遥かなる理想より

最近怒ってばかりいる気がする。
マルティナは目の前にしょげた様子で俯く息子に罪悪感を抱きつつ、淡々と続ける。

「遊びたい気持ちは大いに分かるわ。でも、今この時間は歴史を学ぶ時間だったでしょう?先生はずっとお部屋で待っていらしたのよ」
「…ごめんなさい」
「謝る相手は先生です。まだいらっしゃるから今からでも謝ってらっしゃい」

はい、と小さく暗い声で返事をした息子はそのままとぼとぼと部屋を後にした。マルティナは大きくため息をつくと椅子に座り込む。
叱るのは嫌いだ。自分の中で、怒りと叱りの境界線がたまに見えなくなる。今、息子に言っているこの言葉は人として怒りからきた言葉なのか、母親として叱るための言葉なのかーーここ最近はそのことばかりがマルティナを悩ましていた。

(私には母と過ごした日々が少ないから)

そしてこの事も、ずっと頭の中を支配している。
第一子で、ましてや息子で、この先彼に弟妹ができたところで国を導くものとしての襷を握るのはあの子である。まだマルティナの庇護下にいるうちに、全てを教えなければと初めて抱いた時に漠然と理解したのを覚えていた。
ただ、マルティナには母親や父親と過ごした時間はあまりにも短かった。母親とはどうすればいいのか、あれでよかったのか、これでよかったのか。答えのない問いばかりが重なって今、目の前に大きな壁として立ちはだかっている。

「マルティナ様、こちらにいらっしゃいましたか」
「…あら、グレイグ」
「イレブン…様がおいでです」
「あぁ、そうだったわね」

マルティナは思い出した、と言わんばかりに軽く手を振って肘掛を掴むと立ち上がる。
完全に国としての形を取り戻したユグノアとの国交の話と、後はお互いの近況を話す。勝手知ったる相手同士、真面目な議題のその実穏やかなものである。何しろ、今日はそちらよりもっとイレブンに話したいことがあった。
マルティナは短く息をつくと部屋を出た。


「…で、歴史の先生を待たせたんだって?」

ユグノア王とデルカダール王女としての事務的な会談を終えたところですっかり冷めた紅茶を口に含み、飲み込んだ目の前の彼はかつての旅仲間、イレブンとして会話をきり出した。

「待たせたんじゃないわ、厨房から抜け出して城下町へ遊びに行っていたの。城下町にお友達ができたのは結構なんだけど、別に歴史の授業の時じゃなくってもいいでしょう?やるときはやる、それ以外はちゃんと決まりを守っていれば何してもいいって言っているのに…大体、あの子には少し自覚が…なあに、なに笑っているの?」

ついついにこやかに笑いながら聞くイレブンをマルティナは睨む。睨まれたイレブンはティーカップをソーサーに置きながら肩をすくめた。

「いいや、君も随分変わったなって」

彼はきっとなんとなしに放った一言だったのだろうが、何気ないそれは小石を投げ入れて波紋が水面に広がるようにマルティナの心にじわりと広がっていく。

「…私、やっぱり怒ってばかりかしら?」

その一言に、イレブンは何かを言いかけたがそのまま口を閉じると手を組む。そして、一拍おいてマルティナに問いかけた。

「そう、思うのかい?」
「だって、」

そう言いかけてマルティナは辞めた。一度吐き出したら最後、止まらなくなる気がした。それに気付いてか、たまたまか、イレブンは再びティーカップに手を伸ばしながら話を続けた。

「別に深い意味はないんだ。ただ、あの旅の日々からだいぶ時間が経ったなぁって。ふと思ったんだ。だって、つい最近まで小さかった息子が年が明けたらドゥルダに行くんだよ」

そういって目を細めて笑うイレブンは遠い日に見たエレノア妃そのままで、マルティナはますます気分が沈んだ。彼は父親と王を両立できている。ならば、自分は?
そんなマルティナの心境を知ってか知らずかイレブンはそのまま続ける。

「たまにね、思うんだ。家族ってなんだろうなぁって」

マルティナは黙ってそのままイレブンの話に耳を傾ける。

「血の繋がりがなくてもイシにまだいる母さんは確かに母さんで、記憶になくても世界樹を通して見たあの人も確かに母さんだ、それは僕の中で確かなんだ。じゃあ、家族ってなんだろうね。血で繋がるものか、時間が築くものか…僕らは一番この答えに近いはずなのにね」

イレブンはふと、遠い目をした。あの日、世界樹でホメロスを食い止めてから彼は時々こんな目をする。ほかの、ここではないどこかに想いを馳せるように。

「…でも僕は結局、血を選んだ。一人瓦礫の城へ帰るロウじいちゃんを一人にしたくなかった。絶対、この場所も直さなきゃって思ったんだ。その選択で、イシに母さんを一人残してしまったのに」

