死ぬより惨めな想いを抱えて(夏油)




 ただ一方的に、思いを募らせていた。その引き金を引いたのは紛れもなく彼女だったが、そこから先は、ただ落ちるだけだった。浮ついた気持ちを抱きながら、私は毎日呪術師として彼女と顔を合わせている。こんな自分では呪術師なんて務まらないのではないかと思うことすらあったが、惚れてしまったものは仕方がない。
 きっかけが何だったのか、もう、覚えていない。学生の頃、任務を終えた悟の頭をくしゃくしゃに撫で回しながら「かわいいやつ」と無邪気に笑っていた3つ年上の彼女を、私は確かに、羨望の眼差しで眺めていたのだ。その時にはきっと、もう好きになってしまっていた。惚れない奴がどうかしている。一度自覚してしまったこの気持ちには、もう終止符を打つことなどできないことも、知っている。




「あれー、傑だ。こんな時間にどうしたの」




 その呂律の回らない声が、夜風に流され、溶けていくようだった。高専を卒業した彼女は、術師としてこの高専に留まっている。高専の教員になったわけではないので本来であればどこかで一人暮らしをする人も多いが、「面倒だから」という理由で、彼女は少し離れにある宿舎で生活をしているようだった。




「なぁに?散歩?」
「…寝られなかったので」
「ふぅん」
「なまえさん、酔ってます?」
「ちょっとね。やばい、ぐらぐらする」
「大丈夫ですか」
「ねえ、部屋まで送ってよ」




 彼女は赤らんだ顔を向けて、そう言った。酒。誰と飲んでいたのか、なんて疑問が脳内に浮かんでは消える。ふらふらと揺れる身体を支えながら、彼女の腰に手を回す。




「あー。そこ、右」
「はい。気をつけてくださいよ」
「そこの、401号室」
「鍵、ありますか?」
「うん。ありがと」




 彼女を無事に送り届けて自分の宿舎に帰ろうとしたその時、「帰っちゃうの?」という一言でまるで金縛りにあったように身体が動かなくなってしまった。彼女はおもむろに私の手を取り、扉の奥へと引き入れる。




「かわいいやつ」




 いつか、悟に言っていたその言葉を、彼女は私に囁いた。彼女の細い指先が私の結んでいた髪を解き、そのまま唇を重ねた。彼女は、こんな夜を、幾度となく繰り返してきたのだろうか。とりわけ仲が良いわけでも、容姿がいいわけでもない私を相手に選んだのは、きっと全部、酒のせいなのだろう。




「ねえ、もっと、」




 彼女の上に覆いかぶさって、その首筋に顔を埋める。それ以上彼女の言葉はなく、ただ口元をゆるりと上げて笑う横顔を月明かりの下、眺めていた。その夜、私は彼女を抱いた。一度きりだった。日が昇り、すぐに部屋を出た。それから何度も彼女と顔を合わせたが、何もなかったかのように、私たちの関係は先輩と後輩のまま変わることはなかった。








「傑。今夜、お前も行くんだろ?なまえさんの昇級祝い」
「私は野暮用があるから後から合流するよ」
「ふーん、じゃあ先行ってるわ。早く来いよ」




 下心がないと言えば嘘になる。彼女は甘いものが好きと言っていたから、通りすがりの洋菓子店で小さな焼き菓子を買った。昇級祝いというほどのものではなかったが、ただ彼女に「ありがとう」と言ってほしかったのだ。


 1時間ほど遅れて参加すると、彼女は悟の隣で酒を飲んでいた。呪術師としての彼女の友人や高専の学生たちに囲まれた彼女を、私はただ、眺めていた。彼女が異性関係に奔放なことは知っている。この場にいる誰かと関係があってもおかしくはない。今までは考えないようにしていたが、想像しようとすれば簡単だ。もしも悟と関係を持っていたとしても嫉妬はしないだろう、あの二人であれば互いに本気になることもない。
 ああ、彼女はいつも、私の知りたくないことばかり、念入りに教えてくれる。あの夜、口づけた唇が、抱きしめた肩が、ぬくもりを失っていくのが耐えられなかった。彼女の愛する人になりたかったが、きっと私は失敗した。触れさえすれば心を覗けるなんて、愚かな思い違いをしていた。羨ましい、憎らしい、どうしようもなく愛おしい。






「…る、傑!」
「…あ、すみません、ボーっとしてました。」
「ごめんね、傑と話したかったんだけど次々とみんなに捕まっちゃって」
「昇級、おめでとうございます」
「ありがとう」
「飲みすぎですよ。目が据わってます」
「悟が煽るから。あいつ飲めないくせに」




 ほのかに頬を上気させて、上目遣いでこちらを見上げてくる彼女の姿に心臓が跳ねる。彼女を抱いたあの夜に、月明かりに照らされた彼女の姿をふと思い出す。綺麗な思い出になんてしたくなかった、思い出にするにはちょっと鮮やかすぎるから。




「ねえ、髪の毛ハーフアップにしてよ」
「急になんですか」
「私ね、男の人のハーフアップ、好きなんだー」
「…いつもひとつにしか結ばないので」
「貸して」




 彼女はあの夜のように、私の髪を解く。香水なのか、柔軟剤なのか、ふわりと鼻をくすぐった彼女の香り。「できた」と満足そうに笑う彼女に、思わず「かわいい」とこぼしてしまった。彼女がめずらしく照れたように顔を隠すから、その隙に私はポケットに入っていた小さなラッピングの箱を彼女に渡す。




「わ、なにこれ。私に?ありがとう」




 彼女はおもむろにリボンを解いて、バタークリームがサンドされたクッキーを嬉しそうに見つめた。その様子を見ていた悟が、「ずりぃー」と言いながら私と彼女の隣に割り込む。そんな悟に、彼女は屈託のない笑顔を向けた。ああ、なんて可愛い笑顔なのだろう。私は、君に恋をしている。
 買ってきたバターサンドを渡してしまった私にはもう何もない、彼女に与えられるものは、もう持っていない。私のポケットには、真実すら、ひとっかけらも残ってない。唯一残ったのは、この後味のような痛みだけだ。私のものになんてならなくていい。君を幸せにするのが、私じゃないなんてことも分かっている。けれどきっと、私はまた彼女の名を呼ぶだろう。愛しいその名を呼ぶだろう。だから、どうか、変わらないでいて。










死ぬより惨めな想いを抱えて
(2024.03.04)




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