「ラクト、ちゃんと春樹くんにあいさつして」
ウララの言葉を無視してラクトは春樹を覗き込むようにして見つめる。
雄々しいという表現が似合うラクトの見た目はβにしては随分と高ランクだ。
用心棒みたいなものだというウララの言葉通りなら見せかけではなく本物の筋肉なのだろう。
思わず春樹はラクトの上半身に手を伸ばす。裸の人の肌に触れるなんて春樹の常識ではありえないが、ラクトが自分を観察するように自分もラクトを観察するべきだと思ってしまった。要領を得ない感覚を拒絶できない。お互いの匂いを嗅いで確認し合うような動物的な空気。
「春樹くん? ラクト?」
手のひらから感じる初対面の人間の熱。
春樹の中に何かが芽生えそうになった瞬間、ウララが大きく手を叩いた。
気づけばキスでもしそうなほどラクトの端整な顔が近くにある。それに不快感を覚えなかった。
「悪い、なんか。……なんだろう」
「こっちに聞かれても分からないよ。ホントもう、ラクトってば天然なんだから。ほら、あいさつ」
「あいさつ?」
「ああ! もういい。えっと、これがラクト。見ての通りちょっとダメな子だけど酔ったお客さんを入店させないようにしたり、キャストに無理させようとするβをおっぱらってくれるから」
戸惑いとラクトに触れた指先のチリチリとした理解できない熱に春樹は「はあ」と生返事を返す。
ふと気づいて首をかしげる。
「βをおっぱらう? ですか」
「下剋上Ωって名乗ってるから分かると思うけど建前上はα専用の高級クラブ」
「実情は」
「お客さんの六割はβだね。不景気だっていうよりも開店当初から比率としてはβが多いよ。だって世界的な人口はβが多いんだからαの客がどれだけ羽振りがよくても社会からβを締め出すなんて無理」
「それでも、α専用あつかいなんですか」
「α御用達の店に通えるっていうのがβにとってはステータスになってる。お金持ったβをαあつかいしてあげるのも仕事のうち。だけど、βはβ。αじゃないからΩの扱いがへたくそだったりするんだよ。警告しても聞かなかったら出てってもらう。お客さんが店を選ぶように店だってお客さんを選ぶものだ」
ウララの言い分になるほどとうなずく春樹。ラクトは着替えでもするのか、ふらっとどこかに消えた。
「お話だけコースはオプション料金とか入ってこないからβばっかり。お話しするにしてもαは個室とってゆったりねっちょり」
「ねっちょり……?」
「力のあるっていうのかな、αの中でも優秀な人って話したり目を見てるだけで身体が熱くなるもんなんだ。春樹くんは経験ないだろうけど触れられなくても濡れる」
思った以上にアダルティーな話題に踏み込まれて軽く後退する春樹をニヤニヤした顔で見るウララ。
春樹の手を取って「濡れるって、わかる」と聞いてきた。
吐息が湿っているという状態がどんなものなのかウララに見せつけられる。人を興奮させるのに言葉はいらない。呼吸音だけでいい。
手に息を吹きかけられて真っ赤になる春樹をウララは「ふふっ」と笑う。
腰が抜けそうになって手をついた先にあったのはゲームキャラクターのクッション。
ラクトに見つめられたことでうやむやになってしまったが、どうしてこのキャラクターのグッズがあるんだろう。
春樹の視線に気づいたのかウララが「好きなの」と聞いてきた
「これって、どうして」
「欲しいならオーナーに頼めばいいよ。春樹くんのこと気に入ってたみたいだからいくらでもくれるんじゃない」
「そうなんですか?」
「うん、だってこれ、オーナーが作ったグッズだからね。全然売れなかったみたいで、どこかの倉庫に在庫余らせてるんじゃない」
今まで以上にここが異世界だと突きつけられた。
このキャラクターの人気がないなんてありえない。
オーナーが商売下手でない限り、大ヒットしても不思議じゃない。
春樹も、そして友人もこのキャラクターが大好きだった。
ウララはキャラクターにもグッズにも興味がない。売れなくて当然という雰囲気をウララから感じる。
別の世界では大人気だなんて春樹が訴えても真偽を確かめられないのでウララも反応に困るだろう。
だが、自分の好きなキャラクターを春樹は擁護したくてたまらない。
愛くるしいシルエットや特異な生態に関して話したい。この世界に来て一年。毎日の生活と知らない常識を飲みこむのに意識を向けていたので春樹はゲームなどに手を出していない。
