good boy | ナノ

2月8日月曜日―

「冨岡先生!誕生日おめでとうございます!」
「フガッ!フゴッ!」
竈門兄妹を始めとした生徒達がその姿を見る度に、祝福の言葉を掛けていて
「あぁ」
当の本人は小さく短い返事を返すだけだけど、満更でもないのは伝わってくる。
職員室でも胡蝶先生達に続々と祝いの言葉を掛けられていたのを思い出した。
まぁ、教師陣の場合、0時を越えた辺りからグループLINEでこれでもか、というくらい騒いでいたのだけど。
「そういやァ苗字は祝わないのかよ?」
不思議そうに目を丸くしたのは不死川先生。
自分も「おめでとう」とは直接的な祝い方をしないのに、私がグループLINEでも職員室でも一度もその類の言葉を言わない事が気になったらしい。
「…あぁ、そうですよね。冨岡先生、おめでとうございます」
無難にそう返したのを随分淡白だなと感じたのはわかってはいたが、私の顔を見るなり頬を弛める冨岡先生に、これ以上は何も言うまいと早々に仕事を始めた。

祝いの言葉は、日付が変わった瞬間…いや、3分を過ぎていたがとにかくLINEで送った。
冨岡先生が
「名前に一番に祝われたい」
と、しつこかったためだ。
目覚ましを掛けたは良いけど、何と送れば良いのか迷って
"お誕生日おめでとうございます"
それだけ送ったと同時に通知を告げた音声通話で寝惚けながらもう一度「おめでとうございます」と伝えた。
どうやら今年初の称号を獲得したという名誉も手伝って、それで満足したらしいが、こんな経緯を教師陣の前で言うと、また面倒な事になるので黙っておく事にする。

まぁ、この人の頬が弛んでいるのはそれだけじゃないんだけども。


good boy


「名前、今日は残業予定か?」
体育の授業を終え、デスクへと帰ってきた嬉々とした表情を一瞥してからパソコンの画面へ戻す。
「出来るだけ回避出来るよう今頑張って仕事をしています」
「…そうか」
わかりやすく綻ぶ口元を目端で捉えながらキーボードを打っていく。
「本当に何でも良いんですか?」
「あぁ。名前が作りたいものを作ってくれ」
「作りたい物は特にないんですけど…」
呟いてから思考を巡らす。
「和と洋だったらどちらがお好みで?」
「その日の気分によるが和食の方が口に合う物は多い」
「肉と魚なら今日の気分はどちらですか?」
「…今の気分ならば魚だ」
「…そうですか。わかりました」
「名前の手料理は何でも美味い。楽しみにしている」
そうして日誌を書き始めた横顔に、さてまたハードルが上がった、と考える。
どうしてこんな会話を繰り広げられたのか。
昨日、電車を降りた後、ジュエリーショップに向かおうとする背中を止め、何とかマンションまで帰ったものの、今度は「名前の手料理を食したい」と急に駄々っ子になったのが始まりだ。
本当に自分の夕飯以外、他人様にお出し出来る物など何も用意していなかったため、無理だと拒否した所、誕生日まで冨岡先生の髪を乾かす事、そして当日手料理を作るという条件付きで諦めてくれた。
どうしてもその条件を呑まざるを得なかったのは
「それが嫌なら下着姿を披露して貰う」
そう割と本気で脅されたためだ。
どちらを選ぶと言ったら断然ドライヤー&手料理な訳で、冨岡先生がそれを狙ったのもわかってはいるんだけど、こればかりは思惑通り手中に収まるしかなかった。


何を作ろうか、そればかり考えながら仕事をしていた気がする。
提出期限が近い物は粗方片付けたので、まだ途中のものは放棄する事にした。
挨拶を交わし職員室を後にしようとした扉の前、鉢合わせたジャージ姿につい一歩引してしまう。
「…帰るのか?」
「お疲れ様です。キリが良いんで帰ります。何持ってるんですか?」
その右手に持つ可愛らしい花束は、立体的だけど質感は紙のように見える。
統一された鮮やかな青色の薔薇が綺麗だ。
「竈門達が寄越した。折り紙で作ったものらしい」
「…折り紙なんですか?凄い良く出来てますね。きっと冨岡先生のために一生懸命作ったんでしょうね、竈門くん達」
それを想像すると頬が弛んでしまう。
「もう名前では呼ばないのか?」
わかりやすく眉を下げた表情に自然と口元が引き締まった。
「呼びません。というか呼べません。すみません、ほんと冨岡先生が思ってるより私にとってハードル高いんですよそれ。出来れば望まないでいただきたいです」
「…そうか。ならば名前を呼ぶのは抱かれる時だけで良い。それはそれで興奮する」
「今日の予定、全部なかった事にして良いですか?」
「駄目だ。名前が帰るなら俺も帰る。そこで待ってろ」
言うや否やデスクに向かう背に、出入り口で堂々としている訳にもいかず廊下の隅に移動して待つ事にする。
間を置いて職員室から出てきたその焦った表情が私を捉えた事で止まった。
「…どうしたんですか?」
「先に帰ってしまったのかと、思った」
「待ってろって言われたんで、一応待ってました」
「…そうか」
自然と繋いでこようとする右手から逃げると職員玄関へ向かう。
「スーパー寄って帰ろうと思うんですけど、冨岡先生はどうします?」
「共に行く」
「じゃあそこで食べたい物を考えていただけたら助かります」
内履きから外履きへ替え、玄関へ向かおうとした所で頭まですっぽりとその両腕と身体に包まれていて、眉を寄せる前に
「何の用だ」
最近にしては珍しく刺々しい口調で、胸板に押し付けられてる顔を僅かに上げた。
しかしそれも視界を遮る二の腕でジャージの生地しか見えなくなる。
…何があったというのか。

