一日の業務を終えたカミュは夫婦で使っている部屋へと重い足取りで向かっていた。睡魔でぼんやりする頭でなんとか明日のやるべきことをどんどんリスト化する。
朝一番に客への朝餉を用意、明日出立する客が使った部屋を掃除にメイキング、合間に自分たちの食事に、新規の客を案内して・・この辺りで部屋にたどり着いたのでカミュは一旦考えるのをやめて部屋に入った。
こじんまりとした部屋にはカミュがいつも使う机、ダブルベット、妻の鏡台と大きな揺り椅子がある。燭台を側においてその揺り椅子に座る背中は何やら縮こまっている。ゆっくり近付いて背後から伺い見れば、だいぶ古びた深緑のフード付きチュニックに器用な細い指がひょいひょいと銀の針を操って刺繍をしている。
「・・・・十字?」
「そう、クレイモランにはね、昔から旅人のローブや服の裏地にこうして十字架の刺繍をするの。これを着る人の旅路が幸福でありますように・・って」
カミュは「ふーん」と低い声で相槌を打つとその細い肩に手を置いてゆっくり銀の針の動きを見つめる。このフード付きチュニックは以前カミュが身に纏っていたものだ。これをしまいこんでから、時は随分経った。
星空の合間を縫う暗闇の色をした髪を片側に払いのけた妻は呆れたようにカミュを横目で見た。
「・・まだ納得いってない?」
「・・・・別に」
「ほら、納得してない」
返事をやめれば肯定と受け取ったらしい妻は肩をすくめてまた刺繍を再開する。十字が出来ていく様をぼんやり見ながらカミュは一週間前のことを思い出していた。
「・・・・父さん、俺、旅に出たい」
そんな言葉を聞いたのは珍しくからりと晴れた朝だった。夜のうちに積もった雪を掻き分ける手を止めてカミュはまじまじと息子を見る。
「・・お前、自分が何を言っているのか分かってんのか?」
「・・・・うん。分かっているし、俺は本気」
「いいか、ならもう一度考えろ」
「父さん、」
雪かき用のシャベルを息子に半ば押し付けるようにして宿に戻る。話を聞かない姿勢に入った父の背中に、何を言おうが届かないと悟った物分かりの良い息子はそれ以上何も言わなかった。代わりに、背後からは雪を掻き分ける音が聞こえて来た。
言い出したこの息子は、次男である。といっても子供に恵まれたカミュには娘と息子がそれぞれ二人おり、この子は兄と二人の姉を持つ末の子だった。
男に混じって漁にでるようなお転婆な長女、奔放で最近は雪山にふらっと出かけてはホワイトパンサーと戯れる長男に、負けず嫌いで頑固な次女にと揉みくちゃにされてきたからか、三人に振り回され続ける両親を見てきたからか、彼自身は大人しい子だった。
ケーキの大きな一切れを巡って争う兄姉をぼんやりと見て、いつも体良く小さなものを押し付けられても楽しそうにニコニコしているような子だ。手のかからないことが逆に不安だわ、と妻が苦笑いしたのは記憶に新しい。
だから、彼がこうしてはっきり「やりたいこと」を主張してきたのは初めてだ。嬉しいと思った。いつも姉兄について回っていただけのあの子が初めて自発的に言ってきた事には父親として諸手を挙げて喜びたい。ただ、しかし。
(・・よりによって旅かあ・・)
自分自身も旅には出ていたから分かる。旅とはいつも隣に危険が伴うものだ。それをよく理解しているからこそ、じゃあ行ってこい!などと無責任に送り出したくはなかった。
「・・・・あら、いいんじゃない?」
「えっ」
妻の反応は思ったよりも軽いものだった。業務のピークが一度落ち着いた昼前、いつものように昼食をとりながら朝聞いた次男の告白を妻に話せば、帳簿から目もあげず考えたような時間もなく返事が帰ってきた。
昼を食べる手を止めてマジマジとそのつむじ辺りを見つめていれば、困ったような表情で顔を上げる。
「だって、あの子くらいの年にはもうおねえちゃん達も漁に出たり山に行ったりしてたじゃない」
「それとこれは違うだろ、旅だぞ。危険だって時間だってその辺に行くのとわけが違う」
「でも、あの子、実はお兄ちゃんより腕っぷしは立つのよ」
「いやだから、」
「・・・・それにそんな気がしてた」
ぽろりと思わず漏れたような小さな一言にカミュは眉をひそめた。そんなカミュに妻はすぐになんでもないというような顔になると、帳簿を脇に退けて昼食をとり始めた。なんとなく、それがこれ以上は喋りませんの意思表示に見えたカミュは黙ってスプーンを動かすのだった。
この話が息子の口から再び出たのはその日の夕方のことだった。
こんどは幼い頃から一緒になって遊んでいた隣の武器屋の息子を連れていた。どうやら彼が旅の相棒らしい。緊張したような二人に対峙したカミュは、大きくため息をつくと彼らが何か言う前に大きな布のカバンを渡した。これが何なのか息子は知っている。
「父さん、これ、」
興奮気味に受け取った彼はカバンとカミュを交互に見る。古びたそれはかつてカミュが文字通り、空に海にと連れ回した旅のカバンだ。カミュはガシガシと頭を掻くともう一度ため息をつく。先ほどのは諦めの、今のは決心のため息だ。
「・・・・行ってこい。無茶だけはすんな」
「・・うん、うん・・!」
ぱあっと輝かせたその顔に、カミュは困ったように笑った。妻に似たこの笑顔には、彼女と人生を歩み始めたあたりから勝てた試しがない。
