「俺が持つ」 そう言って差し出された右手に、迷いながらも今しがた購入したばかりのドライヤーが入った袋を預けた。 もう1つの紙袋へ落ちる視線に先回りして答える。 「こっちは良いです」 流石に女性用下着を持たせる訳にはいかない気がする。何となくだけど。 納得したのか歩き出した背中についていきながら、口を開いた。 「ありがとうございました。買おうとしてくださって」 申し訳なさからつい声が小さくなるも 「気にする必要はないと先程も言った」 涼しい口調に返せる言葉もなくなってただ黙ってその背を見つめる。 この人って本当、誰かに何かをしてあげる事に関して、感謝や見返りを押し付ける事がないな、と考えた。 右手に持つドライヤーも、安物で済まそうとする私に、わざわざ結構なお値段をする物を選んだと思えば有無を言わさずレジに持っていってしまうものだから、これだけは自分で買いますと慌てて代金を支払ったのが蘇る。 「名前の良心に訴えかければ下着姿を見せる決心がつくんじゃないかと思ったが…失敗した…」 か細いながらしっかりと聞こえた心の声に、もう呆れしか出てこない。 「まだ諦めてなかったんですね、それ」 散々拒否した私に、引き下がったと思ったんだけども。 「今日という日が終わるまではまだ可能性があると考えている」 「いや、ないですよ。絶対にないです」 駅の改札前、急に立ち止まる冨岡先生にぶつかりそうになるのを寸での所で回避したが、振り返る姿に一歩後ずさった。 「切符を買っていなかった」 「え?あぁ、冨岡先生電子マネーじゃないんですね」 「名前はそうなのか?」 「えぇ。研修とか勉強会とか、仕事で意外と電車移動が多いんで作りました。これ持ってるとちょっとした買い物なんかで財布出すの面倒な時とかタッチするだけですし、結構便利ですよ?」 スマホを見せる私にその眉が不思議そうに動く。 「その中に入ってるのか?」 「私の場合はそうですね。モバイルで連動させてるんでスマホの中に入ってます」 恐らく言ってる半分も理解出来ていない表情も 「冨岡先生も作ってみます?カードならすぐ出来ますよ?」 軽い気持ちでした提案でキラキラとその瞳が輝いた。 good boy タイミング良く空いている多機能券売機の一台に立つと、えーと、どれだっけ?と一瞬考える。 「ここの購入を押していただいて…」 「これか」 出てきた次の画面に一度その顔へ視線を向けた。 「無記名式と記名式どちらが良いですか?」 「それはどう違う?」 「要は紛失した時、再発行が出来るか出来ないかの違いです。あとはカードの表面に名前が記載されるかされないかですね」 「そうか。ならば記名式にしよう」 「わかりました。じゃあ、こっち押していただいて…それに同意して、ご自分のお名前をお願いします」 「自分の名前じゃなければ駄目なのか?」 「何でそこで驚くんですか…」 「名前の名前にしようと思った」 「名前だけじゃなくて生年月日と電話番号も登録するんでそれだと再発行出来なくなりますよ?」 「再発行について重きは置いていない」 「置いていなくてもご自分の名前を入れてください。じゃないと色々不便ですよ」 「名前が入れてくれ」 「何で私が…」 言い掛けたものの、後ろに並ぶ人の気配が感じ、口を噤んだ代わりに眉を寄せながら"とみおかぎゆう"と入力していく。 西暦何年かと訊ね生年月日まで終えた所で 「電話番号お願いします」 促せば口頭で伝えられる11桁の数字を押していく。 「チャージ金額は…往復を考えると2000円で良いと思います」 「わかった」 ものの数秒で出て来たカードに、わかりやすく驚くものだから頬が弛まった。 「こんなに早く出来るものなのか…」 退きそうにない腕を引くと、小さく頭を下げて後ろへ順番を譲る。 「やってみると簡単じゃないですか?でもそれ 1500円分しか入ってないんで残高不足には気を付けてくださいね」 「不足したらどうなる?」 「改札機に阻まれます」 この人ならやりかねないなと小さく笑うも、カードを見つめる瞳は真剣そのものだ。 「名前は、俺の名前を覚えてくれているんだな」 「…あぁ、まぁ、はい。フルネームは仕事で書く機会が多かったんで覚えてますけど…今更じゃないですか?」 特に冨岡先生の場合、始末書に近い報告書を赴任当時から大量に書いていたため自然と覚えてしまった。 「"義勇"って良い名前ですよね」 口を突いて出た言葉に、弾かれたように上げた顔が驚きに満ちている。 「…何ですか?」 「名前が…義勇と…」 「…すみません、失礼でしたね。