「そんなに警戒しなくても、君達に用がある訳じゃないよ」

姿は見えずとも響く声に心臓が脈打った。
聞き間違える訳がない。

あの人の、声。

思わず鞄を持つ手に力が入るも、それより更に強く包み込む両腕の苦しさで止めかけた呼吸を再開させた。
「それなら此処に何の目的がある」
「此処の校長と親父の意見交換会を予定してたんだけどさ、反故にされちゃったものだから、俺が説得しに来たんだよ」
説得という名の脅しでは、と出かかった言葉は
「説得ではなく脅しだろう」
全く同じ言葉を言う冨岡先生に止めざるを得ない。
「…嫌だなぁ。意見交換会は立派な仕事だろ?脅しも何もないと思うんだけど」
余裕な口調から短く笑う声に頭に来てその腕から抜け出そうとするがビクともしない。
「…ちょっと冨岡先生…」
「喋るな見るな聴くな」
一瞬有名な3匹の猿を思い出してしまった。
「言っておくが校長、教頭を手駒に取ろうとしているなら無理な話だ。既に俺が謹慎させられた経緯からその後は報告してある。お前の父親に会わないと決めたのは言いなりにはならないという意思表示だろう」
暫く沈黙が流れて
「これ以上名前の居場所を奪うつもりならば、あの音声をお前の父親に送ってやっても良い」
言い切った言葉に、だから私に何処かの観光地の猿みたいな事を言ったのかと、納得する。
私の表情の変化でそれが事実ではない事を、頭の良いあの人が察知してしまわないように。
「名前がそこまでしなくて良いと言っているが故、お前はそのまま何も変わらない環境で居られている。感謝した方が良い」
表情は窺えないけど、酷く冷たい声に冨岡先生って実は怖いのかも知れないと思う。
「その気になればお前もお前の父親も俺はいつでも潰せる。相打ちになろうが何の躊躇もなくお前達の喉元を掻っ切ってやるというのを忘れるな」
知れないんじゃなくて怖かった。普通に。
「…そこまで敵視しなくて良いんじゃないかな。俺はもう名前「名前で呼ぶな」…苗字先生には近付かないよ」
もしかして少し怯えてる…?
声の感じから察するに、完全冨岡先生の空気に飲まれていると思う。
「あそうだ電話しなきゃいけない所があったんだった失礼」
早口でそう言うと遠ざかっていく足音が聞こえ僅かに顔を上げた。
「……逃げ帰りました?」
「そうらしい」
緩まった両腕から抜け出した所で、その機嫌が下降しているのに気付く。
「校長と教頭に報告したんですか?私何も聞いてないですけど」
「詳細は話していないが気を付けろとだけ忠告はした」
「…そうなんですか。まぁ説明するとなると長くなりますしね。だから忠告通り意見交換会を拒否したんでしょうか?」
そんな事をして大丈夫なのか、と心配になってしまう。
「前から教育委員会のやり方に疑問は感じていた、そう言っていた。更に俺の謹慎を強制した事で不信が一気に加速したそうだ」
「成程…。校長も戦ってるんですね」
それはそれとして
「で、この手は何ですか?」
太腿を滑っていく右手を止める。
「怒りを鎮めている」
「鎮まるんですか?そんなので」
「名前に触れれば負の感情は全て浄化されていく」
「それは良かったですねって言いたい所なんですが学校なんでやめてください」
「今我慢すると後に爆発する可能性があるが、それでも良いならやめる」
「…わかりました。一瞬だけですよ」
言い終わる前に頭へ埋める顔に、まぁこれくらいなら可愛いものかと思ってしまった事で、随分寛容になったと自覚してしまう。
「…まだ戻してないのか」
一気に下がる声のトーンに何事かと考えてから答えた。
「使い切るまでは戻さないって言いませんでしたっけ?」
「それに関しては駄目だと答えた筈だ」
「駄目って言われても、そういう選択の自由を阻まれるような言動はホントに苦手というか嫌いなんですが…」
「あの男はお前を束縛しなかったのか?」
急に核心を突いてくる発言で心臓が脈打つ。
「そんな事訊いてどうするんですか?過去を掘り返しても楽しい事なんて何もないですよ」
「楽しみを期待している訳じゃない。お前の全てを知りたい。いつか仔細を訊こうと思っていた。束縛はしなかったか?」
「思い出したくないって前に言いませんでした?私にとって人生の汚点でしかないんで黙秘を貫かせて貰います」
「何も全て、洗い浚い話せとは言っていない。質問に答えるだけなら出来る筈だ」
