勿忘草


風に流されて嗅ぎ慣れない甘い香りが鼻孔をかすめた。
それは花なのか、果物なのか。いつの日か、彼はこの香りを好きになれないのだと云っていた。その理由を知ったその日から、この香りを嗅ぐと、胸を締め付けられるような、途方もない彼の心情を思わせるのであった。


私は絡み合う男女の姿というのを初めて目にした。
人ひとり入れるほどに開かれた障子戸の隙間から漏れ出る嬌声に、その声の発せられる意味を解らぬほどもう子供ではなかった。
早くこの場を去らなければと思ったけれど、自身の鼓動が早まるのを感じながら、動揺して動くことが出来なかった。許可もなく人の庭先に佇んでいたのだ。
その時、強い力に手を引かれ、徒長した木々の葉が頬を掠め、従うままに門戸を抜けた。掴まれた手の力が弱まることはなく、彼は前を見据え、いつまでも振り返ろうとはしなかった。
何処まで歩いたのか、暖かい日差しが陰り少し肌寒くなり、見慣れた民家の景色が遠退き、田畑ばかりが延々と続く道の先で、彼はやっと足を止めた。

「ごめんなさい……、声を掛けても誰もいらっしゃらないようだったので。杏寿郎さんがお庭で稽古をされているのかと思って……」

「君は何も謝ることはしていない」

夕焼けを背に振り返った彼は、いつもの屈託のない表情をした彼だった。それから少し困ったように微笑んで、私の手首を擦りながら、手を強く引いてしまったことを謝った。
私たちは再び歩き出して、来た道を戻ることも出来ずに、あてもなく唯、真っ直ぐと寄り添いながら進んでいた。

辿り着いた先に、古びたお堂がひとつあった。町から外れて孤独に建てられたこの小さなお堂に、幾重もの緑の他に寄り添うものはなく、沢山の実をつけた椎の木に囲まれて、深い眠りに落ちたように辺りは静寂さに包まれていた。
木製の扉を開くと、剥がれた木の板が数枚、八畳ほどの床に点々と転がり、目蓋を下ろした華奢な仏像だけが時を保ったかのように、正面に鎮座していた。その目前に置かれた二つの燭台に灯すものは何もなく、長く誰も訪れてはいないようだった。

じきに日が暮れてしまうが、二人とも考えないようにしていたのかも知れない。彼が衝動に突き動かされたように、家を飛び出すことなどこれまでなかったのだろうと思う。私は、その気持ちに寄り添うことしか、慰め方を知らなかった。


彼は私の耳に手を当て、親指で頬を擦った。
優しく何度か上唇を口に含み、下へと首筋に顔を落とすと、息を吸い込み、途切れ途切れに名前を呼んだ。

「名前」

彼の柔らかい髪に指を通し、その顔を確かめようと自身の胸元に額をつけた彼の頭を起こし、両の手で輪郭をなぞった。
薄暗いお堂のなかに、打ちつけた木の隙間から幾筋もの橙の光が差し込んでいた。私たちは何をするでもなく、互いをじっと抱き締めて、愛しさが込み上げてくるのを感じていた。


この時、彼はもうすぐ鬼殺隊という組織に入るための試験があるのだと話していた。それは幼い頃から彼が心に決めていたことの一端であった。

「鬼殺隊に入り、俺はいつか父上のように柱になる。そうしたら、君を迎えに来る。屋敷を構えて、其処で共に暮らそう」

それ以来、私たちは繰り返し、この場所で逢瀬を重ねるようになったーー


しとしとと雨の降るそのなかに、彼は傘も差さずに立っていた。
幾度も目にしたはずの後ろ姿に、初めて見た日のように胸がくるしくなるので、握りしめた文を胸に押し当て、そっと息を吐き出した。文の宛名が雨に濡れて、少し紫色に滲んでいた。
泥が跳ねて、着物の裾を濡らすのを気にも留めず、唯々、私は彼に会いたかった。

「杏寿郎さん……!」

息を切らして駆け寄れば、彼は嬉しそうに振り返り、私の手を引きながらお堂のなかへと入っていった。

「名前」

彼は幾度も私の名前を呼んだ。その声に応えるように、彼の頬に触れては愛しさに胸を焦がした。
私たちは若かった。あまりに青い拙さとともに、寄り添い方も知らぬまま、この瞬間だけを胸に、いつまでも互いの身体に触れていたかった。


 *

「お姉さん、板わさと蕎麦焼酎をくれるかい」

「はい! 唯今お持ち致します」

急いでテーブルを拭いていた手を止め、カウンターから顔を覗かせている店主に注文を伝える。
フェルトの中折れ帽をテーブルに置き、和装を身に纏ったその人は、活動家と呼ばれる方たちの一人で、志を持ち、この国を変えようとなさっているのだと教えていただいた。
そんな事柄とは無縁の私は、そういった方たちが訪れては、去っていく姿を幾度も見送り、少しだけ外の世界のことを知るのだった。
大きくはない木造の駅舎は、この田舎町では一番の新しい建物であった。併設されたこの蕎麦屋は、次の発車時刻を待つ人々の姿で埋まり、昼時を過ぎる十四時頃までは店内はいつもばたばたと慌ただしかった。

「有難うございました!」

中休みを迎える前の、最後の客を見送り、扉に掛けられた商い中の木札を支度中にひっくり返す。
文明開化の音など一向に聞こえてこない、この町の景色が私は好きだ。それは、いつか彼と歩いたあの景色を思わせるからだろうか。目の前の大通りを抜けると、其処には延々と田畑が広がっていた。

冬の至りは疾うに越えた。まんまるに膨らんだ雀たちは寒さを凌ぐため、羽毛を膨らまして空気の層を作っている。自然界に棲まう生き物たちは季節の流れにその身を合わせ、私は、常識のもと、変わらぬ日常に身を委ねている。
越えてきた日々を振り返るには、あまりに時の流れは忙しなかった。
けれど記憶を忘れ去るほど強くもなれず、このように軒先に佇んでいると、時折吹き抜けた風に彼の笑う表情などを思い起こしては胸に滲んでゆく。




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