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てっぽう橋の亡霊さん(後)

妙な夢を見てしまった所為か、日の出と共に目が覚めた私は授業の為に用意していたジャージに着替えて家を飛び出した。酷い胸騒ぎがする。ただの夢だと分かっていても、一刻も早くいつも通りの姿を見て安心したかった。慰霊碑の、亡霊の彼の何ら変わらぬ姿を。
───てっぽう橋が見えてきた。その袂にある巨木の木陰に慰霊碑はある、はずだった。

「…うそ…」

台座にがっちりと溶接されていたはずの慰霊碑が、真ん中に風穴を空けて仰向けに倒れていた。至近距離から何かで撃たれた様なその穴から方々に亀裂が走り、これは動かそうものなら取り返しのつかない程に粉々に砕け散るだろう。

「お兄さん!?」

亡霊の彼に呼びかけるのはこれが初めてだった。彼はこの十年、何時だって此処に居て、話す時は二人きりが当たり前だったから態々呼びかける必要なんて無かったのだ。
だから何と呼ぼうか少し考えて、青年と呼ぶには少しとうのたった彼をそう呼んだ。漸く陽射しが少し射し始めた辺りに、しかし彼の姿は見えない。そんなはずは無いのに。

「お兄さん、幽霊のお兄さん!?」

間抜けな呼び名だが、今まで呼びかけられたことのない彼が自分のことだと分からず出て来ないのかも知れないと思えば仕方なかった。
亡霊の彼に気配は無い。必死に辺りを見回すも、その姿は何処にも無かった。
そうしてその日、村は大騒ぎになった。
てっぽう橋に葬られていた亡霊の祟りだと囁く声もあった為か、今度は慰霊碑ではなく祠がつくられることになったらしい。その落成式が執り行われる頃になっても、亡霊の彼が戻ってくることは無かった。

「それでも私、忘れるんでしょうね」

生きている以上、何もかもを忘れずに生きていくことなんて出来ない。この、こころが焼け落ちそうな程の喪失感と哀しみだって一年後の今頃にはきっと消えている。毎日会っていた彼の顔だって十年後には朧気になっているに決まっていた。
祠の手入れは村役場の仕事になる。慰霊碑の世話をする人間が途切れることを憂いていた祖母は、思い残すことが無くなったかの様に息を引き取った。祖母の父と兄がてっぽう橋の下に眠っているのだと、葬式で聞かされた。
そうして私は村を離れた。彼が消えた日からぼんやりと死んでいた私のこころは、忘れることでしか生き返れないのだろう。まだ彼を忘れることは出来ていなかった。

*

新生活を初めての一年目は環境を整えながら場当たりで凌ぐ内に瞬く間に過ぎ去ってしまい、二年目は地均しをしつつ大学の課題をこなしていたらやはり直ぐに終わってしまった。
三年目になって漸く余裕が出始めた生活の中、届いたのは祖母の三回忌の報せだった。祖母の死に関連して亡霊の彼を思い出す。私はやっぱり忘れていた。
実家に帰るにしても生活の基盤はこちらにあるので、手ぶらで帰郷する訳にはいかなかった。着替えなどは全て先に宅急便で送って、必要最低限の荷物で帰れる様準備をする。お高くて有名な御菓子の包みは潰れてしまわないか心配だったので、手荷物にして持ち帰ることにした。
迷ったのは新幹線の中での取り扱いだった。上の棚に置いておいたら忘れて下りてしまうかもしれないし、かと言って足元に置いたら踏んでしまうかも知れない。どうしようかと窓際の座席を陣取りながら考えている内に、通路側の隣席に誰かが座ってしまった。柔くて繊細なお高い御菓子を膝の上に置いて、こっそり溜め息を吐く。