「・・・・私ね、ずっとこんな日が来るってどこか分かってたのよねぇ」
ぼそっと室内に響いた妻の声にカミュは我に帰る。銀の針はとうに針山に刺さり、ちょうど赤い糸を切るところだった。
「一度、シルビアさんがうちに来てくださったことあったでしょう?その時世界各地のいろんなものをうちの子たちに見せてくれたじゃない?」
「あー・・そんなことあったなぁ」
ちょうどシルビアが率いるサーカス団がクレイモラン地方へ巡業に来た折に顔を見せに来たことがあった。結婚して彼女の親から宿屋を継いだカミュと、世界各地を飛び回るシルビアが顔を合わせるのは久しぶりであった。「ここで会わないとしはらく会えないかもしれないって思ったの!」と朗らかに笑う彼に相変わらずだなぁと思ったのは記憶に新しい。結局それきり顔を合わせてないのだから、やはり彼の言葉が大体正しいのは旅の時から変わらない。
「・・その時ね、すごい!って声をあげたのはお姉ちゃんたちだったんだけど、真っ先に私の手を離してかけていったのはあの子だったの。あの子、いっつも私から離れなかったのに」
その言葉にふと思い出した。
いつも昔の旅の話をしろとそれとなくせがんできたのはずっと末の彼だった。
「・・・・でも、世間が思うように旅は楽しいだけじゃない」
「そう?私がいつも見てたあなたは楽しそうだったけど?」
「それいつの話だよ」
「そうねー、もういつの話ってくらい昔なのよね」
世界を救う旅を終えた後、息をつく間もなくマヤに手を引かれて次の旅へと出ていたカミュがふと思い出してクレイモランへ妹と帰った折にこの宿に泊まったのも、もう遥か昔だ。
その当時、はつらつとした性格で人気だった宿屋の看板娘は今、 少し皺の刻まれた細い指で息子の旅路を案じながら服を繕っている。
「・・お父さんがね最期に言ってたの。親の一番最後のやることは、子供の手を離すことって」
「・・・・・難しいな」
「・・そうね、私もそう思う。不思議とね掴むことよりも、離すことの方が力がいるのよ。だって、この手をすり抜ける小さな手が行く先は危険って分かっているんだもの」
じょきっと軽い音がして銀の針とフード付きチュニックを繋ぐ赤い糸が切れる。カミュはそれをじっと見つめていた。
「でもそれはダメよね。子供達にはまだ、知らない可能性と世界があるんですもの。この北の国だけでは狭すぎるんだわ」
次の日も、珍しくからりと晴れた日だった。まだ朝早い船着場はいつも通りに人々がせわしなく行き交っている。漁の準備や商品を船へ運ぶ商人達を横目に、カミュは上着のポッケに手を突っ込んだままある一隻の船へと向かっていた。正確には、その船の横でフード付きのチュニックをきた息子へと向かっている。いち早く気付いたらしく、その隣にいた妻がこちらを見て笑う。
「あら、やっぱり来たの」
「いつまでも拗ねてるわけにはいかないだろ」
「あらまだ納得してないの」
からかうようにこちらを見る妻から息子へ、視線を流した。彼が一番、顔立ちは妻に似ていた。緊張したような顔はその実楽しそうだ。きっと、彼の頭の中はもう船旅のその先を思い描いているんだろう。
さまざまな物が集まる港町ダーハルーネにその先の湿原、そしてそこを抜ければ大きな砂漠がある。全部、この雪の大地にはないもの、彼にとっての未知の世界、そしてかつて自分が歩いた道。
「・・・・父さん、」
「これもやる」
カミュは腰に下げていた短剣を外して彼に渡す。傷だらけのそれは、かつて旅をしていた頃に愛用してたものだ。
「野宿する時はくれぐれも魔物には気を付けろ、それからもし行くならデルカダールやユグノアにも行くといい。そこの王女様と王様は父さんの仲間だからきっとよくしてくれるし、よろしく伝えといてくれ」
息子は短剣を握りしめて頷く。
それから、とカミュは続けた。
「・・楽しんでこい。満足するまで色んなところを見てこい。それで、たまに顔を見せること、いつでも帰っておいで・・・・・・お前には、そういう場所がある」
「・・わかった。ありがとう、父さん」
船から彼を呼ぶ声がする。もう出発の時間らしい。息子はそれに答えると、慌てて船に乗り込んでいった。短い黒髪が走る彼に合わせて揺れている。
「・・・・大丈夫よ、あの子なら」
遠ざかる船をじっと見つめるカミュのとなりにいる妻が呟く。
「・・そうだな」
あの子が旅へ行くことに反発があるわけじゃなかった。旅というものが少し嫌だった。
それはきっと、金の塊となった妹から逃げるようにこの国を抜け出したことで自分の旅が始まったから。夢に賢者が出て、勇者を助けろと言われた時にはこれ幸いと飛びついた。理由が欲しかったのだ、この旅路は逃避行ではないと。
だからこそ、あの子の旅は理由がいらない旅であってほしい。
気の向くままに歩き、風に誘われるまま行く道を決め、見るもの全てに喜びを覚える旅であってほしい。誰かの為でも、罪滅ぼしでも言い訳でもない、自分の為だけの希望の旅路であってほしい。そしてそう願い、見送る側になった自分の旅の果てはなんと尊いことか。
色々な考えがせめぎ合う頭で、カミュはあの一隻の船が地平線の彼方へ見えなくなるまでいつまでもそこに立ちつくしていた。
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