自分のいた世界とこの世界の違いを見たくなかったからか知っているものがないというのをタイトルやジャケットで確認して通り過ぎていた。
一年前はあんなに毎日ゲームをして友人と育成状況を語り合っていたのに今ではスマホに電源を入れることもない。
スマホからSNSには繋がらない。異世界と繋がれるほどスマホは高性能じゃないらしい。
「欲しいなら、何かひとつあげる。初出勤のお祝い」
後ろから声をかけられて振り向くとラクトが腰にタオルを巻いた状態でいた。
シャワーを浴びていたらしい。
ウララが言う通りに天然なのか床を濡らしても気にしていない。
それ以上に春樹はタオルがキャラクターグッズなところにツッコミを入れたかった。ウララが何も言わないということは日常的な品物も全部がゲームキャラのグッズなんだろう。
「ラクト、ちゃんと髪の毛をふいてから出てこないと」
恋人に世話を焼くようにウララが背伸びをしながらラクトの髪をふく。
この世界の常識に照らし合わせるとΩとβでは恋愛が成立しないはずだが、本当のところ春樹にはわからない。
αとΩの組み合わせが一般的というよりも本能的に正しいとされていて、αがβを選ぶのもΩがβを選ぶのも歓迎されないおかしなこととされている。
人数が一番多いので標準的な価値観を作るのはβではないのかと春樹は思うのだが、αはβを下に見るし、βはαを上に見て卑屈になっている。
生まれ持っての勝ち組がαだとしても人を怒鳴りつける余裕のないαをバイト先で今まで散々見てきた春樹はバース性にまつわる感情が飲みこみきれない。
ウララがラクトに好意を抱いているのは確実だ。
ラクトが何を考えているのかはわからないが、βであっても顔立ちだけでなく体もオーラもβらしさがない気がする。
Ωであるウララが惹かれるのも納得が出来る存在感をラクトは持っている。
華がある人間というのがΩやαなら、自分はβでラクトはαだろうと春樹は思うが、実際はそうではない。
「春樹くん?」
「どれが欲しいのか決められない?」
ウララとラクトに声をかけられて春樹は慌てて思考を止める。また自分は地雷原に進もうとしていた。
以前の自分の常識とこの世界の常識をすり合わせようとするあまり春樹の頭の中には「どうして、なんで」という疑問が浮かぶ。二十になる人間が子供のように何でもかんでも疑問を口にすると相手を怒らせたり不快にさせる。
春樹は仲がよさそうなウララとラクトを見て気持ちを切り替える。
自分が気にしていることは男らしさや女らしさはどこで判断するのか、そういうことだ。
背が高く凛々しい顔立ちの女性や背が低く女顔の男性だっている。
Ωらしくなくても春樹はΩという診断結果が出ていて覆すことは出来ない。
それと同じでラクトがいくらオーラのある美形だとしてもβだというならβなんだろう。
「このクッションください」
「だめ」
手でつかんでいたクッションを持ち上げて伝えたら即座に断られた。
「ラクトってばケチだね」
「どれでもあげるとは言ってない」
「……どれなら、いただいてもいいんでしょうか」
最初に聞いておくべきだった。
気に入っているグッズは人に渡したりしないだろう。
「これ、かな」
棚に置かれたフィギュアを持ってくるラクトに春樹は若干肩を落とす。
春樹は飾って楽しむようなグッズよりも日常的に持ち歩けたり触れられるグッズが好きだ。
「どうしてもっていうなら、これをあげる」
腰に巻いていたタオルを春樹に渡してきた。
当然、タオルによって隠されていた場所があらわになる。
自分とのサイズの違いに思わず息を飲む春樹と手で隠そうとするウララ。
春樹をからかっていたのでこういうものは平気そうなウララだがラクトを批難するように呼ぶところを見ると意外に免疫がないのかもしれない。
店長代理として店全体を見るために指名されてプレイルームにこもりっきりということがないなら知識ばかりが蓄えられて、経験は少ない可能性がある。
「くれるっていうなら、わたしがもらいたい」
頬を赤らめながら春樹の手に渡ったタオルをウララが強引に奪った。
春樹もそこまで鈍くないのでウララの反応が「ラクトだから」起こったのだと気づけたが、ラクトの反応は読めない。
全裸で巨根を揺らしながらあくびをしている。ウララの純情など無視だ。天然というより野生児なのかもしれない。
2017/08/15