これでも前は国語を専任してたんで漢字に関して深読みしたがる傾向があるんです。冨岡先生の名前は親御さんの想いが真摯に伝わってくるな、と思ったのでつい口に出てました」 「謝らなくて良い。そのまま義勇と呼んで貰って構わない。寧ろ呼んで欲しい」 「いえ、良いです。大丈夫です」 「俺が大丈夫じゃない。呼んでくれ」 「嫌です。冨岡先生は冨岡先生なんで今更変えられませんし変える気もないです」 「それなら今日だけで良い。今この時間だけで良い。名前と恋人同士だという雰囲気を味わいたい」 真剣に見つめる群青は心なしか寂しそうで、どうしたら良いのやら、こちらも真剣に悩んでしまう。 悩んだって急に名前でなんか呼べる筈もない訳で、溜め息しか出ない。 「もう少しで電車来ますよ。早く人生初電子マネーでピッとしましょう。最初は楽しいですよ」 そう言うも途端に下がった眉に 「…行きますよ。義勇…先生」 詰まってしまった気恥ずかしさからすぐ背を向けたから、その表情がどんな顔をしていたかわからない。 それでも改札を抜けて振り返った先、嬉々としてカードをまじまじと見つめる姿に、思わず小さく笑ってしまった。 ホームまで歩きながら、無造作に上着のポケットにしまうその右手を追う。 「大丈夫ですか?それ。落としたら面倒ですよ?」 「ならば名前が持っていてくれ」 「…まぁ、良いですけど」 受け取ってなくさないよう鞄へとしまう。 ホームに着いたと同時、開かれた扉に眉を寄せるのは、タイミングの問題か、混雑している車内を目に止めたから。 どうします?と声を出すより先に掴まれた右手でそこへ乗らざるを得なくなった。 まだ若干、人と人との余裕がある空間も扉とロングシートの端の仕切り板に追いやられて息を飲む。 「…近くないですか?」 「護るためだ」 「護るって何から…」 「名前に触れようとする人間からだ」 「そんな人居ないと思いますけど」 「故意じゃなくともこうも混んでいれば触れる可能性が高い」 「見ず知らずの人間より今目の前に居る犬の方が危ない気がするんですけどね…」 そうは言ったものの、まるで全てのものから遮るよう包み込む姿に心臓が脈打つのはいつもとは全く違う環境に身を置いてるからだ。 気付かれぬよう見上げた先、遠くを見つめるその顔は相変わらず整っているけれど、浮き出た喉仏の雄々しさに、今更ながらこの人も男の人なんだな、と考える。 居た堪れなくなって視線を落とした所で、大きくなった揺れに、ついしがみ付いた二の腕。 その先が私の背中を支えていて、あれ?何か、ちょっといつもより格好良くない?なんて考えた思考を無理矢理止めた。 暫く揺られた所で 「…見えてきた」 小さく呟く声に視線を上げれば、 「海だ」 その一言と共に弛まる腕に扉の方へ身体を向ける。 未だ一定を保つ速度で僅かにしか見えないが、確かに建物の隙間を縫って水平線が見えた。 「…海ですね」 徐々にゆっくりになっていく景色からホームが見えた頃、まばらに降りていく人の中、私達も地面に足を着けると預かっていた電子カードを冨岡先生に返し改札を出る。 また無言で渡してくる右手に何か言おうにも、落とされたらそれはそれで面倒なので大人しく受け取る事にした。 真っ直ぐ海へ向かおうとする背中に 「ちょっと待ってください」 そう声を掛けて辺りを見回す。 「…どうした?」 目当てのものを見止めてから口を開いた。 「荷物、ロッカーの中へ入れていきません?」 そうして指を差した先を群青の瞳が追ってから続ける。 「流石に潮風に当てたくないんで。電化製品は特に」 自分の右手に視線を戻す間の抜けた表情に小さく笑ってしまった。 ザァ…ッ! 近付く波が打ち寄せる音と、潮の匂いに逸る心を更に急いたのを感じ、砂浜へと足を踏み入れる。 何年振り…、いや十何年振りだろう。 自分から望んで海を訪れたのは。 「綺麗ですね」 呟いた言葉は時折吹く海風に消えたのか、横に居る冨岡先生が何も答える事はない。 「…寒いですね」 次に出した声は聞こえたのか、こちらを捉えると抱き締めてこようと広げる両手に身を引いた。 「そういう事を望んでるんじゃないんで大丈夫です」 制止してから鞄からビニール袋に入ったシートを取り出すと、砂浜へ敷こうとする私に応えるよう反対側を持つ両手に、本当に察しが良い人だと関心する。 「用意が良いな」 「折角来るならゆっくり見たいと思いまして」 飛んでしまわぬよう鞄と脱いだ靴で端を押さえ座り込んだ海岸。 