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理想はダブルA

ふっと意識が浮上する。夢も見ない泥濘に落ちていた意識は先ず音を拾って、音源を確かめるべく開いた瞳は間接照明の灯りでぼんやりと浮かび上がるボトルのラインを捉えた。マスカット色の、シャンパンのボトル。ぼんやりとその爽やかな色合いを眺めて瞬きを繰り返す。バラエティ番組ならではのわざとらしい笑いが聞こえる中で、何時チャンネルを変えたっけと思案した。
と。

「起きたか、日鳥」

その声で一気に覚醒する。
そうだ。私、月島さんを待ってる間に寝てしまったんだ。

「お! おはよう、ございます…」

ソファの上で横たえていた身体を勢いよく跳ね上げる。部屋に備え付けられていた寝巻きである浴衣は硬いのに、慣れた様子で着こなす月島さんは首にタオルを引っかけるついでの様にビールも引っかけていた。如何にも風呂上りのお父さんと言った風体はこのスイートルームに全く似合っていないのに、何故だか格好良いとときめいてしまうのだから重症だ。少し開いた胸元なんて目の毒で、つい尻すぼみになって視線を逸らしてしまう。
と、そこで初めてはらりと落ちたタオルケットに気付く。もしかせずとも月島さんがかけてくれたのだろう。申し訳なさと嬉しさが一度に襲ってくる。

「あの、これ、ありがとうございます、すみません」

タオルケットの下で浴衣を整えてから畳んで脇に置く。気にするなと笑う月島さんの頬は僅かに赤らんでいて、それが風呂上りの所為なのかアルコールの所為なのかは判然としなかった。

「俺こそ待たせてすまなかったな。 ベッドまで運んでやっても良かったんだが、そうなると本格的にメシを喰いっぱぐれるだろう? ほら、好きなの頼め」

言って月島さんが手渡してきたのはルームサービスのメニュー表だ。ラウンジで待たされる内にすっかりご飯時を逃してしまった私達の為、ホテル側が一定の金額までなら好きに頼んでくれていいと言ってくれた。足が出ても自分が払うから気にしなくていいと笑う月島さんがオススメだぞと指差したのはサーロインステーキで、どうやら私は月島さんの中ですっかりそういうキャラとして定着してしまったらしい。
うん、実際好きだから良いんだけれど。好きな人の前だからってぶりっ子するつもりは無いんだけれど。
何だろう、この、敗北感に似た焦りは。

「月島さんはどうするんですか?」
「俺も同じ物で良い。 空きっ腹にアルコールを入れてしまったから、出来れば手早く持って来てもらえる物も前菜代わりにあると良いんだが」
「それなら…あ、鮭のカルパッチョありますよ。 これは早いと思います」
「…よく分からんが早いならそれで頼む」

カルパッチョがぴんと来なかったのだろう。鮭は好きだから食べられるはずだと大きな独り言を口にする月島さんは既にほろ酔いの様子だ。
内線電話からルームサービスを頼む。既にホテル側の提示した金額を超えていることへの確認を取られたが、はみ出た分は払いますと言い切って受話器を置いた。払うのは月島さんだと言うのに、我ながら良い御身分である。

「日鳥はビールは飲めなかったな」

ソファに戻ると月島さんがシャンパン用のグラスを持たせてくれた。注がれる淡い黄色がしゅわしゅわと弾けて、果実の芳香が鼻腔を擽る。

「ありがとうございます」

礼を述べながら月島さんの空いたグラスにビールを注ぐ。長い社会人生活の中、泡を少なく注ぐ技術くらいは培っている。

「こちらこそ」
「いえいえ、お疲れ様です」

かちんと合わせたグラス越しに笑い合う。二人きりで乾杯というのが何となくくすぐったいと感じているのが、互いに分かった。

「本当どうなることかと思ったな…冷や汗掻いたのは久しぶ…いや、この案件でもかかされたんだった」

即ち三日振りだと吐露する月島さんが心底気の毒になる。今回の案件は言うなれば先方の尻拭いで、今日のトラブルだって月島さんに非は無いのに。

「間が悪い時ってありますよね」

しかしそれにぐちぐち言っていても始まらない。自分は悪くなかったのだから仕方ないと割り切って、乗り切れたことを喜び、トラブルのことは忘れてしまった方が良い。
への字口になっていた月島さんの口元がふっと綻ぶ。この出張の中で月島さんのこんな穏やかな顔を随分拝めている気がして、それだけでもついてきた甲斐があるというものだ。

