弟離れできない兄と反抗期を表に出さないようにしている弟の話。
(兄×弟というわけじゃないです)
五歳上の兄は善人であると信じ込もうとして十数年ずっと生きてきた。
今もまだ兄は善人だと信じているが、同時に兄の部屋の中を荒らして回るだけの怒りを持っている。希少価値のある本や美術品。世界に一つだけの特別な宝石箱なんて壊すことも触れることもできないので結局、荒らすなんて名ばかり。
ベッドの枕を床に投げてシーツをはがして床に捨ててベッドのマットに寝転がって泣く。
本当は枕を壁に叩きつけたいが、そうすると家の中にあるプレミアがついた品物に傷がつく。
八つ当たりや癇癪で取り返しのつかないことが出来ない俺は怒り狂っているようでいて理性的だ。
俺がこんな風に乱れても兄はこちらの感情を理解することなんてない。だから、泣くのだろうか。兄に自分を理解してもらえないのが悔しいんだろうか。それとも、俺はこれから先の未来が嫌だから泣いてるんだろうか。
泣きながら眠りについたのだと起きた瞬間に察知した。
目の前に兄の顔がある。
「ごめんね、喜んでくれると思ったんだよ。ビックリさせたね」
兄の心情は知っている。
俺はΩで、兄はβだ。
相容れない価値観があっても仕方がない。
そう割り切らなければいけないのに俺はいつだって俺の気持ちを分かってくれと叫ぶ心を止められない。
「家に何度も来たファークマン。彼の灰色の瞳が好きだと言っていただろう」
物珍しかっただけだ。
もちろん、嫌な人じゃなかった。
兄の友人にしては派手ではなく、物静かで気難しそう。
髪の色は黒いのに瞳だけは灰色。
思わずジッと見つめてしまっていた。それが兄を勘違いさせたのなら、悪いのは俺だ。
俺だと思うが、兄を殴りつけたくなる。
それが出来ないのは、βであるのにΩである俺の数百倍うつくしい顔をしているからだ。
兄を殴ったらそれこそ、俺が加害者だ。どんな人間であろうとも、このうつくしい顔をゆがませてはいけない。βである両親は兄を持ち上げ厳しく育てた。Ωだと思っていたからだ。二次性徴でわかった兄のバース性はβ。それでも、兄が極上の人間であるのは間違いなかった。βでありながら多数の優秀なαと縁を結び、学生ながらに顧客に大手企業がいる会社を立ち上げた。
兄がαに嫌われないように気を回し、気を配り、気疲れしているのを見ている。頑張らなくていいという一言が俺は傲慢に思えて言えなかった。兄は「私はβだけどお兄ちゃんだから弟のためにがんばるよ」とαの人脈を広げていく。その理由は両親のためだと思っていた。だが、違った。
「Ωであるお前に似合うαを見つけてあげるって約束しただろ」
そこまでしなくていいという言葉が出てこない。
Ωであると教えられたのは物心ついたころで、ちょうど発情期(ヒート)したΩのフェロモンによってαによる集団暴行事件が起きたころだった。連日テレビから聞こえる発情期(ヒート)したΩへのバッシング。Ωを襲わざる得なかったαは被害者だというコメンテーターたち。
ひどく、こわかった。
発情期(ヒート)したΩは十四歳になるかならないか。
抑制剤を持たせなかった親の監督不行き届きをヒステリックに責めたてて、遠方にいる祖父母に取材をして頭を下げさせていた。
どんな人間だったのかΩの周辺に聞き込みに行ったりと、その街で暮らしていけないような状況に追い込まれていた。
未成年であっても悪いことは悪いと言わないといけないとαでもΩでもないコメンテーターたちが正義を訴える。
思い返せば滑稽な茶番だ。印象操作というヤツだ。被害者を加害者であるように誘導している。きちんと調べればΩが発情期(ヒート)を起こした理由が偶然ではなくαによるものだと分かる。性質の悪いαたちの遊びにΩが巻き込まれたのだ。非合法の薬物によって発情期(ヒート)が起こるのは常識だ。Ωはオモチャにされた被害者だが、そういった形で報道されることはなかった。
Ωである自分が引き金になって家族や親せきに頭を下げさせる事態が俺には怖かった。おそろしかった。
だから兄に泣きついた。
昔の話だ。
今はあのころの裏事情や隠されていた事実を考えられる頭がある。テレビの報道をそのまま信じたりしない。どこまでが事実なのかを確認しようという気持ちを持ち続けている。Ωが悪い場合だってあるかもしれないが、Ωだけが悪い事件ばかりなはずがない。
