good boy | ナノ

「苗字先生って恋人居るんですか?」

突然の質問は恐らく、というか絶対に扉の向こうの冨岡先生の耳にも入っていただろう。
その証拠に、音を立てないように開けられた若干の隙間。
続く会話を聞き取りやすいようにしたんだろうけど、これまたわかりやすく青いジャージの背部分が見えていて、それでバレていないと本気で思っているのか、それとも私が気付き声を掛けてくるのを待っているのか、その心境をつい深く考えてしまう。

「…すいません…聞かれたくなかったですか?」

再度出して貰った契約書を記入しながら、何も喋らなくなった私にその表情が不安げになっていく。
何ていうか…この人は本当に裏表がないんだろうな。そう考えると実習の彼女とも似ているのかも知れない。
「いえ、恋人は居ません」
気を張っているせいか、扉の向こうの圧が強くなった気がする。
「…でも最近」
一瞬、言葉の選定を迷う。
でもこれなら多分、誤解は生まれようもないだろうと、言葉を出した。

「犬を、飼いまして」


good boy


その言葉にも扉が開かれる気配がない事から、乱入してくる気はないらしい。
それなら丁度良い。
今、答えを伝えてしまおう。

「大型犬なんですけどね、その犬がまぁ手が掛かるもので、やっと大人しくなってきたんです」

目の前の人物は、何故そんな話をしているのか、理解に困っている。
不思議そうに見つめてくる瞳は純粋なもので、自然と、その瞳から逃げるように手元へ落とした。

「でも私に近付く存在を認識するとすごく威嚇して怒るんですよ。だから恋人なんて作れないなぁって思いまして。まぁ今は仕事が一番なので、作ろうとも思わないから良いんですけどね」
「…そ、そうなんですか」

意気消沈していく姿に、心が痛まない訳じゃない。
ごめんなさい、と心の中だけで呟く。
正直に言えば、目の前の存在から向けられる、僅かな好意は伝わってきてはいた。
最初こそ、私が落ち込んでいるように見えた事で単純に気にしてくれたのだろうと考えていたけれど、昨日の電話で、それが恋愛感情に近いものに変化しそうな気配を感じてしまった。
それは多分、本人もまだ自覚がない程の小さなもの。
でも、これ以上大きくなれば今よりも更に彼を傷付ける未来しかない。
悪意ばかりの中で向けられた、僅かでも純粋な好意は、素直に嬉しかった。
だから今、鈍感なふりをして根こそぎ摘んでしまう。
期待や希望すら抱くのを諦める程に。

「人間と居るより、動物と居た方が癒しになりません?」

意識して作った笑顔に、無垢な表情がつられて笑う。
「あ、それはそうですね!僕も仕事終わるとすぐ帰って癒されたい!ってなります。お客さんに怒られた時とかは特に」
「わかります」
「やっぱり動物って良いですよねぇ!大型犬って事はゴールデンとか?」
…正直そこを突っ込んで訊いてくるとは思わなかった。
「…えぇと、いや、犬種は…。迷い犬なのでちょっと良くは知らないんですけど…」
「あ、じゃあミックスかな?うちの猫もそうです!名前はなんて?」
ホントに悪気はなく好奇心でしかないんだろうけど、めちゃくちゃ食いついてくるなこの人…。
つい扉の向こうを意識してしまって顔を逸らすと小さく呟く。
「…ポチ、とかそんな名前です…」
流石に此処で人名は出せない。
「ポチ!僕の猫もポチですよ!」
驚きつつも嬉々とした声に、扉が開かれやしないか冷や冷やしてしまう。
「猫にポチですか…」
「おかしいですよね。祖母がどうしてもポチが良いっていうから」
小さく笑うその表情に、このままでは続いてしまいそうな会話の返答を止めて、文字を書く事に集中すれば、その気配が若干寂しそうなものへ変わったものの、考察しようとするのをやめた。

「…出来ました」
「ありがとうございます!それでは一度社の方に戻って、回収と納期の確認をしてまたご連絡させていただきます」
「よろしくお願いいたします」
立ち上がるとお互い深く頭を下げる。
扉を引く後ろ姿がビクッと震えてから
「…こんにちは」
外側に軽くした会釈で、まだそこに冨岡先生が居る事が窺えた。
「では、失礼します!」
深々と頭を下げた姿に倣い、私も頭を下げてからその背を見送る。
ボールペンをペンケースへ入れると、契約書の控えを透明なファイルへしまう。
開け放たれたままなのに、未だかくれんぼを続けているツンとした髪の毛に視線を向けた。

