勿忘草


 *

「君のことを些細なことも何もかも、隈無く知りたいと望んでしまうのは、いけないことなのだろうか」


既に彼とは、数年の付き合いに及んでいたが、思えば私から自身のことについて話すことはあまりなかった。

かつて、キセルなどを取り扱う金物の商家として栄えた私の家は、紙煙草の普及に伴い、次第に傾き始めていた。そんな折、畳み掛けるように病で父を失い、商売などしたこともない良家出身の母は、日が明けてから暮れるまで、庭先の花を眺めては塞ぎ込むようになっていた。
私は父の知り合いのご厚意で、紹介していただいた奉公先に勤め始めたばかりで、自身のことよりも優先しなければならないことが沢山あると思い込んでいた。それでも抗えないほど、私のなかで少しずつ肥大してゆく彼の存在を、無視することは出来なかった。
この頃になると、彼は無事に鬼殺隊の試験に合格し、真新しい黒色の隊服に身を包んでいた。互いに忙しくなり、必然的に逢瀬の頻度も少なくなっていった。


「あんた、男がいるらしいじゃないかい」

当時、奉公先に住み込みで働いていた私は、相部屋であったその女性を、随分と頼りにしていた。彼女は片膝を立て、ゆっくりと団扇を扇ぎながら自身の首元に風を送っていた。窓の桟に凭れ、どこか優しく微笑んで、外から聞こえてくる子供の声に耳を傾けていた。

「程々にしておくんだよ。男なんてのはさ、一度女を抱いてしまうと、すっかり自分のものだと思い込んで、情が移るのは女ばかりさーー」

それでも、構わないと思っていた。望んだものは多くはなかった。けれど数ではなく、大きさで表したとしたなら、私には身に余るものであったのかも知れない。


彼の胸にすがり、自身の唇を彼の唇に押し当てた。その日はきっと、どうかしていたのだと思う。着物の帯を振りほどき、襦袢姿になった私に、彼は戸惑いを隠せないようだった。

「名前、ここまでにしよう」

そう云いながら優しく抱きしめて、慰めるようにそっと髪を撫でた。彼は抱いてはくれなかった。すると途端に恥ずかしさが込み上げて、そんな自身がひどく惨めに思えてならないのであった。
それから暫くして、彼が見合いをするのだと人伝に聞いた。文もぱたりと届かなくなった。その内にお世話になっていた奉公先までも傾き始め、私は新しい仕事先へ移ることになった。そのことを彼には告げなかった。


 *

駅の人も疎らになり、日が暮れ始めている。
窓から外を覗くと、この地方では珍しく雪が降り始めていた。

「雪が降って参りましたね」

そう声を掛けると、店主は、この調子では今日は客は来ないだろうから閉めてしまおうか、と云った。
その時、カランコロンというベルの音とともに扉が開き、男がひとり静かに中へと入ってきた。
その姿を見て思わず持っていた盆を落とし掛け、懐かしい顔をじっと見つめた。
彼は一瞬こちらを見て、眉を下げ微笑んだように思えた。
黒い隊服に白い羽織を纏ったその姿は、以前よりも落ち着きがあり随分と大人びて見えた。

「こんな時間に申し訳ない。まだ大丈夫だろうか」

「いらっしゃいませ! 勿論でございます。お好きなところへお座り下さい。名前、茫としてどうした。早く仕度をしないか」

彼は入り口近くの四人掛けの席へ腰掛けた。店主の声にはっとし、慌ててお品書きを手に取り、彼の前へと差し出す。自身でも驚くほどの緊張に、思わず割烹着の裾を握りしめた。

「ご注文はいかが致しますか」

少しの間があった。彼は私の目を見つめて、やはり目を細め、切なげに微笑んだ。

「お勧めはあるか」

「ねぎ……せいろに、ございます」

「では、それを貰おう!」

先ほどとは打って変わり、晴れやかに微笑んだ彼は、腕を組みながら店内を見渡した。
私は誤魔化すように厨房へと駆け込み、食器棚にもたれ掛かった。
いつもとは異なる私の様子を、呆気に取られた店主が、きょとんとした面持ちで見ていた。

「あ、ねぎ、ねぎせいろをお願いします」

それから彼は何も云わなかった。特に何をするでもなく、本当に蕎麦を食べに来ただけのように見えた。
私は各テーブルに置かれた調味料を片しながら、同じ場所を幾度も拭いては、冷静さを装おうとした。

「うまかった! お会計を頼む」

彼は店主に笑みを向け頭を下げると、私を真っ直ぐ見据えた。懐からお金と一枚の手拭いを差し出し、「明朝まで此処に滞在している」とそれだけを一言残して店を出ていった。




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