「灰色の瞳のファークマンと番(つがい)になるんだ」
兄は俺が不意に訪れる発情期(ヒート)を回避するためにαと早く番になりたいと言ったことを覚えていた。ずっと、ずっと、俺の相手探しに奮闘していた。
嘘だろ。冗談じゃない。大きなお世話だ、勝手なことをするなと叫びたいが出来ない。
兄は俺のためを思って、自分の青春を削り続けた。
俺が兄の部屋で暴れ回ったのだって感激しているとか、気持ちが落ち着かないからだとか、適当な理由をつけているに違いない。
俺はβである両親に似ている。そこまでΩとしての素質がない。ものすごく悪いわけではないが、地味だ。
どこにでもある顔立ちと言えるのでβ寄りの人間だ。
Ω寄りの華やかなうつくしさを持つ兄とはまったく違う。別次元にいる。
肝心のファークマンとは俺は相性が悪かった。
αとして番が面目上、必要だっただけで俺のことなど顔も覚えていないと言われた。
あくまでも、兄の友人。兄の知り合いだ。兄と似ていない俺のことを何とも思っていないのは想定内。
Ωを押しつけられるαの苦労話なんて世間で有り触れている。
いつだってΩは加害者側であり、お荷物な存在。
世界の中に必要ではあるけれど、多く居すぎると困る。
そのためΩは適度に冷遇される。
広い屋敷の一角を与えられて、これ以上に望むものはないと他人に期待するのをやめた。
俺の気持ちを分かってやれるのは世界で俺だけしかいないので、俺が嫌だと思うものは何もしない。
そうすることにした。
不満や不安を自分の中で溜めこんで生きるよりも、開き直る方が健全な気がした。
そして、俺はひきこもりのゲーム廃人になった。
発情期(ヒート)がこわかった。
外で発情期(ヒート)が起こるかもしれないと思うと部屋の中にいたい。
部屋の中にいるとさすがに時間がもったいない。
学校の課題は一カ月分を月の頭にまとめてもらう。
それをゆっくりと消化しながら、ゲームし続ける。
ゲームの中で常にログインしている他人がいる状況は俺にとって孤独じゃなかった。
毎日のご飯と寝る場所があって終わりのないゲームをし続けながら、誰かの影を感じる続ける。
自分のバース性をあえて明かすことなく他人と交流することが俺にとって何より心安らげることだった。
延々とレアリティの高いアイテムを得ようと同じ工程を繰り返すのもある意味で瞑想的な効果を出していたと思う。
気持ちが落ち着くと大人な対応ができる。
年上であってもファークマンに緊張や気おくれを覚えなくなった。
兄のようにうつくしい顔をしているわけでも、特出した才能があるわけでもない俺だが、書類上は結婚したので対等な立場だと思うことにした。
するとファークマンから接触があった。
俺の態度のせいでずっと話しかけにくかったらしい。
怯えている子供は苦手だと言われたが、事実だったので「そうですか」とだけ返す。
すると、一緒に外に出ようと誘われる。
いやがると手足を縛られ、車椅子に乗せられての移動になった。
首全体に巻きつける俺がΩだと教えるようなデザインの安全器具に、礼を言うべきかどうか、迷った。
ファークマンはまだ俺のうなじを噛んでいない。書類だけの番だ。仮契約みたいなあまりいい状態とは言えない状況。
年齢差は五歳以上で俺は学生の身なので、こんなものとも言える。
書類上だけでも幼いΩを自分の屋敷に住まわせるのは変態のすることだ。
物静かで気難しそうな黒髪で灰色の瞳のファークマン。
彼と分かり合える日が来なくとも、俺は自分の恐怖心を理由にして番でいるんだろう。
そう思っていたのだが。
「あたらしい番(つがい)のα?」
俺の拘束された状態に驚きながら兄はあたらしい番として見知らぬ男を紹介してきた。αだという相手は灰色の目をしていた。ファークマンと違って髪の毛も灰色がかっていて、堀の深い顔立ちだ。
「私は早く弟の子供を育てたいと言っただろ。それなのにまだ産ませてない」
ファークマンに対して、兄が冷たい目を向ける。
声が出なかった。
俺への態度と違いすぎたからだ。
「男でも女でもαでもΩでもβでも、ちゃんといい子に育ててあげる。私の弟はかわいらしく従順だろ? 私が正しい教育をしてきた成果だ。両親は仕事ばかりでかわいそうに、この子に時間をかけなかった。いつだって、私が面倒を見ていた」
