慕情


その人は厨に佇み、青菜を切る手を止め、開いた小窓から鳥が飛び立つのを見ていた。
立ち込める鰹節の香り、鍋はコポコポと音を立てて、幾つもの膨らんだ粒が弾けるのを聞いた。茫と包丁を握りしめたまま、動きのない白い手先、細くなだらかな肩、少し伏せた目元は物憂げで、いつもそうして窓の外を眺めては此処ではない何処かに想いを馳せている。僕はもう何年もそんな後ろ姿を見つめていた。

「只今戻りました」

手に下げた学生帽を胸にあて、トランク鞄を静かに床に置いた。旧制高校に上がって二度目の春期休暇を、寮で過ごさず、この家に帰ってきたのには理由(わけ)があった。同級の仲間たちは地方から出てきている者も多く、比較的近場に住む僕が然程長くもない休暇を家で過ごすのが珍しいようであったーー

「煉獄くん、君は休暇をどう過ごす予定なんだい」

「こいつは家に戻るつもりなのさ。わざわざこの短い休みに帰省する者などいないぞ」

「煉獄、僕たちは青春という名の自由を手にしたというのに、何を好き好んで親元に帰るというのだ。賛同しかねる」

「桜流しの方だろ。彼の想い人さ」

「ああそういう理由かーー」

そうだ、僕はこの人に会いたかった。同級生たちはこの女性を"桜流しの人"と呼んでいた。それは文芸雑誌に投稿した短編小説のなかで、僕がそのように書いていたからだ。恐らくそれがあまりに生々しく、同級生たちに彼女について話したことはなかったにもかかわらず、彼らは豊かな妄想を働かせて、あれよあれよという間に実在する"桜流しの人"を作り上げた。
遂に表現の殻を破ったと、自身を惜しげもなく吐露してこその芸術であると囃し立てた。私小説と呼ばれるジャンルに僕らは日夜挑んでは、儘ならない創作活動に打ちひしがれていた。そうして学生生活の大部分を費やし、勉学の傍らでいつしか本気になりかけていたのだ。それは有名になりたいとか、物書きの職に就くだとか、そういった事ではなく、僕らなりに自分というものを模索していたのだと思う。

「千寿郎さん、お帰りなさい」

振り返ったその人は、優しい笑みをたたえて、その面差しは変わらずうつくしかった。
皆は"桜流しの人"を僕が故郷に残してきた幼馴染みか何かの娘だと思っている。それがまさか自身の姉であるとは誰も思いも寄らないだろう。

「姉上、お土産があるのです」

「まあ何でしょう」

目を細めるこの表情を見たくて、時おり僕はこの瞬間のために日々を費やしているのだとさえ思えた。

「綺麗な建物ですね」

彼女は絵柄を指でなぞり、その場所に想いを馳せていた。それは駅舎が描かれた一枚の絵葉書であった。僕はこうして、外出先でその土地固有の絵葉書を見かけると、買って帰ることが多くなっていた。
それは姉がある時から日本各地の絵葉書を好んで集めるようになったからだ。その理由は、いつの日にか兄と約束していたという日本一周の旅を果たせなかったためだと思う。
今思えば兄は勤めが忙しく一年の大半を不在にしていた。既に結婚前には屋敷を構え独立していたが、そこに彼女を一人残すのは心苦しく思ったのか、結婚を機に二人でこの生家へと戻ってきた。ゆっくりと一緒に過ごす時間など殆どなかったように思われる。その時間を埋めるかのように、二人は文を交わしていた。兄はどんなに忙しくとも、姉にも僕にもよく出先から文を送ってくれた。そしてその名残なのか、今も時おり読まれることのない文を姉がしたためていることを僕は知っている。

黄白色の紙の上に淡いタッチで控えめに表現された煉瓦造りの駅舎は、特徴的な丸屋根を備え、内側から見上げると八角形の天井に、干支、鷲、花飾りなどの意匠が施されていた。そんな西洋風のモダンな造りが話題を呼び、もう建てられてから数年は経つというのに、未だに観光客が途絶えることはなかった。

「球形の天井がとても高く、それは見事でした。もう少し人の賑わいが落ち着いたら、一緒に見に参りましょう」

「そうですね。けれど、せっかくですから吉野さんのお嬢さんとご一緒に……」

そう云い掛けて姉は困ったように僕を見つめた。彼女が云わんとしていることは分かっていた。帰省する度、事ある毎に父にも姉にもその名前を投げ掛けられた。吉野さんとは、以前父の知人から、いずれ僕の縁談相手にと紹介を受けた女性のことであった。
何度か食事をし、そつなく会話も重ねた。小柄で控えめな雰囲気をしていたが、思いがけず芯の強いところのある女性であった。吉野さんと接して、僕は女性というものの奥深さを悟った。女性は鋭い。何も云わなくても気持ちなど筒抜けであるのかも知れなかった。この関係にあまり積極的ではない僕の様子に、吉野さんは「何か私に足りないところがあればおっしゃってください」と云った。真剣な眼差しであった。そんな真摯な姿に取り繕うことなど出来なかった。僕は好意を寄せている女性がいるのだと正直に話した。けれど、それが恐らく受け入れられることのないものであるとは云わなかった。それは吉野さんへのせめてもの誠意と、例え受け入れられずとも僕の気持ちは変わらないからである。


折れてしまった頁を強く押し付けたところで、元には戻らない。人は起こってしまってから、粗雑に扱ったことを悔いるのだろう。
色褪せた文庫本をぺらぺらと捲り、字面をなぞるが、少しも頭には入ってこなかった。
けれど意味など深く考え込まなくても、心地のよい文章であった。この青空に似合うほどに、うつくしい言葉の響きを連ねていた。
そうして人の書いたものを幾らか読んでも求めていたものが簡単に得られる訳ではなく、自身の原稿用紙は空白のまま、一向に筆は進まず、どうにも行き詰まっていた。
三日のうちには初稿を仕上げねばならない。これを文芸部に送り、顧問が添削をする。この月、学内の雑誌に掲載されるのはスペースの関係で投稿されたうちの三作品のみだ。部員は十二名。傍から見たら何をそんなに学内の選考に躍起になることがあるのかと思うだろう。剣術一筋の父には理解されないことであった。けして口には出されなかったが、縁談でもすすめれば、少しは自覚を持ち過ごすようになると思われたのかも知れない。

代々炎柱を務めた由緒ある家系に生まれながら、僕には剣術の才はなかった。幼き日の僕は剣を持たなくてよい日が来るなど思いもしなかったが、兄はどこかそんな日を予感していたような気がしてならない。もし兄がこの日々を共に迎えていたら、何を成しただろうと考える。素晴らしい人であった。兄を想わない日はなかった。恋心とは不思議だ。兄が大切にしていた人を、兄を慕う気持ちから見つめ続けていたに過ぎなかった。いつしかそれは、僕個人の感情になり、兄を介さなくなっていた。兄が名前さんへの僕のこの気持ちを知ったら、何と思うだろうか。




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