「…とりあえず此処に居ても仕方ないので行きましょう」
腕から抜け出すと外履きを履く私の横、同じ動作をする横顔を窺う。
穏やかではないけれど、先程よりかは機嫌が悪い訳でもないらしい。
少し重ための職員玄関を押すと、私が出るまでそれを支える右手にふぅ、と息を吐いた。
「…束縛なんてしてきませんでしたよ」
小さく呟くと階段を下りていく。
隣に並ぶその顔が驚いているのを空気だけで感じ取った。
「あの人は最初から、私に興味はなかったんです」
何となく、そう何となく、ずっと感じていた距離感。
突き詰めていけば、きっとあの時答えに辿り着いていた。
それをしなかったのは怖かったからだろう。
「手に入るまでが楽しいっていうです。正に釣った魚に餌はやらないという言葉が似合いますね」
「名前は魚ではなく猫だ」
「そこを訂正されても、ただの言い回しで使っただけなんで…」
「釣った猫に魚はやらない、この言い回しでどうだ?」
「どうだって言われても語呂が悪い気がします」
「いや、しかしこの言い方になると名前があの男に飼われていたという示唆になる…それは駄目だ…」
またブツブツ言い始めてる…。
「お前はあの男の何処が好きだった?」
「急に戻ってきたと思ったら随分深く突っ込んできますね。普通訊きたくないと思うんですけど」
「一時であろうがお前があの男の事が好きだったのは紛れもない事実だ。それを否定しては前には進めない」
随分とまぁ、鋼のメンタルだなと階段を下り終えてから考える。
何処が、好きだったのだろう?
頭が良くて、回転も早くて口も上手くて、物腰も柔らかいから生徒達にも慕われてたし、多分、今もその外面の良さから変わらず慕われてはいると思う。
…それで?
それから?
「何処が…良かったんでしょうね?今思うと何ひとつ良い所が見つからないです」
あぁ、こうやって、人の気持ちって流されるように変わっていくんだろう。
つい口を出た本音に正門を出た所で繋いでくる左手から逃げようにも握られる力に眉を寄せた。
「学校は出た。問題ない筈だ」
「問題は山積みです。まず生徒に見られたら非常に面倒な事になります」
「俺は構わない。それを契機に名前との交際を公に出来る」
「また随分遥か遠くに行ってますけど大丈夫ですか?」
「こんな事を言うと、お前は怒るかも知れないが…」
一度置いた間に、チラリと横を見ればその横顔は真っ直ぐ前を向いたまま。
「俺はあの男に感謝している」
一気に眉間へ集まる皺も
「お前の身に起きた事象は口に出すのも憚れる程、酸鼻なものだとは重々承知した上で言わせて貰うが、あの存在がなければ、俺と名前が出会う事はなかった」
温かさを含む声色に弛んでいく。
「それが例え喜楽ではない過去でも、名前という存在が形成される上で必要不可欠なものだったのだと、そう考えている」
「…だから過去を悔いるなって言いたいんですか?」
「そうだ。例え今は救いようのないクズ男にしか見えずとも、あの時のお前には何かしら惹かれるものがあった。間違っていたと思う必要はない」
更に力が籠る左手に視線を落とした所で
「俺はお前の全てを肯定する。だからお前も自分を否定しなくて良い」
心の奥底を揺らすような台詞に足を止めてしまう。
「冨岡先生って実は凄く客観的で論理的思考の持ち主ですよね」
暴走さえしなければ、あの人や私なんか非にならないくらいだ。
当の本人は気付いていないのだろうだけど。
小さく息を吐いて歩き出す。
「そうですね。今はもう思い出せなくても、好きだったというのは変わらないんでしょうね」
父と母のように、その経験があるから次に進めるのだと、そう思えば全部が全部、悪いものじゃなかったのかも知れない。
お礼を言おうとした矢先、無理矢理押し込まれる両腕に眉を寄せる。
「…何ですか?」
「お前の口からその言葉は聞きたくない」
「すみません、それは失礼しました」
締め付ける力と悲痛な声色に、咄嗟にそう返してしまった。


良く考えたら矛盾してる


(…だから掘り返さない方が良いと)
(今は俺が好きだと言ってくれ)
(この状況で服を脱がそうとしてくる人は好きじゃないです)


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