兄の言葉はその通りだが、どうにも吐き気がする。
理由は分からない。
「αのみんなだって、Ωなのに残念な見た目で番なんて望めるはずがないって言ってたじゃないか。だから、お前に頼んだのに。なんなんだ? そんなに私の弟の容姿が不満なのか?」
兄はαであるファークマンに俺を預けて妊娠の報告が来ないことに怒っているのだ。
自分の考えがいつだって正しいという、そういう考えの人だと知っていた。
善意で優しさで思いやりで兄は行動している。
本当にそうなのか突き詰めて考えることなどできない。
心の中のことは自己申告制だ。他人が勝手に想像しても、それは事実ではない。
俺は自分の目の前にいる人が善人だと信じたい。
信じないとひどく傷つくと分かっているから悪人などいないと思い込みたい。
「不満なんて、一度も持ったことはない」
「それならさっさと子づくりすればいい。お前がしないから、あたらしいαを用意した。彼は私が望むなら弟を目の前で抱いてくれるとも言った。本当言うと、お前がどんな風に喘ぐのかお兄ちゃんは見てみたいわけだよ。でも、枕投げられちゃうから、言わないでいたんだ」
照れたように微笑む姿すらうつくしい兄はβでありながらα以上の冷酷さを持っていた。
βである兄に従属するのが喜びと思っていそうな、俺のあたらしい番として兄の隣に居るα。
兄の言い分を何もおかしいと思っていないようだ。
「かわいいかわいい。私にとっては血を分けた肉親だからかわいいけれど、αにとっては劣ったΩだから、ファークマンが欲望を刺激されないのは仕方がないだろうが」
「勝手なことを言うな」
「なんだ? 弟を孕ませたいのか?」
「当たり前だ。……だが、それには段取りが必要だろう。今日やっと、結婚することになったんだ。早く家に帰りたい」
「……けっこん? 式の話か? 書類だけでいいと事前に言っただろう?」
「現実の話じゃない。ゲームの話だ」
思わず俺は横に立つファークマンを見上げた。
手足が縛られているせいで車いすから立ち上がれないが、ファークマンが照れているのが分かる。
「今日の夜に結婚の約束をした」
繰り返された言葉に廃人と言えるほどに毎日やり続けているゲームを思い出す。
ファックマンというアウトな名前の美少女と今夜、俺はゲーム内で結婚することになっていた。
中の人が男であるのは名前から分かる。ただ、話を聞いてみると知り合いに勝手に名前と性別を決められてしまったのでそのままやっているというのだ。
ゲームは名前と性別以外は後々、ゲーム内通貨やアイテムで変更できるが名前と性別は変更できない。
変えようと思うならもうアカウントの取り直しになる。
ファックマンの名前でレアアイテムをゲットしてしまったので引くに引けないというのは俺も分かるので、ヤベー奴という印象をかわいそうな奴というものに変えて交流を持っていた。
年上というのは雰囲気で伝わってきたが、要領は悪く放っておけない人なので、なんだかんだで毎日会話をしていた。
結婚を持ちかけられて、中の人が自分より年上の男だとわかっているのに勇気を出しての告白なんだろうと思うと微笑ましくて思わずOKを出していた。
ゲーム内だからと言い訳をしながら、すこしファークマンに対して後ろめたさはあった。現実とは関係ないとはいえ、浮気をしているような微妙な気持ちだったが、ファックマンがファークマンなら話は別だ。
「なんで言わねえんだよ」
ここに来て俺は初めてちゃんと口を開いたかもしれない。自分の意志で、自分の言葉を発する。それは責任がつきまとう。
いつでも兄に何かをしてもらっている立場として自分のことを思っていたので、気持ちを表現するのが下手くそだった。
兄の好意をぶちこわす言葉が俺の口から出てきそうだったのだ。俺はずっと兄の行動のすべてに苛立ちを覚えていた。
五歳上の兄は善人であると信じ込もうとして十数年ずっと生きてきた。
弟の番を見つけてくるような非常識な行動をしている兄でも俺への優しさからだと信じていたかったが、違う。
もう、諦めなきゃいけない。
兄は善人じゃない。
独善的な支配欲に満ちた人だ。
俺の一生を握っていたいから自分の知っているαと番になるように取り計らった。
「この目の前の自己中野郎に俺たちには俺たちのペースがあるって言ってやればいいだろ」