マルティナが声をかける前にイレブンは元の涼しげな、それはもう解決したのだというような顔に戻った。

「でもね、ひとつだけ今になって分かったのはあるよ。案外、自分が思う以上に人はなるようになるってこと」

その言葉の真意を聞こうとした瞬間、ノックの音が部屋に響く。つられてイレブンが机に飾られた時計を見て「こんな時間か」と顔をしかめた。
マルティナは投げかけた問いを呑み込み、立ち上がる。イレブンも最後の一口を飲みこみ、立ち上がるとよれた緋色のマントを手で叩く。

「いや、すっかり話してしまったな。今度はもっと早く来るよ」
「あなた、まだルーラで移動してるの?一国の王が護衛も連れずにまずいんじゃない?」
「んー、それはそうだ。また魔王が現れたら護衛を考えるさ」
「そしたら護衛なんかじゃすまないでしょ」

イレブンはにっこり笑うとそのまま階段を下っていく。その背中を見送っていれば、不意に止まってこちらを振り返る。

「そうだ、さっき言い忘れたんだけど」
「なあに、」

少し考えたような素振りを見せ、イレブンは言った。

「初めて子供を抱いた時、責任以外にも何を感じたか思い出してごらんよ、僕はそれが答えだったかもしれない」

去っていくイレブンの背をぼんやり見ながら、彼の問いかけの答えを探していた。




「やあ!帰ってきたばかりで悪いのだけれど、手伝ってくれるかい」
「別に構わないけれど」

イレブンを見送った後に夫婦の部屋に戻ったマルティナは体を半分クローゼットに突っ込んだ夫の後ろ姿を呆れながら見つめ、どうしたものかとおろおろするメイドを下がらせるとそのまま後ろに立った。色々引っ掻き回したのか、しまいこんでいた箱やら何やらが散乱している。
夫は「あぁ、もうこれ邪魔だな」と緋色のマントをくるくると放り投げようとして、怖い顔をしたマルティナと目が合ったので誤魔化し笑いしながらきちんと畳み、側の椅子に置く。一連の流れを見守った後にマルティナは夫の話を待つ。彼は袖をまくりながらまたクローゼットと向き合い、マルティナに背を向けながら話し始める。

「いやね、君と一緒になってすぐの時に見せてくれただろう、旅をしていた時に使っていた世界地図。あの子にそんな話をしたら、是非見たいって…あぁ、あとフウリン…だっけ?昔君が旅先で買ったっていう…」

一向に妻からの返事がないことを不思議に思った彼が振り向き、泣きそうな顔をしているマルティナにぎょっとする。慌てて手の埃を叩いて落としながら荷物の隙間を踏んで近づく。

「わ、私、そんなこと、忘れちゃってた」

彼と共に半生を歩むと決めた日、父親から王位を継いだ日、あの子を身籠った日。責任が重なるにつれて消えてしまった感情がふつふつと沸き起こってきた。
そうだ、確か私は旅先で見た手を繋ぐ母子のような、あんな家族になりたかった。いつのまにか「なりたいもの」が「ならなければいけないもの」に変わって一人でずっと空回りしていたのだ。
最初から壁などなかった。自分がずっとありもしない壁に悩み続けていただけだった。

「子供を抱いた時、責任以外にも何を感じたか思い出してごらんよ」

去り際のイレブンの問いが今、出た。自分が欲しかった憧れそのものがが手に入った高揚感だ。
ロウも確かに家族だ。今もなお、彼に抱くものは実の父親と同じようなものだが、彼と自分の間には常に復讐がまとわりついていた。
それが、今やっと手元にあるというのに、そんなことさえ忘れてしまっていた。
彼は少し笑ってあやすような声音で話す。

「…うん、うん。そうかそうか。じゃあまた聞かせてよ、今度はあの子にも」

それを聞きながら、そうだ彼のこういうきちんと話を聞いてくれる所に彼とならこの先の人生を歩んでもいいだなんて思えたのだというのを思い出していた。

「あ、あのね、私、ずっとやりたいことが一つあったの」



「…思っていたものと少し違うのだけれど」
「えっ、でも話す君が真ん中にいた方が…なあ?」
「うん」

その日の夜、「それなら言い出した今日やろう!」と手を引かれるままされるがまま、今、マルティナはベッドの上で夫と息子に挟まれている。そっくりな顔に挟まれたマルティナは落ち着かずに何度かもぞもぞ体を動かす。
確かに、「ずっと昔から親子で川の字で寝てみたかった」とは言ったが、普通は子を両親で挟む方を想像していたマルティナは世界地図片手に困惑しつつもドキドキしていた。

「で、君はどこにいったんだっけ」

節くれだった大きな指が世界地図をなぞる。真似するように小さな手も地図の上を滑る。思わずマルティナも真似をして地図をなぞる。大中小の人差し指が三つ、世界地図の上にある。マルティナはそれを見ながら息を吸った。

「そうね、文字通り世界中よ、海の中も、空も、世界樹にも行ったの、」

はっ、と隣の小さな息子が息を呑む。「ほんとう?」内緒話をするような、興奮混じりのその声に「ほんとうよ」と返す。
それから旅の話はすっかり夜が更けるまで続いた。

その日から、度々小さな王子が城を抜け出しマルティナがそれを叱ることが変わることはなかったが、時々親子並んで眠るようにはなった。

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