慕情


暖かな日差しが文机の上の原稿用紙を照らしていた。開いていた本を閉じると、不意に庭先へとやってきた蝶の跳ねるのを目にした。白い花に戯れて、ひらひらと目の前を舞っている。この蝶が渡り歩いている白い躑躅(つつじ)の花言葉は、初恋というらしい。


 *

それは兄が亡くなってから、二年が経とうとしていた初夏のひとときであった。

「紋黄蝶(もんきちょう)?」

「はい。羽が黄色く色付いているから、そう呼ばれるようです」

彼女は少し顔を傾け覗き込むように留まることのない蝶が舞うのを暫くそうして見つめていた。いつもは見下ろすことのない白いうなじが厭に艶かしく映った。

「千寿郎さんは物知りですね」

こちらを振り向くことなく柔らかい声で呟くようにそう云った。音もなく一陣の風が吹き抜け、彼女の結い上げた髪からこぼれた細い後れ毛を揺らしていた。

「花や蝶は何故うつくしいのでしょう」

きっと、彼女のその言葉は誰に向けられた問いでもなかった。その時、僕は何を考えていたのか、恐らく花や蝶ではなく彼女と僕の話をしていたのだと思う。

「本当はあらゆるものがうつくしいのに、人は自分の好んだものをうつくしいと感じるのでしょう。うつくしさの優劣などないのかも知れません。そのように感じる姉上のなかに答えがあるのでは」

そんな答えにもならないような言葉を返し、おもむろに隣を見やれば、彼女はひどく優しい目でこちらを見ていた。その表情を見ていたら、随分と的外れな話をしてしまったことに、僕は途端に恥ずかしさを覚えた。何も深く考えていた訳ではなかった。無意識に近い感情で発した言葉であった。

「千寿郎さんは難しいことをおっしゃられますね」

ふと姉が兄に連れられて我が家に初めてやって来た日のことを思い出した。僕は彼女をとてもうつくしい人だと思った。長く男所帯で暮らしていたので、あまり女性というものを知らないだけであったのかも知れない。けれど大人になるにつれ、それから出会った他のどんな女性にも感じたことのない心の疼きを感じた。彼女のうつくしさは、容姿のうつくしさなどだけでは言い表せなかった。もっと内側からそこはかとなく漂う純粋なうつくしさであった。


障子戸の向こう側から声をかけられ、盆を手にした姉が部屋の中へと入ってきた。控えめに僕と距離をとり、その場に腰かけると、静かに持っていた盆を畳の上に置いた。切り分けられた果物の、甘々しい芳香がこの一室に広がった。

「お食事はとられましたか」

優しい声色であった。彼女の何気ない言葉や表情が全身に染み渡り、いつまでも胸の奥で木霊していた。僕は、彼女のあらゆることを記憶していたかった。そうした感情をいつまで燻らせ、これからを過ごしていくつもりなのか、自分でもよく解らなかった。ただこのような一瞬が今よりも多く訪れ、大切に記憶に留めておきたいと願ってやまないのであった。

「家に戻る前に駅で済ませて参りました」

彼女は庭先へと視線をやり、再び僕へと戻すと、云いづらそうに口を開いた。大方、父に頼まれたのだろう。

「吉野さんのご自宅からご連絡がありました。もう彼女とは会わないと、そのようにお決めになられたそうですね」

今度は僕が庭先へ視線を向けた。やはり今日はよい天気である。先程の蝶はいつの間にか場所を移し、小さな池の周りを漂っていた。外から差し込んだ暖かな日差しは、彼女のすぐそばに日溜まりをつくり、その顔を照らしていた。

「お二人で決められることだからと、先方は怒ってはいらっしゃらなかったですが……。仲良く交流を持たれていたように見受けられましたので」

「父上も、姉上も、そのように断りをいれた理由を知りたいということでしょうか」

厭にはっきりと自分の声が部屋の中に響いた。

「姉上は、僕の気持ちを知っていて、そのようなことを申しておられるのでしょう」

こんなにも正面から彼女を真っ直ぐ捉えたのは初めてであった。彼女は何も云わなかった。互いに見つめ合ったまま、続く言葉を探しているようであった。この日々は、簡単に答えのでないことばかりである。時に自分の感情に嫌気がさす程、僕は彼女を愛していた。

「千寿郎さんのお気持ちに私は……」

「解っております。しかし、姉上は兄上のことを忘れることが出来ますか」

彼女を困らせたい訳ではなかった。胸の内側から沸きでる激しい衝動とは、対象を目の前にしては抑えられないものだと身に染みて感じた。

「僕は、あなたが嫁いできた日のことを覚えています。この気持ちは一日やそこらで積み重ねたものではありません」

彼女の揺らいだ瞳に吸い寄せられるように、僕は距離を詰め、膝に置かれた手を強引に引き寄せた。その肩に顔を埋めると、もうあれこれと頭で考えていた自身の感情は一切取るに足らないことのように思えた。何処までも一方的な、自分本意な行為であった。


「人は一度、好いた人のことをそう簡単には忘れ去れないものではありませんか」

真昼の日差しに視界がぼんやりとし定かではなくなる。彼女の柔らかい唇に、行き場を失った言葉の続きを重ねた。




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