「お前は前向きだよな。 落ち込む時は落ち込むが、立ち直りが早くて良い。 打ち甲斐があって手がかからないから助かるよ」
「何か怖いこと言われてる気がするんですけど…」

打ち甲斐とは何のことだろう。手がかからないというくだりも心当たりが無い。
だって営業になった時、あんなにも丁寧に指導してもらった。商談に出向こうという度に逐一相談に乗って貰ったし、あれが手間でなくてなんなのか。

「杉元や鯉登さんにはお前を見習って欲しいくらいだ」
「ああ…あの二人は、その、熱意なら誰にも負けませんし…」

成程比べられていたのがあの二人なら手がかからないと言われもすると納得した。
異動してきたばかりの杉元さんと鯉登さんは、仕事熱心なのだが如何せん熱意が空回りしている印象がある。特に重役の子息というプレッシャーを感じているらしい鯉登さんは尚更で、親の七光りなぞ言わせまいとばかりに常に張り切っている。もう少し肩の力を抜いても良いと思うのだけれど、彼の感じる重圧は一介の平社員の私には分かりかねるものだ。早々口出しして良いものでは無かろうと遠巻きに見守っている。

「特に鯉登さんは落ち込む、省みるということを知らない。 この手段がだめだったから次だと、手持ちをとかくぶち込むことしか考えていなくてな…折角のパイプもあれでは宝の持ち腐れだ」

その鯉登さんの面倒を見ているのが月島さんだった。エリートコースにある鯉登さんには誰もが敬語を使って接しており、指導役ながら月島さんもその例に漏れていない。軍曹とまで呼ばわれる指導役の手綱を振り切って突っ走る鯉登さんは、しかしそのパワフルさ故に成長出来たなら辣腕営業マンとなるだろう。…出来ればの話だけれど。今のままでは何れ壁にぶち当たってそのまま塵になってしまいそうな危うさがある。

「鯉登さんに当たっていると、日鳥がどれだけ指導しやすかったかが分かるよ。 言ったことはすんなり呑み込んでくれたし、失敗したらきちんと反省して二度と同じ轍は踏まなかった。 うっかりミスは、まあ誰にでもある。 俺達が上役として注意すべきはそこではなく、知識不足、判断ミスから発生する失敗だ。 そこを指導してこそ個人の実力も上がるもので……すまん。 何を説教しているんだろうな、俺は」
「いえ、あの、嬉しいです」

突然の褒め殺しに赤くなる頬をアルコールの所為にする為、シャンパンをぐっと煽る。こんな雑な飲み方をして良い様な安物では無い気もするが、今は頼れる物はこれしか無かった。良い飲みっぷりだと再び注いでくれる月島さんの顔が直視出来ない。ルームサービスはまだだろうか。

「…そう言えば鯉登さんに恋人が居るとか言う噂がある様だが、出所を知っているか? その辺り潔癖な人だから最近気にしているんだ」

そう言えばそんな噂もあったなと思い出す。杉元さんは鯉登のクセに生意気だなんて息巻いていたけれど、あの二人はどういう関係なんだろう。やたらに二人共互いを格下に見ているというか、遠慮が無いというか。男の友人というのはそういうものなのか。

「あー…多分それは鯉登さんがよく写真を見て溜め息を吐いてるからだと思います。 きっと遠距離恋愛中の恋人の写真だって女子が騒いでるの、聞いたことがあります」

私も何度か見かけたことがある。定期入れを見つめて切なげに溜め息を漏らす姿は絵になって、本当あの人顔は良いんだなと妙に見直してしまった。鯉登さん、他部署の女子には絶大な人気があるんだったとも。

「…あの写真か…そうか、あれか…」

眉間を摘まむ様に抑えて俯いてしまった月島さんの口から漏れるのは沈痛に過ぎる声だった。どうやら月島さんは発端である写真の正体を知っているらしい。

「違うなら違うって否定しておきますけど…でもそうなると鯉登さん、大変になりませんか?」

今でさえ遠距離恋愛中なら付け入る隙はあると鯉登さんに強襲を仕掛ける猛者が居る。フリーであると知れたならその倍の攻勢を喰らうことは目に見えていた。でもそこは別にいいのだ。恋愛は個人的なもので、仕事に支障を来さなければ好きにしていいと私は考えている。けれど鯉登さんがそういう手合いに煩わされると、指導役の月島さんの仕事も滞ってしまうから。
重々しく視線を上げた月島さんの視線が私を見据える。折角緩んでいた目元には再び疲れが乗っていた。