ファークマンの考えは真面目だ。俺の人となりを知るためにゲーム内で接触を取ったのだろう。そして、ちゃんと関係を築こうとしてくれた。俺は人目も、現実のファークマンも避けて部屋の中に引きこもっていたが、嫌ったり諦めたりしないで俺という人間がどういう人格なのかゲームの中で見ていた。
ゲーム内の要領が悪いドジっ子な美少女と黒髪で灰色の瞳のファークマンはすぐには重ならないが、兄への不器用な反論から、同一人物なのは分かる。
ログでも飛んでいるのか回線でも遅いのか発言のテンポがおかしいことはゲームの中でよくあった。
ゲームのシステム面でなにかあったのではなく、中の人の会話能力の低さのせいだとしばらくして気づいたものだ。
頭の回転が速すぎて発言がついていかない。
情報を詰め込もうとしすぎて、分かりにくくさせてしまう。
俺はそれに気づいてから「聞いててやるからゆっくり話せよ」だなんて、年上だと思ってる相手に告げていた。
「Ωである俺とαであるファークマンとの話にβである兄貴が入ってくるな」
これはきっと兄にとって一番ショックな言葉だろう。
βであってもΩである俺の兄として兄なりに一生懸命であったのは事実だ。
俺とは合わなかったとしても、俺以外のΩは兄のような人間に感謝するかもしれない。
「ひどい」
想像以上に兄の涙は俺の心に響かない。女々しいなんて罵りたくなるぐらいに作り物めいている。
うつくしいからこそ兄の嘆きは俺をむなしくさせる。俺が泣かせたのに他人事のような感覚になる。兄が勝手に泣いているだけで俺の言葉はひとつも届いていない気がした。
「もうあきらめなよ。いいじゃないか。弟はファークマンとうまくいってる。何も心配はなかった。それで納得すればいい」
俺のあたらしい番として紹介されたαが兄を抱きしめてあやすように背中をさする。
その仕草だけで彼が兄を思っているのが分かる。この茶番は茶番だと知っているのだろう。
「子供が欲しいなら灰色の目の潰れ気味な顔立ちのを探してくるから一緒に育てようね」
小さな子供に言い聞かせるように兄の涙をぬぐいながら、なかなかなことを言っているα。
俺のことを潰れ気味の顔だと思っているらしい。
兄とαが去った後、微妙な沈黙が俺たちの間に流れた。
「だいじょうぶ。ある意味かわいいよ」
「大きなお世話だ、馬鹿野郎! いまさらフォローなんてしてんじゃねえよ。遅いだろ」
ファークマンはαらしくない抜けている人間だが、そのぐらいが俺には合っているんだろう。
兄の見立てがそんなに悪くないのは俺が一番わかってる。兄は兄なりに俺を一番幸せにしてくれる人間を本気で探し求めていた。
幸せの結晶が子供だというのは前時代的だが、俺の両親がそう口にし続けていた。
たとえβでも私たちの子供だから、あなたは愛されているのだと兄に告げていたそれを、俺はやめさせなければならなかったのかもしれない。呪いのようで、怖くて、耳をふさいで逃げてしまった。
「兄貴は悪い奴じゃないと思うんだ。良い奴になれないだけで」
「兄弟の事には口を出さない」
ファークマンはいつだってこういった態度だった。
以前は冷たいと感じていた。突き放されているとさびしかった。
でも、ゲームでのことを考えるとそれは間違いだ。
「でも、愚痴を聞くぐらいはいくらだってできる。俺にして欲しいことがあるなら、手を貸すから頼ってくれ」
こっちを先に言えばいいのに、テンポが遅い。
現実ではいつもこっちの部分を聞き逃していた。
これ以上、よそよそしい会話を続けたくないと思って打ち切っていた。
俺のために何かをしたいと言いたかったかもしれない相手の言葉を殺していた。
これから俺が知らなければならないのはありがとうの言い方かもしれない。
兄に今までずっと言えなかった。
言ったら俺という人格を否定してしまいそうで口から出せなかった。
俺の望みに反したことを良かれと思って兄はするから、ありがとうなんてお礼は社交辞令でも出てこなかった。
「……ありがとう、番になってくれて」
口にした瞬間に身体がカッと熱くなる。
発情期(ヒート)だと本能が理解した瞬間、くちびるを塞がれた。
俺のフェロモンに引っ張られたのか、ファークマンは欲情していた。
「俺、縛られてるんだが」
「ちょうどいいな」
何がだと口にする間もなく移動することになった。
2018/03/16