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ドライヤーで髪を乾かすべきだと思ったのは、脱衣所を出てすぐだ。
葛西がヒロさんと電話で話をしていた。
確実に俺についての内容だろう。
「どうやったらA太は話をしてくれると思いますか」
『俺に聞くことじゃないだろ』
「A太が急にいなくなった理由、A太が急に戻ってきた理由……ヒロさんは」
『知らねえが、知っていたとしてもお前に教える義理はない』
ヒロさんにバッサリと切り捨てられて、あからさまに葛西は落ち込んだ。
寝室での異様なプレッシャーのない葛西は昔と地続きの俺の知っているスポーツ少年だった葛西に見える。
体育会系の素直さとでもいうのか、電話なのにヒロさんに対して正座をしている。
「やっぱりヒロさん知ってるんだぁぁぁ!!」
キッチリしていると思ったら床を叩き出す。下の階の人間も会社の人なんだろうか。
引っ越しそうそうにご近所トラブルに巻き込まれるのは勘弁願いたい。
「俺、A太のためなら何だって出来る。何だってするつもりっすよ」
『……なら、黙ってろ。何だって出来るっていうなら黙ってろ。言いたくなったら言うだろう。教えたくないなら聞き出そうとするべきじゃない』
「なんでっ!? ヒロさん、つめたいっ。ひどいよぉ!」
『人が大きく場所を移動するとき、大体、理由があるだろ。家にいるべき時間に家にいない奴は家に居たくないだけの理由がある。なんとなくっていう理由で原因や自分の気持ちを見ない奴もいるが……』
「A太はいっぱい考えるタイプ、です。つまり、えっと、やっぱり何かがあって、ここじゃない場所に行って、ここじゃない場所で何かがあったから戻ってきた」
その通りだと心の中で肯定しながら軽口で話題を遮れない。
心のやわらかい部分に踏み込んでいる。
なんでか、目が熱い。
外は曇天からにわか雨に変わっていた。
窓の外に今すぐ行きたい。
土砂降りの中で高埜ともう一度出会いをやり直したなら、今度は上手くいくのだろうか。
「やっぱり、A太に話してもらわないと俺は何も出来ない」
『黙ってろって言っただろ。鳥頭か。何も出来ないじゃない。お前は黙ってることが出来ないんだよ』
「そんなの、ひどい。俺はA太の力になりたいのにっ」
『頼まれてもいないのに、か? あいつの性格は分かってるだろ。誰かに助けてもらわなければ歩き出せない人間なのか? 自分から俺のところに働かせてくれって言ってきた奴だぞ』
喉がグッと詰まる。
奥歯を噛みしめて音を出さないように堪えた。
『俺はあいつが弱いとは思わない。助けが必要になったなら、助けてくれと言える人間だろ。助けてと言わないなら、まだ、その段階じゃないってことだ。……だから、黙ってろ。求められるまで耐えられないのは、愛情でも思いやりでもない。独りよがりの好奇心だ』
ヒロさんが昔、誰かに言っていた言葉を思い出す。
傷口に爪を立てるなと。
膿を出せば治りが早くなるなんて誰にでも通用することじゃない。
腫れあがって、熱を持ったその部分を刺激しないようにやり過ごして、何とか生活している人間だっている。
俺はそうだ。
俺がそうだ。
見ないでいたかった。
考えないでいたかった。
鈍くありたかった。
汚染された初恋を封じ込めて、あたらしい生活をだらだらと過ごして、前提が壊れると思って焦って逃げた。
たとえば、祐樹に男に犯されてショックであることを告白したら何かが変わっただろうか。
それとも、祐樹と俺の父との関係によって、結局、俺たちはダメになっていたのだろうか。
たとえば、高埜に今までの過去を話していたら、高埜は嘘など吐かなかったのだろうか。
『好奇心で他人を傷つけるのは品がなく恥ずかしいことだ。善意と好奇心は違う。お前の気持ちが善意であり、愛情だっていうなら、耐えられないことなんて何一つもないはずだ』
ヒロさんの口にする愛情は昔に俺が夢見たように真っ直ぐで純粋だ。
独占欲や性欲なんかに汚染されずにひたすらに綺麗なもの。
理想だけで愛は語れないのに胸がかきむしられる。
ただただ純粋に好きな人のことを好きだと思っていたかった。
周りのこと、自分の身に起きたこと、それが心に与えた影響によって、理想が遠のいていく。
雨の日に他人に傘を差しだせるぐらいの余裕が俺にはなかった。
自分の心や体の変化を言い訳にして、何も知らない変わらない祐樹にどこかで苛立っていた。
俺はこんなに変わってしまったのに綺麗な心のままの祐樹が怖い。
何の相談もしなかったのは、自分がみじめになりたくなかったからだ。
傷ついた自分を知られたくなかった。幻滅されたくなかったから、父の交友関係を祐樹に話せなかった。
今の祐樹はどうだろう。
昔と同じように俺との未来を夢見るような純粋さがあるんだろうか。
葛西にあんな無茶な状態で放置されても仕事として割り切るんだろうか。
男を抱くことを仕事にするのは、どんな理由からだろう。
祐樹の中に俺は居るんだろうか。
2018/09/12