「それ、抱えていたら温まって形が崩れてしまいますよ」

視界に割って入ってきた手は太くごつごつと骨張っていて、見るからに男の人の手だった。紙袋を差す指を見つめながら、急になんだと目を瞬く。

「あ、はい、でも置き場所が」
「上に置きましょうか」

静かなその声音には不思議と聞き覚えがあった。けれど初対面の、新幹線で隣り合っただけの人間に対して馴れ馴れしすぎやしないかという警戒心が首を擡げる。

「いえ、結構です」

知らず声が尖っていた。そう自覚すると一気に罪悪感が押し寄せてきて、さあと指先から血の気が引く。耳の奥で大きく聞こえる心臓の脈動を二拍聞き、口を開いた時だった。

「実はつい先週まで都内の病院に入院してまして。 長いこと寝たきりだったので、丸二年かけてリハビリしていたんです。 漸く人並みの身体つきになって初めての帰郷なので少々浮かれてしまっていました。 驚かれたでしょう、すみません」

くつくつと愉しげに笑う声は冗長に語る。あまり悪いと思っていない様だが、こちらの態度を気にしないでいてくれるのなら何よりだった。そうですか大変でしたねと無難に返して会話を打ち切る。
が。

「てっぽう橋」

男の手が鉄砲の形を作り、指先を上へ軽く跳ね上げた。
鉄砲。てっぽう橋。
何故、地元でしか呼ばれないあの橋の通称を見知らぬ誰かが知っているのだろう。あの狭い村の出身だと言うのならもっと気さくに声をかけてくれたら良いのに。

「いつか俺に、何も出来なくてつまらなくないかって聞いたよな」

朗らかだったトーンから一転して、男の声がぶっきらぼうなものになる。途端脳裏に叩きつけられる既視感に右を見た。この、声は。

「つまらなかったよ、この二年。 てめえの身体動かすのに不自由するなんざお前と毎日会ってた時には考えられなかったから腹も立った。 折角生身の身体を乗っ取れたっつうのに…やっぱ健康は大事だな」

十年間毎日見てきた顔が、三年振りに見る顔がそこにあった。
地縛霊の彼。幽霊のお兄さんなんて呼んでみた、あの彼だ。
顎の縫合痕は無いものの髭は同じ形に揃えていて、けれどまだ髭を蓄えるには年若くて背伸びしている様にも見えた。私から見てそういう印象なのだから、本人も自覚しているだろう。

「…乗っ取ったって、なに」

再会の喜びよりも驚愕が先立つ。
当然だろう、だって彼は幽霊だった。それがどう見ても生身の肉体を持って、現代の服装を纏って目の前にいるのだ。
現状を把握しようと働く脳が、眼から取り込んだ情報を疑っている。亡霊の彼を化け物だと思ったことは無かったのに、今目の前にいる彼のことは化け物なんじゃないかと恐れていた。彼の口の端がにやりと吊り上がる。

「お前の幼馴染、てっきり女だと思っていたが男だったんだな」

嬉しい誤算だったぜと嘯く彼の左手が、今一度銃の形を作る。銃口となった人差し指がまた空砲を撃つ。その手の甲には一本線の火傷跡。幼馴染が祖父の火鉢を弄り回した際に火箸が当たって出来た火傷跡だった。

「安心しろ、俺が行った時にはもう成仏してた。 とっくに死んでたんだよ、お前の幼馴染は」

だから俺が有効的に再利用してやるんだと嗤う男の左手が解け、いつの間にか紙袋を固く抱いていた私の手に触れる。血の通った暖かい指先が手の甲を撫ぜて、優しい手つきで紙袋から私の指を剥がしていく。そうしてぎゅうと握り込まれた手は席を隔てる肘掛の上に着地させられ、身動きが取れなくなった。

「喜べよ、かなみ。 これからはずっと俺が居るんだぜ」

もうすっかり顔なんて忘れてしまった幼馴染の身体で、彼が嗤う。
…綺麗に整えられた髭と底無しに真っ暗な瞳。彼が憑いていたのは私だったのかも知れないと気が付いても、もう遅かった。


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