「盗み聞きで得られたものはありました?」

冷静にそう訊けば、ゆっくりとその姿を現す。
見た所、表情は余り変わらない。

「気付いてたのか」
「バレバレですよ。わざとかと思いました」
「さっきの男は何だ?」
「聞いていてわかる通り取ひ「犬を飼ったとはどういう事だ?何故当事者である俺を置き去りに話が進んだ?飼うと決めたのなら真っ先に伝えるべきだろう。一体どれだけ待ったと思ってる?それに俺はポチじゃない」」
矢継ぎ早に言うと早足で詰めてくる距離に思わず身を引いてしまう。
久し振りに感じるからか圧が凄い。
「気持ちはわかりますが、ちょっと一回落ち着きませんか?どうどう」
「これが落ち着いていられる状況か?お前が俺を飼うと言った。天地を揺るがす事案なのは間違いない」
「まぁ、そうですね。でもそれが私の答えです」
30cmもない隙間を少しでも空けようと両掌を見せながら後ずさりをしようにも抱き寄せる腰。
真っ直ぐ見つめてくる群青色の瞳に耐え切れず顔ごと視線を逸らした。
「そうか。漸く全てを俺に捧げる気になったのか…」
「感動している所悪いんですけど違います」
「何故だ」
「私の話聞いてました?恋人じゃなくて飼い犬って言いましたよね?」
「似たようなものだ」
「似て非なるものですよそれは」

ずっと、考えていた。
何故私は、この気持ちを受け入れたくないと思っていたのか。

冨岡先生に、恋愛感情を持ちたくない。

その感情が生まれてしまえば、崩れてしまう、壊れてしまう。
平等でいられなくなる。
心を保てなくなる。

だけどこの人は諦めない。
どんな答えを出しても、自分が望む以外の選択に納得なんてしない。

それならもう

「飼い犬としてなら良いかと、譲歩をした結果です」
「…俺が、名前の飼い犬に…」

自分の世界に入る前に、何かのスイッチが入ったのかグッと引き寄せられる腰に、抵抗する間もなく口唇が押し付けられる。
舌の侵入を許す前に右手でその顎を思い切り押し返した。
「ホントに、暴走がお好きですね」
「暴走はしてない。飼い犬としてじゃれただけだ」
「駄目です」
「何故だ。犬でも飼い主とキスくらいのスキンシップはする」
「私ペットとはそういう事したくないタイプなんで」
「可愛い愛犬がキスをせがんでるのに断れるのか?」
「可愛いとか自分で言える辺り流石ですよね。断りますし躾は厳しいですよ」
「名前が俺を躾けるのか…。興奮以外の何物でもない」
…すんなり受け入れようとしてるけど、この人ってこんなマゾ気質だったっけ?
もしかして虐げ過ぎたせい?
「家の鍵だ。持っていてくれ」
そうしてポケットから出したいつかも見た銀色のそれに眉を寄せる。
当たり前にラバーストラップが付いていない。
「…何でまた鍵の話になるんですか?」
「飼い犬になるという事は一緒に住むという事だ。隣とは言え越すには時間が掛かる上、その間互いの家を往来するだろう?」
「いえ、一緒には住みませんよ」
「何故だ」
ものすごく圧が強い。
「勘違いをなさってるようなのではっきり言わせていただきますが、飼うというのは精神的な面という意味で、一緒に暮らすとかそういう物理的なものではありません」
要は今までと変わらない、というのを示したかったんだけども、伝えるのは難しい。
この人には特に。
押し返していた手を下げた事で、話を聞くつもりにはなったようで、小さく息を吐く。
「このまま済し崩し的になるのが嫌だったのできちんと考えたんです。冨岡先生は何をそんなに私に拘るのか」
「それはお前が俺を拾ったからだ」
「そこなんですよ。私は一切拾ったつもりはないのに、どこかで冨岡先生の琴線に触れた」
そうして恐らく当時のこの人は、周りが全て敵だと感じていたのではないかと推測をした事で、見えてきた何か。

きっと

「私という他人を通して、曖昧だったご自分の輪郭を見たからではないですか?」

珍しくその瞳が大きく開かれたのを見て、核心に触れたのを悟った。
鍵を掌に収めると頬を撫でる指の動きはまるで割れ物にでも触れるように優しい。

「…お前は…そうやって、的確に俺を救っていくのだな」
「救っているつもりはありません。ただそれが事実ではないかという根拠を今回の経験から見出しただけです」

満ちた悪意に対抗しようと、いくら自分で慰め撫でても、現れてはくれなかった存在意義。
誰かが…、例えば胡蝶先生を始めとした他人が私と向き合い、理解を示してくれた事で少しずつ見えてきたのは、自分という輪郭。

