小さく息をする


 六.

ある夜、彼は任務に立とうと彼女へそのことを告げると、その表情はみるみるうちに哀しみを帯びてゆきました。いつもとは違う彼女の様子に困り果て、任務を終えたらすぐに帰ってくると云い聞かせましたが、頑なに隊服の裾を掴み、離そうとはしなかったのです。
その日、彼女は胸がざわざわと音を立て、息苦しいような、妙な不安に襲われたのでした。
それは、恋をした娘によく見られる軽薄な淋しさなどではなく、彼女が彼にずっと告げたいと願っていたいのちの話でした。
けれども声を失った彼女にそのことを伝える術はもはやありませんでした。
ただただ、この場を去ろうとする彼を引き留めることしか成せなかったのです。

彼は、彼女が寝静まるまでそばに居てやろうと思いました。その日、仰せつかっていた任務先の、列車への発車時刻まではまだ時間がありました。
彼女の気持ちを落ち着かせるため、抱き締めた腕のなかでやさしく髪を撫でてやりながら、二人で夜空に浮かぶ月を眺めました。
いつまでそうしていたのか、いつの間にかその心地よさから眠気に誘われてしまった彼女を褥に寝かしつけると、彼は静かにその部屋を後にしました。


彼女が目覚めた時、彼の姿はありませんでした。
屋敷中を見て回りましたが、静まり帰った部屋のなかには、何処からともなく鳴き続ける虫の音だけが響いていました。
ふと、いつの時か千寿郎にもらった金魚が、水面に浮き上がっていることに気がつきました。
彼女は哀しみに染まり、その小さなからだを手でやさしく掬い取ると、そっと胸に抱き締めました。

何処まで歩いてきたのか、刺すような足の痛みを堪えながら、彼女は彼の後を追おうと必死に辺りを探しました。
一人で外へ出るのは初めてでした。
辺りは分厚い壁に囲まれ、どの家もそのようにして、道の両脇に延々と続いているのでした。途方もない心持ちになりながら、やっと抜けた先は真っ暗な竹林のなかでした。
かさかさと風が葉を揺らし、生き物の遠吠えが響き、小さな物音にも不安になる胸を押さえながら、何処までも歩き続けました。

やがて一か所の大きな湖の前に辿り着き、果てしない水の広さに彼女は急に目を耀かせ、故郷を懐かしみました。
すると水面の遠く向こう岸のほうに、杏寿郎の姿が見えました。
彼の姿は遠くうっすらとしていて、その表情をはっきりと見ることはできませんでしたが、何処かやさしく微笑んでいるように見えました。
彼女は深い深い湖のなかへからだを沈めました。
人間のように二本の足になってしまった尾びれは、もう泳ぐことは叶わないのでした。
けれどもちっとも苦しくはない彼女のからだは、一心に彼のもとを目指していました。
いつしか抱えていた金魚が息を吹き返したかのように、彼女の両の手から溢れだし、その後を泳いで付いて回るのでした。
そうして差し出された彼の手を取った時、彼女は込み上げたよろこびに、咄嗟に彼の名前を呼びました。

やっと君の声を聞くことができたと、彼はやさしく微笑みました。
そしてもう一度、名前を教えてくれないか、と言葉にし、表情をやわらかく崩しました。彼女の頬に手を添え微笑むと、静かに前を見据えてその手を引きながら歩き出しました。
彼女は何処にゆくのかわかりませんでしたが、ふたたび彼と一緒に居られることを嬉しく思いました。
先ほどまでの途方もない不安は掻き消され、それは何処までも幸福に満ちていました。

二つのたましいと、一つの小さな魚のからだが眩い光のなかに溶け込みました。
どれもがまるで初めからひとつであったかのように、よろこびにゆらゆらと揺れ、たくさんの光の粒に迎えられて、静かに消えてゆきました。




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