「あれはな…鶴見部長の写真なんだ」
「えっ」

鶴見営業部長のことはよく知っている。男女問わず部署の垣根も越えて信望を集めるあの人のことだ。直属の上司ではあるけれど、何だか社長よりも雲の上の人という感じが抜けやらない不思議な人。月島さんはそんな鶴見部長の懐刀なんて呼ばれていて、そこもまた私が月島さんを尊敬する理由の一つだった。

「鯉登さんは鶴見部長の熱心なシンパだ。 どこでどう出会ったのかは知らんが、俺が指導を任された時には既にああだった。 日に何度も鶴見部長の写真を見ては発奮しているのだと…ゲイとか、そういうのではないらしいんだが…」

いっそそうであった方がまだ理解も出来るとばかりに月島さんがビールを煽る。すぐさま無言で注ぐとありがとうと言われたが、それにはどういたしましてでは無くお疲れ様ですと返すしかなかった。

「鶴見部長から直々に指導される際には緊張の余りお国言葉が出るから、その度に俺が通訳というか中継ぎというか、何故か間に挟まれて喋らなければならないのが面倒なんだ…しかし鯉登さんのお守を部下に押し付ける訳にもいかないのがまた面倒で……なんであの人は営業部に来たんだ…!」

憧れの鶴見部長の為なんでしょうねとは言わず、珍しい月島さんの愚痴に黙って耳を傾ける。
月島さんと飲みに行くことはままあるけれど、無論それは二人きりでは無い。営業部の人間何人かで連れ立っての飲み会では月島さんは聞き役に徹することが多く、愚痴混じりの悩み相談に乗っていたりする。少なくともこんな露骨な愚痴を零しているところなんて見たことが無かった。
私はあまり愚痴ばかり聞くのは好きではないけれど、これが普段よりリラックスしてくれているが故のことなのかと思うと嬉しいくらいだった。

「…なに笑ってる」
「え。 笑ってました?」

じとりとした月島さんの視線を受けて、思わず自身の頬に触れる。アルコールの所為で上記した頬は我ながら暖かったけれど、口角が上がっていたかは確認出来なかった。指摘されて引っ込んでしまったのかも知れない。

「にこにこしてた」
「にこにこ」

月島さんらしからぬ言葉選びの可愛さに一瞬放心した。まだビール瓶一本しか空けていないのに、普段焼酎を何杯かっくらっても平然としてる月島さんが酔っ払ってるなんてそんな。

「…鯉登さんが言っていたな。 お前は毒気の無い笑い方をすると」
「鯉登さんが?」

どこか遠い目をした月島さんが齎した暴露に動揺する。
関わりなんて同じ部署にいるくらいだと思っていた鯉登さんからそんな評価を頂いていたとは思いもよらなかった。
しかし毒気のある笑い方ってどんなだろう。総務の尾形さんみたいな感じかな。

「…嬉しいのか?」

少しトーンの低くなった月島さんの問いに戸惑う。少し機嫌が悪くなっている様な気がした。

「それは勿論、褒められたら嬉しいですけど…」
「鯉登さんに褒められたからじゃなくてか?」

…え。まさか私、鯉登さんに気があると思われているのか。よりにもよって月島さんにそんな勘違いをされていると。

「違います違いますそうじゃないです絶対違います」

シャンパングラスをテーブルに置き、空いた両手を振るって全力の否定を示して見せる。
鯉登さんは悪い人じゃない。ちょっと暴走しがちだけれど性格が悪いなんてことは無いし、顔も家柄も良いとあって婚期に焦りがちな一部の女子社員にとってはこれ以上ない優良物件である。誰が彼を射止めるかには好奇心をそそられるが、どうやって彼を射止めるかにはこれっぽっちも関心が無いと言い切れる。

「そんな否定すること無いだろ。 …少しからかっただけだ」

鯉登さんが気の毒だと言いたげに零される苦笑に安堵する。普段の月島さんならこんなからかいはしてこないと慌てるところだが、既に愚痴られている現状を鑑みれば、今日は相当アルコールの回りが早いのだろうと納得出来た。それでもなんだか、違和感はあるけれど。でも月島さんが酔った振りをする理由なんて無いだろう。
呼び鈴が鳴る。ルームサービスが届いたのだろうと、月島さんに一言断ってドアの方へ向かった。

「…俺は可愛いと思ってる」

月島さんの傍を通り過ぎる一瞬に聞こえた呟きに、足が止まりかける。しかし催促する様なノックの音に促され、聞き返すことは出来なかった。一体何に対しての可愛いなのか、酔いが醒めてから聞いても月島さんは覚えていてくれるだろうか。

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