただろうが、生憎本人は不在だ。誰に否定されることもなく話は続く。

「それは、彼の人間の部分の話でしょう。僕は妖夢側の話をしようと思ったんですよ」

もっと言えば、半妖という存在そのものについて。
 藤真の発言に博臣は眉を寄せる。秋人の話題は苦手だった。名瀬で話題に上がる時も、他の異界士から振られる時も、決まって彼の処遇や今後についての話になる。当然のことだが、あまり気分のいい話にはならない。
 少しばかり逡巡し、博臣は「わかった」と頷いた。純粋に藤真の意見が気になったのもあるが、先ほど妖夢から助けてもらったのに無碍に断るのも気が引けたのだ。
 博臣の返答を受けて腕時計を確認すると、時刻は24時を回っていた。
 藤真は自分の愛車へ視線を滑らせる。

「今日はもう遅いですし、送っていきますよ」
「はぁ、どうも」

 促されるままに乗り込むと、車内には甘ったるい匂いが充満しており博臣は思わず顔をしかめた。無造作に窓際に置かれたバナナオレのパックに視線を向けると、藤真が苦笑しながらシートベルトを締める。

「すみません、バナナオレを零してしまいまして。匂いますかね?」
「まぁ、だいぶ」

控えめにそう返され、少しだけ窓を開けると藤真は車を発進させた。
 わずかに開いた窓から甘ったるい空気が少しずつ抜けていく。代わりに冷たい外気が入って車内を少しづつ冷やし、博臣は身震いした。

「博臣くん、明日放課後は大丈夫ですか?もし宜しければお迎えに上がりますよ」
「特に予定はないから大丈夫ですが」

迎えにくるんですか?と驚いたような顔をする博臣に、藤真は軽やかに笑った。「ご心配せずとも、目立たないようにしますよ」と言う言葉に閉口する。
 そういうことではないのだが、藤真の笑顔に対してそれ以上言う気にならず大人しく引き下がった。
 名瀬の家の近くに車を停めると、藤真は手帳にさらさらと何かを書き、そのまま破いて博臣へと手渡した。紙には電話番号が書かれている。

「それではまた明日」

そう涼やかに告げると、藤真は去っていった。後に残った博臣は、手元の紙を見つめる。
 名瀬の人間である以上、誰にも心を許すべきではない。異界士協会の人間であるなら尚の事、警戒を怠ってはいけない。
 異界士は常に一人である。そう泉に教えられたことを博臣はいつだって胸に刻んでいる。名瀬の異界士として生きていくということはそういうことだと。
 藤真に渡された紙をポケットにねじ込み、なんでもない顔で帰宅する。少しばかりの罪悪感が胸中に浮かぶのを無視して布団に潜り込むと、振り払うように強く瞼を閉じた。




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