私達以外誰も居ない空間に何故か笑ってしまいそうになるのを堪えながら鞄から未開封のカイロと小さなブランケットを取り出す。 「どうぞ。使ってください」 「…用意が良いな」 先程と全く同じ台詞に苦笑いが零れた。 「冨岡先生、絶対軽装で来ると思ったんで用意しておきました」 途端に不満気になる表情に何か失礼な事を言ったかと巡らせる。 「…すみません。呼び方はすぐにどうこう出来るものじゃないんですよ」 「それはわかっている。言い直してくれれば良い。義勇と」 「…義勇せ「先生は必要ない」」 そう言われるともう名前を呼ばない選択肢しかなくなってくるなと考えながら海を見つめる。 あぁ、でも、そうか。 ご両親は、一生懸命考えたのだろう。 産まれてくるかけがえのない存在のために。 それはもしかしたら、お姉さんもそうかも知れない。 打ち付ける波の音を聴きながら、カイロを開ける両手から出た空き袋へ掌を差し出す。 意味を気付いたのか乗せてくるそれを鞄へ忍ばせていたゴミ用のビニール袋へ入れた。 「いつも思うが、名前は先回りが得意だな」 「今のは普通の事だと思いますよ」 「今だけじゃない。お前はいつもそうだ」 「と…ご自分だってそうじゃないですか」 危ない。また名前を呼んでしまいそうになった。 「俺が察せるのは条件も限りもある。名前は一切の際限がない」 「そうですか。じゃあそれは自然と身に付いた処世術って所ですかね」 「…俺には、その処世術というのがわからない」 目線だけ動かした右横、海を眺める横顔に一度視線を落としてからまた打ち付けては引いていく波を見つめる。 「月並みですけど、こうしてると私達人間ってちっぽけだと感じません?」 水平線の向こう、世界は繋がっていて私が知らない場所も知らない人も、それこそ数え切れない程に存在している。 「処世術なんて使って生きていく方が下らないんですよ。本当は」 それでも私は、それを武器にしないと生きていけないから、冨岡先生の事が羨ましく思う時がある。 それと同じように、冨岡先生はそうして生きるしかない私を羨ましくなるのだろうか。 ないものねだりとはこういう事なのかも知れない。 無意識に立てた両膝を抱えれば 「寒いのか?」 気遣う台詞に水平線を眺めながら 「大丈夫です」 そう短く答えるも、距離を詰めると掛けられるブランケットに眉を寄せた。 「俺が寒い。名前で暖を取りたい」 そう言うと身体を寄せる右の温かさに、つい逃げようとするのを止める。 こんな寒空の下、ただ波打つ海を眺める私達は傍から見たら奇妙に見えるのか、とふと考えた。 「防寒してまで海が観たい程好きなのか?」 「私がというよりは…父親が好きだったんです。こうやって海を眺めるの」 素直に口から出たのはもはやこの人の魔力に近いのかも知れない。 「私が下らない事で母と喧嘩した時も落ち込んだ時も、決まって海に連れて来てくれて時間も忘れて一緒に眺めました。今思うと父も海を眺めると気持ちの整理がついたんでしょうね」 鮮明に思い出した光景にあぁ、意外に覚えているものだな、と冷静に考える。 「母と離婚すると告げられたのも今みたいな寒い時期でした。最後にこうやって、海を眺めたんです」 あの時私は、困らせたくない、その一心で子供ながらに聞き分けの良いふりをして、子供だからとわからないふりをした。 「父親とは会ってないのか?」 「父も再婚したんで今はたまに連絡が来るくらいですね」 無言のまま頭を撫でてくる左手の温かさは、正直、少し心地好いと思う。 「誰かと海に来たのは今年初か?」 相変わらずブレない言動に笑ってしまいそうになるけども。 「今年初どころか父親を抜かせば人生初ですよ」 素直に答えれば、撫でていた手が一瞬止まったもののすぐに同じ動きを繰り返した。 この人ってこういう時は、何もしてこないんだよな、と考えながらただ大海を眺める。 「…好きだ。結婚したい」 「また突然ですね」 「お前と結婚したら俺が幸せだ」 「随分利己的な考えじゃないですか?それ」 「名前を幸せにするには俺が幸せでないと叶えられない」 あぁ、それは確かにそうかも、と納得してしまうも 「返事が聞きたい。はいかイエスかオーケーか承知か快諾か。どれだ?」 冨岡先生らしさについ笑ってしまった。 情景は勝絶だけど (見事に全部同じ意味合いを探してくるの凄いですね) (合意、了解、承認、歓諾、唯諾、他にも色々ある) (わかりました。返事はいいえ一択でお願いします) [ 62/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
|