私は私で良いのだと、そう言って貰えた気がした。
自尊や自信、自分の事ながら、自分では作り出せないそれらが自分以外の存在で満たされたように思う。

そして、自己効力感を生成出来ないのは、この人も同じ。

冨岡先生は、それを私にだけ投影して認識している。
だから私が全てだと、迷う事なく言えるんだ。
そうして自分を擦り減らしていってしまう。
それは余り、褒められたものじゃない。

「冨岡先生が私以外の誰かに、それが見出せるまでは、飼い主として傍には居ます」
「飼い主としてだけじゃない。俺は名前の彼氏兼旦那になる。寧ろすぐにでもなりたい。お前以外の誰かは要らない必要ない」
「そうやって自分から視野を狭くするのも、生き辛さのひとつですよ」

私は、何処かで冨岡先生と自分は似ているものだと、心の奥底でそう思っていた。
だけど、全然違う。

「冨岡先生の正しい輪郭を、映し出してくれる人はこれから先、きっと現れますから」

私には出来ない。
出来ないんだ。
この人を、全面的に受け入れる事が。

崩れたくない。
壊したくない。

いつからだろう。
そう考えるようになっていた。

好きだというその感情には、いつか終わりが来る。
終わりが来たら、憎しみしかないのをわかっている。

そんなの、悲しいだけじゃないか。

それならもう、最初から綺麗なまま、冨岡先生が次の誰かに、同じようで違う感情を向けるまで"飼い主"としてのポジションに徹した方が良い。

「何故今になってまた壁を作ろうとする?」

更に引き寄せる腰に引こうとする身体はびくともしない。
開けられたままの扉の向こう
「お前マジそれありえね〜!」
「何でそうしようと思ったし!」
生徒達の声を聞くと同時、抜け出そうと力を入れる前に冷たい床へと組み敷かれていた。

背中を強打したお陰で、机の陰に隠れ生徒達には目撃されずに済んだ訳だけども。

「同僚として接してくれていた紳士な冨岡先生は何処に行ったんでしょうね」
「今のは飼い犬として主を護る行動だ。それより何故また壁を作る?」
とぼけた所で無駄なんだろうな、と眉を寄せてから口を開く。

「平等で公平は、私の唯一の武器で誇れるものなんですよ」
「憧憬している教師の影響か」
「そうです。なので出来るだけ感情の起伏を起こしたくないんです」
「俺が名前の感情を荒立てるのか?」
「そういう意味「荒立てるんだな?」」
返事の代わりに沈黙の肯定で答えれば、満足したようにこちらを見下ろす瞳に眉を寄せる、
「やはりそうか。可愛い」
1人で納得したような表情を見せたかと思えば音を立てて啄んでくる口唇から逃げるため顔を逸らした。
「何を勝手に解釈してるんですか?」
「ストラップがない」
右掌に収まっていた銀色のそれは手首を返すと共に指先へ移動している。
「そう思っただろう?」
含みを持たせた言い方に更に険しい顔をするしか、正直な所出来ない。
「それは彼女からのLINEで知りました。あげたんですよね?」
徐々に笑みを湛えていくその意味が正直わからない。
「交渉の末、お前を護るために渡さざるを得なかった。でなければあの時、お前と俺が同じマンションに住んでいるのを小型犬に知られてしまう可能性があった」
「ちょっと待ってくださいね。全く何も状況も意味も訳がわからない上に、今このままの状態で聞く話でもないので離していただけませんか?学校って土足じゃなくても汚いんですよ。そこに背中をつけ続けるのは勘弁したいです」
「…そうか、わかった」
背中に手を回したかと思えばいとも簡単に身体を起こす動きに心臓が跳ねたが、自然とキスしてこようとする顔を左手で止める。

「私は話をしたいんですが」
「俺はお前に触れたい。これまで我慢した褒美だ。小型犬はお前に何を吹き込んだ?」
その質問で考えるより先、簡潔に答えた。
「冨岡先生が好きなんですよ、彼女」
視線を落とした隙を狙って啄んでくる口唇。
「…そういう事か」
覗き込んでくる群青色が楽しそうな程、こちらの眉間の皺は増えていく。
「お前にしては珍しく…いや、お前だからこそか。一杯食わされたな」
「どういう事ですか?」
「そうか。だからあの時も…」
「どういう事か説明していただけますか?」
また突然自分の世界に入るものだから強めの口調で引き戻す。
還ってきたら還ってきたでまたキスしようとしてくるから厄介なんだけども。
「聞いてます?人の話」
「聞いてはいる。小型犬が好きなのは俺じゃない。名前だ」
しれっと言いのけるものだから、理解をするまでだいぶ時間を要してしまった。


それってつまりはどういうこと?


(彼女が?私を?)
(安心しろ。俺はその遥か上の次元でお前が好きだ)
(いや、今はそういう話じゃなくて)


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